新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

南郷継正の「夢を動かす」について~

2024-01-11 07:31:57 | 「わたし事・学」
南郷継正の「夢を動かす」について~


私は誤解していた⇒南郷継正の「夢」を…
私は失念していた⇒南郷継正の言葉を⇒「私の言葉は論理」を…

論理のレベルには、現象論・・構造論・本質論レベル…がある。
夢には、夜見る夢・白昼夢・人生の夢…がある。

私は、私の夜見る夢の中で、夢を動かした。
私は、夢そのモノを動かせただろうか
私は、人生の夢「悟りを求めて~」を動かせただろう?
人生で日常の変化・過程で「悟り」を使って頭脳・感情をコントロールする事。
そもそも…本当に私は「悟って」いるのだろうか?


南郷継正は、言っていた?書いていた!
「私は、認識を三回変えた」⇒「弁証法学・認識学・論理学」


結論から書くなら…

南郷継正は、
初めの夢「弁証法」⇒「弁証法」を駆使して「認識論学」⇒「論理学」⇒「弁証法唯物論哲学」
成る程…南郷継正は、「弁証法体得の夢」⇒「弁証法唯物論哲学(学問)・完成の夢」に変えた!?!


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24 コメント

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お宅の認識力不足!? (自由びと)
2024-02-06 12:45:41
>コメントを書いた人
>弥勒

>・コメント
>自由びと氏

>相互浸透というか、私もお宅と関わり合いたいとは思いませんね。お宅は本当に十年一日で全く進歩というものを知らない人ですから。関わり合っても無益というより、寧ろ害悪ですからね。


「…関わりたいとは思わない」お宅が、
何故に、この自由びとブログにコメントを書き込み続けるのか?

それも自由びとブログの記事・コメントを読んでの書き込みを、である。

それは、確かに「直接的な自由びと認識との相互浸透」ではなくても、間接的な「自由びと記述を読んだお宅認識との相互浸透」にはなり得るモノ、だろう。

仮に、自由びとを馬鹿にして、お宅コメントを書くなら、それは(お宅の)他人を馬鹿にする認識との相互浸透になり得るだろうし…

また、仮に自由びとを尊敬して、お宅コメントを書いているなら、それは(お宅の)他人への尊敬の観念との相互浸透になりえるモノだろう。


要するに、心の底から本心からの「相互浸透の拒否」なら、単純にコメントを書き込み停止すればいいのだ!
そのような行為の実行なく、コメント書き込みを続けるお宅の認識は、運動矛盾そのモノ連続であるだろうに…
その矛盾に気付けないのは、お宅には自身の認識・運動を見て取る実力が不十分だからなのだろう…
返信する
Unknown (弥勒)
2024-02-04 07:53:51
自由びと氏

相互浸透というか、私もお宅と関わり合いたいとは思いませんね。お宅は本当に十年一日で全く進歩というものを知らない人ですから。関わり合っても無益というより、寧ろ害悪ですからね。

tada氏

天才というのは勿論、ジョークを込めての発言ですけどね(笑)

お宅のコメントも切り離された単語ばかりで価値ある論考のカケラもありません。「第三権力は初期の滝村理論で、国家論大綱では政治的権力に昇華されている」という理解は余りにも浅はかで滝村先生の文章を理解できていないのは私よりもtada氏だと思われますね。

21世紀に入って本当に技術革新が進んできて、今ではマウス・イヤーという言葉が死語であるかの如くに若者がネットを使ってドンドンと進化しています。

私のような人間でも分厚い本を読破しなくても必要な知識だけを切り取って知ることが出来ますから理解が速いんですね。
滝村先生の「第三権力」というのは、イワユル現在の世界で3割の国家だけに存在するとされる「民主主義」における話しだと考えますね。
ですから、その萌芽は古代アテナイにおけるソロンの改革だとかの辺りの民主主義で、貴族と平民との間に立法・司法が割って入って古代民主主義が成立したことから、弁証法的な螺旋的発展で現代の民主制に復権というか、発展した核心・本質を指しているのだと考えますよ。

南郷先生が林健太郎の『歴史の流れ』や『世界の歩み』を推薦していましたけど、あの古代アテナイの頃をもっと詳細に知ることが第三権力の理解を助けると考えますね。

それが、その後の「民主制→専制」という弁証法的な対立物の統一でアジア的国家の研究に向かったのが滝村理論だと考えますね。滝村先生の、エンゲルスの古典世界の一般化という批判はそこから来るのだと思います。
返信する
状況・条件が違うのに… (自由びと)
2024-02-03 16:51:33
「弥勒」という名を汚す弥勒お宅へ~

>>自己責任

>お話しになりませんね。お宅は本当に学校教育関係者ですか?


ここで…何故にお宅が「学校関係者」と問う理由が不明ですね…
そもそも…田〇氏は学校関係者ではありませんし…
また、肥〇さんも大学生でも学校関係者ではありません。

学校と全く無関係で発生した事件…
しかも双方が立派な大人・社会人間での事件を「中学校と同等に扱う」とは…」

大人の社会人のスポーツ・武道…のサークル活動は、全ては基本的に自己責任です。
それに対して、未成年…特に小・中・高校生…は、自己ではなく親の責任なのですよ!


彼らの間で発生した事件と>須賀川市第一中学柔道部暴行傷害事件<とでは、状況・条件が大きく異なっています。

なのに…そんな条件・状況…の異なっている事件を比べて「…について調べて下さい」…とは、何と論理能力に欠如したお宅でしょうか…



>加害者(田島に相当する側)は1億円以上の損害賠償金を支払っているんですよ。<


中学校の柔道部での事件とオリンピックでの柔道試合での事件を同じように扱えそうですね…お宅なら!




>田島は犯罪者、誰がどう見ても自明のことです。

↑本当にバカ駄目ね!お宅って…
子供の万引きと大人社会人万引きを同等に扱って、
子供も大人のように前科モノにすべきだ!と…主張している…ように思えますね…


まあ~このお宅にとっては、論理・論理的…なんてどうでもよい事なのでしょうね…
要するに、このお宅は、玄〇会=悪の犯罪組織・犯罪者養成組織…としたい、ようですね…
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-29 07:26:33
>自己責任

お話しになりませんね。お宅は本当に学校教育関係者ですか?

須賀川市第一中学柔道部暴行傷害事件について調べて下さい。加害者(田島に相当する側)は1億円以上の損害賠償金を支払っているんですよ。

田島は犯罪者、誰がどう見ても自明のことです。
返信する
Unknown (tada)
2024-01-28 15:45:32
自由びとさん 弥勒さん こんにちは

あれから高岡さんの本を読みながら 南郷武道シリーズも読んでいます。このお二人の技と力に関する論考が面白いです。高岡さんのほうは 身体認識を強烈に持って 力のトレーニングし 技の崩れを防ぐ理論ですが 南郷さんは技に乗るような力のトレーニングを重視しています。この点に関しては 運動理論からも南郷理論のほうが理に適っていると思いました。武道の理論はいいですね。名著です。

 滝村理論ですが 第三権力論は初期の論考であり 国家論大綱では 政治的権力という概念規定で昇華されています。これがわからないとは 困ったものです。高岡さんの本の中でも 論理学レベルで 同じことを言っていますが 気付かないのでしょうね。滝村さんの考えを理解できないことを 滝村さんのせいにして 自分が天才であることを 滝村さんが嫉妬したなどということをぬけぬけと言う 中二病の50男の弥勒さんは バカなんですか? 

答え 天才バカボンです。
返信する
こんなお宅との相互浸透は嫌! (自由びと)
2024-01-28 08:37:36
>弥勒

>・コメント
>自由びと氏

>>理解不能
>相手の立場になって考えられないから理解不能なのですよ。お宅の考えは以前からそこで止まっていて「理解不能」のままですから、別に今始まったことでもないでしょう。
>玄◯=お宅のやったことは犯罪行為だということ、それは私が明確に言語化していますから、それが理解できないのは理解したくないから逃げて目を逸らしているだけのことです。


「>相手の立場になって考えられないから理解不能なのですよ。」

は、ここでは、チョット違っていますね!

>「相手の立場になって…考えられない」でしなく、
<こんな相手の立場なんかに立って考えたくない!>なのです。


より正確には、お宅のような、
その対象を己が主観的・否定的側面から説くばかりで、
その否定的側面を肯定的に捉えられない・捉えようとしない者の「立場なんかで考えたくない!」ですよ!

そんな事をしたら、それこそ、超・悪しき相互浸透になってしまいますからね…

そもそも…「犯罪行為」とは、何ですか?
ボンシングの試合で、相手を死なせたら、「犯罪者」ですか?
スポーツの試合で、相手を死なせたら「犯罪者」ですか?
柔道の試合で、相手を死なせたら「犯罪者」ですか?

違うでしょうが…そんな社会的・常識的に考えずに、
「玄〇会は犯罪行為…」とか書けない、
そんな、お宅の立場なんか死んでも立ちたくありませんね…


それら全ては、相手の罪・責任ではなく、自己責任だ!そうです。
もっとも…反則行為で、死に至らしめたら…問題になるそうですが…


更に書くなら~
真の武道の試合に反則はあり得ません。

私が体験した空手の組手練習では、「金的」を蹴られたら、蹴った方ではなく、蹴られた方の責任!でしたよ。

上段も当てたほうではなく、当てられた方の自己責任。
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-24 07:45:23
自由びと氏

>理解不能
相手の立場になって考えられないから理解不能なのですよ。お宅の考えは以前からそこで止まっていて「理解不能」のままですから、別に今始まったことでもないでしょう。
玄◯=お宅のやったことは犯罪行為だということ、それは私が明確に言語化していますから、それが理解できないのは理解したくないから逃げて目を逸らしているだけのことです。

tada氏

>身体認識 
まあ、何も考えずに嫌がらせで書いているのは分かっていますけどね(笑)、tada氏は所々で専門知識を使いはしますけど「学的能力」というものを持ち合わせていないようですね。真面目に勉強していない人に親切に教えてあげる必要もないわけですが高岡先生が「身体意識」と言うときのバックボーンにある学知は「医学」だと私は思います。「スポーツ医学」という競技者の健康を維持するばかりでなく競技力を高めようとする専門領域でも医学の知見が活用されているのですね。その時の「意識」とは脊髄反射のように外界からの刺激に反応できるということが問われるわけで、対象をどれだけ深く詳しく理解しているかという認識が問われるわけではありません。だから長嶋茂雄が打率は高くても言ってることが何か変?みたいに言われたりしたわけです(笑)。

それから去年の10月28日のtada氏のコメントを改めて読んでみたのですが良く分からない(笑)、おそらくご自分でも何を書いているのか分かっていないのだと思いますけど、私はそれで滝村先生の『国家論大綱』第一巻(下)を開いてみて「理論総括」の所をピラピラ見たんですよ。「第三権力」について書いてある。そこの滝村先生の記述も何だか隔靴掻痒というか、不明瞭なこと書いていて、私からするとヘーゲルのエンチクロペディの量質転化の記述を焼き直してるだけのように感じましたけど。

残念ながら滝村先生は世界水準の学者ではなかったということだと思います。こう述べると反感を買うかも知れませんけど、滝村先生が2度と私と会ってくれなかったのは私の天分を見抜いたから、私が天才だということに嫉妬したからだと思われますね(笑)。

今の私が思うには「第三権力」というのは「国家の本質」ではなくて一つの機能・役割りなんでしょうね。それはズバリ「労使問題」ですよ。エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で扱い、マルクスが『資本論』なんかで扱っていた
彼らの「共産党宣言」という思想の収斂するところの「資本家と労働者との関係性を正す」みたいな領域の、
現代日本で言ったなら太平洋戦争が終わってから作られた厚生労働省の所管の「労働基準法」なんかで経営者側と労働者側(労働組合側)との間に立って労働者の生活や人権を守るようなのを「企業組織と労働組合組織とのMachtとMachtとの間に入るMacht」という理解だったのだと思います。

それを例えば法務省の所管の「独占禁止法」みたいな国家としての自由主義経済を基盤にして作られている法律や国家公務員法だとか地方公務員法だとかを全て「第三権力」として考えようとしたならば上手く理解できませんから。

やはり「第三権力」というのは「労使問題」を国家を抜きに考えたならどうなるか?をアナルコサンジカリズムだとかの例で考えるところに成立するもので、不当に拡大解釈すべきものではないと思いますね。
返信する
~理解不能~ (自由びと)
2024-01-21 18:45:51
弥勒さんへ

何で、以下のよう確信が生じたのかが自由びとには、理解不能・不明です。

>自由びとの発言で確信しましたけど、玄和空手というのは犯罪者への道だということですよ。


まあ~お宅の弥勒の思考は、以前から自由びととは相いれないモノがあったので…
当然と言えば、当然なのですが……
返信する
う~ん… (自由びと)
2024-01-21 18:37:57
こんばんは、tadaさん

>もし 試行への掲載を続けられたら あのまま 吉本さん、滝村さんとの交流が続いていたら 南郷武道論も極意論、勝負論を充実させることができ 認識論を極めた武道論が完成していたでしょう。少なくとも 生命史観や弁証法での間違いはしなかったでしょう。


南郷氏の憧れは、哲学だったようで…
弁証法を哲学の生まれ変わりと信じて、弁証法の習得・修得の為の空手だったようですから…
>「南郷武道論も極意論、勝負論を充実させることができ 認識論を極めた武道論が完成していたでしょう」…だったとしたら、
南郷氏の今のような哲学へ道は、なかったのでは…ないでしょうか…
返信する
Unknown (tada)
2024-01-21 06:53:41
自由びとさん 弥勒さん こんにちは

高岡英夫さんの本 初めて読みました。面白かったです。本質的には野口三千三氏の後継者ですね。高岡さんと自分の認識はそう変わらないので 高岡さんの人気の秘密・魅力は身体認識、身体操法にあることがよくわかりました。南郷さんが武道講義で弁証法の問題に傾倒していく中 高岡さんが 南郷武道論の先を展開していたようですね。実に面白い。タラレバですが もし 試行への掲載を続けられたら あのまま 吉本さん、滝村さんとの交流が続いていたら 南郷武道論も極意論、勝負論を充実させることができ 認識論を極めた武道論が完成していたでしょう。少なくとも 生命史観や弁証法での間違いはしなかったでしょう。つまり原基形態だけにこだわる方法論から完成形をも前提にした方法論の展開を進めることができたのではないかと 夢想しましたね。付け加えておきますが 高岡さんの方法論は 機能主義的な欠陥はあるのですが 完成形を肯定的に 前提的に考える点が優れています。

吾不復夢見玄和。(古代中国の聖人は夢に周公を見ずと言ったそうです。)
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-16 12:42:10
>自分より弱い味方には、その弱さ、現実に闘う事無く、気付かせてあげたいと思っています。

お宅は誤解しています。武道を学んでいるとか強い弱いとか無関係に人間は人間としての己れの尊厳を守られなければならないのです。
田島が肥田を掛かり稽古で倒した件は玄◯内部で揉み消すことが無ければ立派な「傷害罪」であり犯罪行為です。肥田の「若さ」とは「玄◯会を退会したこと」ではなく「田島を訴えなかったこと」ですよ。

掛かり稽古というのは字義どおり一方が掛かっていくことを義務化された、南郷先生いうところの「待ち時間自由の自由攻防」でないところに本質があります。ですから、掛かっていく側の肥田は掛かっていったり掛かっていかなかったり、掛かっていくと見せかけて掛かって行かなかったりといった駆け引きをすることを禁止された稽古方法です。
そして、受け手側の田島に肥田からの直接の加撃が許されるはずもない稽古なはずですよ。

にも関わらず、自分に直接の加撃が加わらないばかりか絶対に掛かってくる予想どおりの接近のタイミングに合わせて顔面に突きを眼窩底骨折をするほどの威力で放ったのは故意であろうが不慮の事故であろうが傷害であり犯罪行為です。

訴訟が起こされたなら間違いなく田島は有罪の前科者で、前科者を団体の総長にするはずもありませんから、肥田が若くて武道をする人間が法律や警察の力で話しを処理することに違和感を感じたが故に事実上は示談の形となってお互いの和解が成立しているとの話しに作り上げられているのだと思います。

話しを公にしたならば掛かり稽古の受け手の田島が恐怖を感じて肥田に直接の加撃をしてしまったなんてのは武道家としての技量が低いことの証明ですし、社会的な法の裁きで刑務所に入って罪を償ってくるのが当然です。

ですが、大相撲の日馬富士の引退にまつわる事件にもあるように、下の者への教育指導における暴行・傷害によって国民社会の法的判断によって引退に追い込まれた横綱・日馬富士ですが、土俵上での相撲が強くなることで業界内での権力や発言力を得ていく大相撲の相撲道において自分への暴行傷害を相撲が強くなることで見返すのではなく国家的な法判断で回避した貴ノ岩はそのまま相撲道を歩くことを許されずに翌年引退に追い込まれたのは「道」というものを考えさせられるものではあります。

闘わずしてどちらが強いか分からせるなんていう自由びとの我欲に固まったチンピラな発言が、強かろうが弱かろうが別に立ち合いを挑む気もない平凡な市井の社会人である私には失笑でしかありませんけどね。

私は悠季真理と口を効いたこともありませんけど姿は見たことがありまして、正に「考える葦」というか、この人、身体は全く動かしてないのだなー、という身体であったことは、自由びとのチンピラな考えに通じるのかも知れませんね。

自由びとの発言で確信しましたけど、玄和空手というのは犯罪者への道だということですよ。
返信する
名誉毀損…ですよ♪!♪ (自由び)
2024-01-16 10:32:29
>コメントを書いた人
>弥勒

・コメント
>>事実?デマ?とも分からない他人の

>それは多くの人から証言を得て私の中では事実だと確信しています。その吉本隆明さんの所に届けられた玄◯会の女性会員の手紙はコピーを取って『試行』の執筆者全員に回されたそうですよ。


例え~その人物の言動・行為は、認識・感覚可能でも…
その本心・本音は、同じようなココロの持ち主にしか、分からない・想像・幻想・夢想・空想…不能なのでしょうね…
「以心伝心」・テレパシーは、漫画「ミュータント・サブ」や「幻魔大戦」のSF・空想の世界での話ですかね…






>それを南郷先生は釈明しなかったようですから、『試行』の執筆者たちからは村八分で連載から外されて、以後は吉本さんとも滝村さんとも縁が切れているそうですね。私は吉本さんと滝村さんの両方の親族から聞きましたけど。


それは、それは…「世界中を敵に回したくも、なり得ますね…」

成る程…彼のあの叫び…の現実がハッキリ理会できました。…

そうそう先日~
息子に「悟りが分かった!」と言ったら、
「もうその話は止めて!」と強く言われ…
「御免・ゴメン!これで最後にするから聞いて!」と言って…




確かor不確かは不明ですが以下のような事を言ったかも…

人間には、理性と感性、アタマとココロ…があって…

頭がいい・賢いには、「知識的頭・物覚えがいい」と「ココロ的賢さ・自己の目的達成の為の柔軟さ」がある。

○○(息子)の友達には、勉強のできる奴・勉強はできないけど…楽しい・面白い奴がいて、お前は、両方の友達と、今の付き合いが続いている…それは思うに凄い事だよ!






>それで手紙を出した女性会員を退会させずに残したのだとしたならば、自由びとさんの言う「私のこと好き?」という問いへの「Yes」との回答だとも解釈できますが、そこまでは確かに断定は出来ませんけどね。


「好きにも色々あり!」


友情的好き。
異性的好き。
愛情的な好き。
憎いが好き。


恋愛の対象としての好き。
恋人として好き。
結婚・一生の伴侶として好き。

可愛い(子供的)に好き。
面白いから好き。
純粋だから好き。
肉体関係を持ちたい・セクシーだから好き。


人間の気持ち(心の変化)が千差万別なら、その「好き」も有限(人類の数・ココロ型の原型)的な無限大(駆使・使用・変化的)無限大ですね。




>ちなみに、夢を叶えるということを京都の寄筆さんを成功事例として検討すると、結果としての「大学教員となる」ということには結構回り道しているんですよ。個人情報というか公開されている情報ですから書きますけど、10代の若い頃に京都大学という一流大学に入ることで「学的な道を歩く」ということでは王道に乗っているんですよね。でも、その時には大学教員となるとの夢を持って専門分野の倫理学で修士課程には進まずに企業に就職してるんですよね。




それは、「まだ夢の途中の『夢みる途中』」、(過程の構造・構造の過程)ですかね…




>それを数年で退職して臨床心理士の資格を得るために大学院に入った。でも、その時も大学教員になろうとは思っていなかったんじゃないでしょうかね、資格を得て卒業してからは病院での臨床を選んでいますから。


Change of the place
Change of the brain   ですかね~



私的には、ヘーゲルみたいに、学生諸君!
なんて一度は、やって、みたいですね♪
ただ…小学生でも…低学年と高学年では、その扱い方・教育的に関わる方法が難しく…
ましてや…大学生となると…今の私には、無理・無理なのかも…ですね…(残念無念)




>それで随分と臨床経験も重ねて次はどうするか?みたいな頃に選択肢として上がったのが開業することと、似たような経歴で大学教員となっているロールモデルを見つけたということじゃないか?と。



人生に、ローモデルハイレベルもない…と思いますよ。
それは、生きている当人の認識・意識・目的の相違・問題でしょうね…

何に重き気をおくか…の相違ですね…


人間―「起きて半畳・寝て一畳」、
父の口癖は、「財産なんか、いくらあっても、死んだら、持っていけない」・「それも(結果の全ては)運命だよ」


私は、漫画「海皇紀」の主人公 ファン・ガンマ・ビセン のように、
自分の船の舵を握ったたままで、立って笑って死寝る人生がいいですかね♪♪♪
そうそう弁慶とは、真逆的な「立ち往生」ですね。

目的達成の為の苦しみ・痛み的「立ち往生」。
人生に満足して、笑いながらの「立ち往生」。



>もちろん本人に聞いてみないと真実は分かりませんけど、最初から今の結果を見据えて「こうすればこうなる、そうしたらああなる」といった設計図どおりに進んだのではなく、今見える、手に届く結果に向けて努力した積み重ねが今の結果だと思われますね。だから、他にも行ける方向・可能性はいくらでもあったのだ、と。

それも、また運命!
全ての結果が運命、人間万事塞翁が馬…なのでしょうね…





>戦前の神風特攻隊に繋がる「同期の櫻」には「一夫多妻制」と共に「発展史観」のお話しとして共感は出来ませんね。それは現在の日本憲法や刑法の自由権を蔑ろにするものですから。私は玄◯会には二度と入りたくないと述べているのに、その私自身の自由権を蔑ろにして玄◯に拘束しようとしている自由びとは違法行為として刑法で処罰されるべきだと思っています。


私は、法律家でも、警察で…なく、他人の人生・違反…の拘束力ない、ただの一般人です。
確かに、補助員として、学校の児童や過去の教え子の前での言動には、無論、責任はあります。


しかし一人前の大人が、私から何を言われようが、その私の言葉に従う事・義務はないでしょう…

師範の言葉なら別ですが…
空手の師範の空手指導には、道場にいる限り従う・積極的に拘束される事が必要です。
それは、自己の目的達成の手段として、必要不可欠です。

それでも、他人である空手師範からの、自分への人生への提言に従う義務はない。
義務はないが…その言葉にココロで感動・アタマで納得し得たなら、自らの意志で自らを「拘束される必要があります」ね…

そうですね!
自由びとが、自由論を展開しないで…ココロの自由=悟り論ばかりでしたね…

実は先日、ネットで生成AIを使って、社会的自由・個人的自由、自然的自由を検索したのです。
機会があったら、私的にまとめてみて、書きたい!な~…なんて思いはありましたが…まだ実現できていませんね…


そう私には拘束力かない!
そんな私の個人的希望を述べて、何が悪いの?
どこか?法律違反している・違法行為ですか?

言葉での拘束なら、現代の学校・教科書も、児童の無限の想像力を拘束しているモノでしょうが…


なので…以下の言葉は私への「名誉毀損」罪

「自由びとは違法行為として刑法で処罰されるべきだと思っています。」
↑この「べき論」は自分への縛りとして御使用下さいな!


ここで自由びとへの使用は…さもないと…

法律違反をしていない自由びとが、恰も違反しているよう言説の数々…
それは、上記のように思い・書いている…そんな自由びと的な私への「名誉毀損」罪ですよね。

まあ~そんなお宅が結構・とても気に入っているので、
法律的手続き・訴えはおこしません…ので、ご安心くださいね♪

「滅ぼし合う対立物の統一的弁証法」の学びの過程では、その人格を崩す事も時に必要ですから…
でも、そこに信頼関係がないと…その崩された人物は、悲惨・悲劇ですね。

師範は信頼されていると信じて、その弟子のココロを崩したら、
なんと…弟子は離れて行ってしまった!
これって…喜劇?悲劇?惨劇?


ココロの読み間違い!
アタマとココロは別物。
なのに、両方とも一つの頭脳の機能…実に厄介な頭脳モノですね…
返信する
大好き♪♪♪~で~す♪♪♪ (自由びと)
2024-01-16 08:51:54
そうそう…
ここ数日間、「玄和の血潮」と「玄和の将」を思いだし…口ずさむながらの愛柴犬マロン散歩です。
この二つの曲には、想い出があります。
何年も前の事、当時の私は狂いまくっている(自覚ある狂い)ように、テープで流して聞きまくりました。
そんな当時、何かの弾みで、「銀河の血潮」と口走るってしまい…家内に笑われました。

それは、私が一時、しつこい程に繰り返し聞き続けた歌に「銀河の誓い」があったからです。

「銀河の誓い」
♪♪~Aquarius 凍てついた
♪♪~太陽照らし出せ
♪♪~氷河の砂漠を行く
♪♪~キャラバンの行く手を


「玄和の血潮」は、初めての夏合宿で、その意味・内容を班長から解説された記憶があります。
今回は、何となく、歌いたくなった…


「玄和の血潮」には重層的論理的な流れを感じました。
「玄和の将」には、師範の人生を喜び・苦しみ・悲しみ…等を想像しました。


この両曲の

「玄和の血潮」

♪♪♪~ 我らが歩みは 人類の   ~♪♪♪
♪♪♪~ そのまともなる 大道を  ~♪♪♪
♪♪♪~ 歴史と踏まえ 突き進む  ~♪♪♪
♪♪♪~ 永遠の栄光 目指しつつ ~♪♪♪

♪♪♪~ 千載青史に 残さんと   ~♪♪♪
♪♪♪~ 人生意気に 感じなば   ~♪♪♪
♪♪♪~ 大志を抱き 炎と燃えて  ~♪♪♪
♪♪♪~ 新たな歴史へ 飛翔せ   ~♪♪♪




「玄和の将軍」

🎵🎵🎵~~  あ々一軍の将たりて     ~~🎵🎵🎵
🎵🎵🎵~~ この身 すなわち 玄和なり ~~🎵🎵🎵
🎵🎵🎵~~  生命のかぎり今日もまた  ~~🎵🎵🎵
🎵🎵🎵~~  『武道講義』の華と咲く   ~~🎵🎵🎵


🎵🎵🎵~~玄和の道ぞ 人の道  ~~🎵🎵🎵
🎵🎵🎵~~気高き武人 創らんと ~~🎵🎵🎵
🎵🎵🎵~~全人未踏の地を歩む  ~~🎵🎵🎵
🎵🎵🎵~~我が人生ぞ 歴史道  ~~🎵🎵🎵


上記のフレーズが、とても気に入っています♪♪♪
過去から現在まで、ずっと気に入っていました。
そして、未来も気に入り続けるでしょう…この命果てるまで…な
んか!カッコええ私ですね…
返信する
表現手段 (自由びと)
2024-01-16 07:57:35
・コメントを書いた人
弥勒

・コメント
>>その書いた科学者の心は

>意味が今一つ理解できませんね。おそらくは自由びとさんご自身が自分で意味も分からず書き綴っているのでしょうけれど。取り敢えず「自由びと」という人物の価値あるものとしては「心」の方にあるのだ、ということだと思いますね。例えば専門分野が看護の人間が「相手の心を慮ることを最重要視するように」みたいな、ね。




う~⇒「好奇心」ですかね…

私は、何事もバランス~「心・技・体」のバランスを整える事を重視しています…
と言うか…重視したいですね。
私に今まで、不足していたのは、私の心の優しさの現実的な表現だと気付きました。
でも…優しくして拒絶される恐怖感で、他人に素直に心を開く事を拒否・躊躇っていました。
私は、時々思います。
私の心の扉は三重構造で、一枚目は全開・二枚目は半開き・三枚目はピタリと閉じられている(自分でもなかなか開けられなかった)。
私は、病人も老人も好きではありません。純真無垢の子どもは、大好きなのです。





>私は今まで人が発見しなかったことを発見したような科学者にはガリレオやニュートンのような社会的破綻者だとか変わり者が多いと思っていますから、自由びとさんのような田◯さんに本気で突かせないために能ある鷹は爪を隠すで忖度せよ、みたいな心ではなく、どちらかと言ったなら南郷先生が書いているような世界が敵に回っても我行かん!みたいな人格だと思いますね。
自由びとさんが言ってるような「心」は「科学的発見をするために必須な心」ではなく「神庭さんがどうして博士号という肩書きを欲しがったのか?」という「その心」だと思いますね。


そんな風に私心を決めつけないで下さいね♪♪♪
私のココロは変幻自在なのですよ・ハ・ハ・ハ!(現在は…)!!

>田◯さんに本気で突かせないために能ある鷹は爪を隠すで忖度せよ、みたいな心ではなく、
>世界が敵に回っても我行かん!みたいな人格だと思いますね。

ワザワザ、味方を敵にするような言動・心は慎みたいモノです。
特に、自分より弱い味方には、その弱さ、現実に闘う事無く、気付かせてあげたいと思っています。



>>青雲塾では背骨がピンと伸びた

>あすこでは男も女も「背筋を伸ばす」ように言語的な指導がなされていて皆が皆、背筋に力を入れて背中を反らし気味の姿勢でいましたよ。誰か特定の女性が一人なんてことはありませんから、表面的な言葉だけの嘘でしょうね、自由びとの。
その背骨は柔道やレスリングのように技として使うためではなく、見た目が真っ直ぐであるという「華法」としての真っ直ぐでしょうから、その真っ直ぐさで極真をボロくそ書いたり兄弟子だった人をボロくそ書いたりしたのでしょうね、南郷先生から言われるままに。


う~ん…彼女の雰囲気・周囲への気配り…威圧感…、そうですね「威厳」的な雰囲気が、今までに私が出会った人にはなかった…そんな感じですね。






>私は幼少期はマンガ本が大好きでしたが、高校に入ってから読まなくなり、今では却ってマンガを読むのは苦痛ですね。アニメも一緒です。実写も20代の頃はトレンディドラマなど良く見ていましたけど、いまはテレビも見ませんし、活字の本を読むばかりですね。


それって…私の四つ上の従兄弟が、漫画は読み難い…と言っていました。
私も、以前のように、マンガを読んでも絵は動きません…」
特に、最近の漫画は、その絵を動きの連続として認識できません。
私の時代の漫画は、ある意味、静止的絵の連続で、その一つ一つを、私は、頭脳内で連続的に繋げていたのでしょうね…
そうそう~パラパラ漫画的に、描かれた絵を頭脳の中で動かしていた感じ。だから、それが叔父さんには理解できなかった。

もともと…私は、小一から両親の方針で学生寮のあるインターナショナル・スクールへ入れられました。
そこでは、日本語教育は、外国語扱いで、その授業数も少なく、ある意味、私は語学に関して、無非常に中途半端な教育を受けさせられました。
そんな私だから、数学(数式・数学的思考)とは相性がよく、が得意になったのでしょうね…



>自由びとさんとは完全に趣味嗜好が違うのが分かります。


いいですね♪♪♪
実にいいですね♪♪♪


十人十色の認識なのに…
これって、究極的な対立認識の統一!…なのかも…

認識のココロ的表見vs認識の言語的表現の統一

私に欠けているのは、認識心の表現技…なのかも?!

本来は、絵画で表現できれば…
ダメなら、詩で表現できれば…
ダメなら、音楽で表現できれば…
そうそう態度・表情・雰囲気でなら表現可能ですね。
子供達には、その言葉にあった態度・雰囲気を伝えたでいね…

昔…初めての教員時代に、生徒から「○○(先生)に、笑いながらビンタくらった!(不満)」と聞かされました。
当時は、『どうせ…こいつが悪いんだろう…』…と内心思いながら「…酷い先生だね…」と同情的…
でも…今は、それは「マズイと指導だ!そのビンタが体罰的指導(マズイ)なら、その指導の意義・意味をしっかり生徒に届かなかった事もマズイ。

人間会って話せば、相手の事がよく分かる。
しかし、真の嘘つきは 自分のその嘘を信じ切って 話しているから それは 誰にも 嘘とは感じられない。
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-14 19:42:11
>その書いた科学者の心は

意味が今一つ理解できませんね。おそらくは自由びとさんご自身が自分で意味も分からず書き綴っているのでしょうけれど。取り敢えず「自由びと」という人物の価値あるものとしては「心」の方にあるのだ、ということだと思いますね。例えば専門分野が看護の人間が「相手の心を慮ることを最重要視するように」みたいな、ね。
私は今まで人が発見しなかったことを発見したような科学者にはガリレオやニュートンのような社会的破綻者だとか変わり者が多いと思っていますから、自由びとさんのような田◯さんに本気で突かせないために能ある鷹は爪を隠すで忖度せよ、みたいな心ではなく、どちらかと言ったなら南郷先生が書いているような世界が敵に回っても我行かん!みたいな人格だと思いますね。
自由びとさんが言ってるような「心」は「科学的発見をするために必須な心」ではなく「神庭さんがどうして博士号という肩書きを欲しがったのか?」という「その心」だと思いますね。

>青雲塾では背骨がピンと伸びた

あすこでは男も女も「背筋を伸ばす」ように言語的な指導がなされていて皆が皆、背筋に力を入れて背中を反らし気味の姿勢でいましたよ。誰か特定の女性が一人なんてことはありませんから、表面的な言葉だけの嘘でしょうね、自由びとの。
その背骨は柔道やレスリングのように技として使うためではなく、見た目が真っ直ぐであるという「華法」としての真っ直ぐでしょうから、その真っ直ぐさで極真をボロくそ書いたり兄弟子だった人をボロくそ書いたりしたのでしょうね、南郷先生から言われるままに。

私は幼少期はマンガ本が大好きでしたが、高校に入ってから読まなくなり、今では却ってマンガを読むのは苦痛ですね。アニメも一緒です。実写も20代の頃はトレンディドラマなど良く見ていましたけど、いまはテレビも見ませんし、活字の本を読むばかりですね。

自由びとさんとは完全に趣味嗜好が違うのが分かります。
返信する
同レベルの心が…叫ぶ! (自由・妄想びと)
2024-01-14 11:58:08
▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
南郷継正の「夢を動かす」について~


>・コメントを書いた人
>弥勒


>・コメント
「>このブログでの私とお宅のコメント応酬は、弁じて証明する。弁証法レベルだという事。」


その通りに、今の私に、そうは思えて仕方ありません…




「>苦笑せざるを得ませんね(笑)。「このブログでの私(自由びと)のコメントは、弁じて証明する、弁証法レベル」ならまだしも、専門分野の科学的知識を介して話しをしている私(弥勒)も同レベルにされてしまうとは(苦笑)。」


たぶん…それは私心のレベルが同だった!弥勒菩薩さんが、時々の私心のレベルに合わせて、少しずつ、悟りへ導いていたのかも…
何しろ、「弥勒菩薩は、如来の意志に従って様々な姿にかわる」そうですから…


>確かに武道講義の時の南郷先生は弟子たちの専門が医学やらだったからでしょうから田邊元の本を出して「科学が分からなければ哲学は分からないのだ」と科学的知見を包括する哲学を志向していたみたいですけど、悠季真理が入ってきた今では「思弁」を重視しているみたいですね。


書かれている科学的な知識を頭で理解出来ても…その書いた科学者の心は、理解も、想像する事も至難です。
頭脳は、「頭・理性」と「心・感性」の一体的同一性なのですから、「頭・理解・心・理会」が必要なのでしょう。

確かに現代でも実験可能な科学・知識もあります。それでも、その実験・方法を一から苦労して考え出した科学者の心裡・心理・感情は想像もできない、でしょうね…

>私はお宅(自由びと)が何処の誰だか本当に分かりませんけど、「告白云々」と気持ち悪く書いているところを見ると女性だという感じもしますね。


その事を、私もずっと考えていました。師範は、日本・世界の文学全集から、日本・世界の心を学んだそうです。
その事から、類推するなら、私は小四の時に「石森章太郎のマンガコミック本「ボンボン」に嵌っていらい…
石森章太郎から始まり、沢山のコミック漫画本…途中で少女漫画にも嵌って、それ以来少年・少女漫画を鬼のように読みまくりました。
テスト前には、先ずは漫画を読んで心を前向きにして、テスト勉強をしていました。
その漫画読みは、今も続いています。

そうそう~小学生高学年の時に、親類の叔父さんに「…マンガ本の絵が動いている…」と言ったら、バカにされました。
今、考えると、それて、私は、観念内で、その漫画の絵を連続的に動かしていた、ようなのですね…
師範は、文学全集という言葉から心を育てのでしょう。
私は、漫画本で、少年・少女の心(運動・変化)を創ってしまった、ようですね。






「>確かに男には生涯にわたって大切にするお姫さまを娶る必要がありますし、そのために年齢を重ねて自己を強くしていくのだとも言えますが、それは世界中でたった一人いればいいわけで何人も必要ありません。」


う~云わんとする事は、わかりますが…
國によっては、一夫多妻。本妻・第二妻…「英雄色を好む」も言う事実もありますね…


「>そこを理解していないと己れの身体が独り身を寂しく感じて男を必要としていることと、相手と恋愛関係にあることとの区別がつかなくなっていきます。」


これも分かります…
私の場合は、両親は商売・生活維持に必死で、私は一人っ子…そんな淋しさが子供時代からずっと続いていました。
ただ…確かに二回目の大学時代に付き合っていた彼女は「自分の淋しさ故…彼女は母心に似ていました。


「>お宅が中国人の張という人だというのも天寿堂さんから聞いた話しですけど、私は天寿堂という人間も嘘をつくから信じてはいませんけどね。」


この話は個人情報なので「スルー」しますね。
それでも…私の名前は師範ならご存知ですね。



>お宅の年齢が67、68歳だというところからは昔の高弟だった馬場さんだとかも連想しますけど、ああいう人は道場での稽古をしなくなっても四段だとかで名前が残っているとか、あるいは名誉段だとかで上に置かれるんでしょう。


一度…青雲塾で、背骨をピンと伸ばして姿勢がよく、雰囲気がとても凛々しい女性を見ました。
多分、あの女性が馬場さんですかね…

ほうほう~私の今の心は馬場さん的なレベルなのでしょうか…




「>南郷先生が試行の執筆から降りたのも玄◯会の女性会員から「南郷先生にセクハラされた」という手紙が来たからだそうで、南郷先生は一時期神経体力が低下したからだとかで馬場さんにオンブされてたと言ってましたけど、そのときに背後からオッパイを揉んだりしたのかも知れませんね。」


どうなのでしょうか…ね…
私は、小学生・低学年頃に、当時両親でやっていたテーラー・洋服店の縫い職人のお姉さんに負ぶってもらっていた時に、その胸に私の手が当たり、その感触が気に入ったのか、思いっきり揉んでしまいました。

セクハラか!or否か?は、その行為した人物の動機・心の問題ですね…
その目的意識・感情の問題だと思います。

自己の欲求の解消為か?相手の為の言動・行動か?
単なる自己満足か? 相手の満足・他者満足か?


>馬場さんとしては大学教授で忙しかった薄井さんに取って変わって南郷先生を寝取りたかったのかも知れませんけど、薄井さんが亡くなっている今なら90歳の南郷先生に嫁ぐのも可能でしょうね。お互いに介護が大変でしょうけど。

事実か?or虚偽?とも…分からない他人のデマを、上記のように妄想可能なのは、お宅が強烈なスケベ心の持ち主だから…
私も結構スケベな妄想好きですよ。
「英雄色を好む」ですね。
♪♪♪「お前と俺は同期の桜」♪♪♪


♫♫~貴様と俺とは同期の桜~♫♫

♫♫~同じ航空隊の庭に咲く~♫♫

♫♫~咲いた花なら散るのは覚悟~♫♫

♫♫~みごと散ります国のため~♫♫

♫♫~貴様と俺とは同期の桜~♫♫

♫♫~同じ兵学校の庭に咲く~♫♫

♫♫~咲いた花なら散るのは覚悟~♫♫

♫♫~みごと散りましょ国のため~♫♫

でも…まだ~お互い、「散り」たくは、ありませんよね…


そうそう…
ずっと思っていました、月研ぎさん、tadaさん…には、とても気を使って書く・書かなきゃなのですが…
お宅とは、そんな気を遣わずに、本音・本心から、無遠慮で書けてしまうのですね…
本当の「ふ・し・ぎ」…もしかして、お宅は私の分身・私がお宅の分身なのかもね…


そうそう最後に以下のような事が分かりました…
師範が、「星読み」、「満月の日の地面の変化」、「人造物は変化が乏しい…」、「台風の話」から、
想像・推測しました。

人間は動物、動物は本能的に天災…を感覚する。
人間の本能部分は、心…心が騒ぐ時、心が理由なく不安な時…

地震は、地球内のマグマの熱の地上への放散が地震…
ここ数年の地震の発生…地球の変動は、人間の心をザワザワされている。
そのザワザワを国家レベルでの放散が、戦争。
新世紀は、100年単位、その100毎に、地球の異変・結果人間界の戦争勃発…

なんってね…これも、単なる、
自由な妄想・幻想・夢想びと言説でしょうかね…
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-13 12:59:15
>このブログでの私とお宅のコメント応酬は、弁じて証明する。弁証法レベルだという事。

苦笑せざるを得ませんね(笑)。「このブログでの私(自由びと)のコメントは、弁じて証明する、弁証法レベル」ならまだしも、専門分野の科学的知識を介して話しをしている私(弥勒)も同レベルにされてしまうとは(苦笑)。

確かに武道講義の時の南郷先生は弟子たちの専門が医学やらだったからでしょうから田邊元の本を出して「科学が分からなければ哲学は分からないのだ」と科学的知見を包括する哲学を志向していたみたいですけど、悠季真理が入ってきた今では「思弁」を重視しているみたいですね。

私はお宅(自由びと)が何処の誰だか本当に分かりませんけど、「告白云々」と気持ち悪く書いているところを見ると女性だという感じもしますね。

確かに男には生涯にわたって大切にするお姫さまを娶る必要がありますし、そのために年齢を重ねて自己を強くしていくのだとも言えますが、それは世界中でたった一人いればいいわけで何人も必要ありません。

そこを理解していないと己れの身体が独り身を寂しく感じて男を必要としていることと、相手と恋愛関係にあることとの区別がつかなくなっていきます。

お宅が中国人の張という人だというのも天寿堂さんから聞いた話しですけど、私は天寿堂という人間も嘘をつくから信じてはいませんけどね。

お宅の年齢が67、68歳だというところからは昔の高弟だった馬場さんだとかも連想しますけど、ああいう人は道場での稽古をしなくなっても四段だとかで名前が残っているとか、あるいは名誉段だとかで上に置かれるんでしょう。

南郷先生が試行の執筆から降りたのも玄◯会の女性会員から「南郷先生にセクハラされた」という手紙が来たからだそうで、南郷先生は一時期神経体力が低下したからだとかで馬場さんにオンブされてたと言ってましたけど、そのときに背後からオッパイを揉んだりしたのかも知れませんね。

馬場さんとしては大学教授で忙しかった薄井さんに取って変わって南郷先生を寝取りたかったのかも知れませんけど、薄井さんが亡くなっている今なら90歳の南郷先生に嫁ぐのも可能でしょうね。お互いに介護が大変でしょうけど。
返信する
ここは、私の精神的な世界でも… (自由びと)
2024-01-13 11:27:28
Unknown (弥勒)
2024-01-13 10:10:35
「>自由びとさん、私はコロナに感染してしまい床に伏せっています。肉体労働で身体が疲労して免疫力が落ちているところで発症してしまったようです。
けれど医師からは薬も処方されずに「5日休んだら仕事に復帰できるから」とのことで、自分の免疫力で対処できるみたいですね。それで何度も風呂を沸かし直して身体を温めて、服を着込んで一日中布団の中で寝ています。」





そう言えば、私も、息子が、成人式(二年前の今ごろ)の後の二次会で隣の人がコロナになった事を知り、発熱した息子が病院へ行ったら「コロナ発覚」。
その後、病院勤めの家内と一緒に、その病院のコロナ検査を受けまして。本当は、行きたくなかったのでが…
たまには、家内の希望をきいてもいいかな…と行きました。
そしたら「○○忘れた名前」のコロナ検査、その場で10分位でしょうか…結果が出ました。
家内も陰で問題ない、でも、私は陽性でコロナでした。
その日は、そんな…私がコロナとは…その不安のせいか…その日は、いつも以上に寒い中の買い物へ行きました。
そして、次の日から発熱…その後は、二週間自宅療養…でも、その熱は全然苦しくなく、漫画を読んで過ごしました。

私も免疫力を信じています。
なので、私はコロナワクチンは、一度も打っていません。
家内も息子も、四or五回まで打っています。






「>南郷先生が、こんなブログを見に来るとは思いませんけど、私がちょっと思ったことを述べますと日本の武道だとかの封建的な思想・儒教思想を色濃く残している団体では、キリスト教文化圏みたいな「自由と平等」ではなくて「順番」というものが重視されますでしょう?」

でも…最近気付きました。
このブログでの私とお宅のコメント応酬は、弁じて証明する。弁証レベルだという事。
しかし、弥勒さんのおっしゃる通り…確かに、南郷先生(実体)は見に来ない…かもしれません。
それでも…南郷継正的心のある者は、やってくるかも知れません。
そんな私だから、「この記事は南郷心の持ち主への叫びでもあります。
ただ…ブラックお宅コメントに、ホワイト南郷継正を感じ取って以来…
もしかして…本物なの?!という問い掛けが生じたのも事実なのです。

ですから、これは、サルが樹から降り立ったように、再び玄〇会へ行って、南郷先生の姿を…
ただ、それは非常なる失礼なのは、前回の一件で都築さから指摘されたので…
取り敢えずの…ここでの呼びかけなのです。
ただ、当人を目の前にしたら、師範の気迫で、そんな言動は、たぶん不能です。
ただただ…ここだけ、妄想・幻想・夢想…的な自由びとブログだけでの話なのです。

そうそう~このコメントの前に、tada さん宛てに「論理について」書く努力をしました。読んでみて、また感想を下さい。






「>ですから、私には今、玄◯会の中がどうなっているのか知りませんけど「南郷先生主宰の茶会」なんかを開くには私のように30年前に退会してその後は本部から「その人間を入会させてはならぬ」と宣告された者はもとより、自由びとさんのように初段レベルの人間が言い出すことの出来るものではなく、もっと上の五段、六段、七段だとかの高段者がやることではないかな?と思います。」

↑~
ですよね…でも、ダメ元で私の夢を書いてみました。



>さらに、南郷先生は既に相当なご高齢ですから「南郷先生にやらせる、やってもらう」ことを期待するよりも長年お世話になった弟子の自分が何かをして差し上げたいと思うものじゃないでしょうか?普通は。

そうですね…だから、
南郷継正に学び続けた私の姿~
「武道の理論」との出会いから45年後の私の姿を是非に見てもらいたかたのです。
そこで、失望or感激or無視…どのような反応をするかが、知りたかっただけなのです。



>「南郷先生は18歳くらいから空手を始めてもう空手歴70年以上ですし、『武道の理論』発刊50年だとか『武道講義』発刊30年だとか色々とパーティだとか催して「いやー、これは歴史に残る本ですよ」だとか褒めまくるとか普通はやるでしょう、弟子たちが。南郷先生は余りそういうのが好きじゃないかも知れませんけど、弟子の玄◯会員ならば、そっちの方向で考えてみては?」




そのような情報は、残念ながら、退会している私には、届きません。
それに「茶会」は事実レベルではなく、論理的な茶会であり、師範の御講義でも…なんでもOKなのです。
もっとも…今の退会中の私には、その情報も来ませんね。





「>神経体力だとか認識体力だとか何を書いているのか私には理解できませんけど、「自由びとさんの母親が亡くなったときの悲しみと奥さんが亡くなったときの悲しみの比較」という、普通は「どちらも悲しかった」で終わることに猟奇的な執着をしていることには「自由びとさんの悲しみ」という「即自」から離れて「他者の、他の人の悲しみ」と比較してみることも可能かと思いますね。そうすれば「親が死んだなら悲しいのが当然で、それを涙を流さないのは逃げて向き合っていないからだ」という結論にはならないように思います。」



これは、理性・現実的には向き合っている。
しかし、心の底では、向かい会えない状態・無意識的回避・逃げている・回り道…言い方は色々ですが…

まあまあ…泣けない私と泣けた私の相違が、認識力の増加・強化…その強化の源が「心・認識・問い掛けの変化…




神経力・神経体力の実感は、私の「突き技」の変化、
ついこの間、トレーニングで突きを練習した時の「突き感覚」と昨日再確認して突き感覚は別物でした。

またまた…昨日の小1の体育授業の後に、なんとなくいける思い「校庭で全力疾走「したら、できたのです。
その感覚は、以前の若い時の感覚とは少々違いますが。
足に確り力が込められている地面を踏みつけながらの全力疾走でした。
そして、日頃から頻繁に痛みを感じていた「右股関節の痛みもなく」…
これは、言うなれば、全身に「気が通った」状態です。




>宗教には様々な要素があると私は考えていますから、「痛み、苦しみから逃れる方法」としては現在のリハビリテーションや心理療法に通じるものを科学的ではなく経験的に獲得したのだと思いますよ。
リハビリテーションの運動療法をやると中枢神経系から鎮痛物質(オピオイド)が分泌することが分かっていますし、プラセボだとかカウンセリングだとかでも人間の体内では鎮痛物質が分泌することが分かっています。



実体・身体的治療と心裡的認識的な治療ですかね…



「>だから小中学から運動していた者と座って本ばかり読んでいた者とでは痛み・苦しみの閾値が違うのだと思いますね。蚊に刺されて「ギャー」と叫んで飛び上がる人も稀なように、その痛み・苦しみの閾値の違いは生理学的な、その人の身体の状態からくるのだと思います。
>こんなことを書いても「そんなことは既に南郷先生から教えられていた」と言うのでしょうから余り書きたくもないですけど。
>「一体的」みたいな抽象的なことを書かれても理解はできませんね。何が如何一体的なのかは身体運動ならばバイオメカ的な説明をしなければ伝わらないでしょう。」


>それで思い出したのが30年前に玄◯の合宿で「足幅を肩幅にしたまま走る」というのをやらされたことでした。それは20年以上の人生で身につけてきた身体運動とは異質なもので違和感があったのですが、今から思うとあれは「前屈立ちの足幅」だったんだと思います。つまりは基底面の面積を広くすることで「バランス」をとることなく「安定」させてしまうという方向で、それは確かに騎馬立ちや前屈立ちへの南郷先生の解釈=土台、安定、不動から派生した走り方だと思いますけど、これはリハビリテーション医学や身体運動科学における「歩き方、走り方」とは異質なものでしょうね。


思い出しました。
昨日の全力走も先日のマロン散歩での全力走も、肩幅の方が安定していたのです。
逆に書くなら、普通の歩幅では、全力で走れないのです。
でも…早く走れる子供達は、普通の幅で、地面を滑るように入っていますね…身体の柔軟性・平衡感覚…




「>突きの拳がピタっと止まることを意識して練習している流派は多くないように思いますけど、自分で拳が見えないくらい速く突くことを意識したほうがいいように思います。」


一先日、一度思いっきり突いたら…
なんと肘が抜けそうな感覚になりました。

私の肘関節の問題でしょうか…
以前に、足関節に比べて肘関節の弱さを…なんか感じて、関節廻しや上下…で訓練していたのですが…

そうそう、昨日の夜、庭の土耕しを前足を交互に変えやった後…
「頑張れ元気!」中での「太鼓叩いて見えない腕の動き」ではない…
元気の先生がサンドバックを突いているその手が見えなかった元気…

そんな事は、浮かびませんでしたか…
「あしたのジョー」…

とにかく、肩を動かさないジャブの練習をやってみました。
パンチは、確り見えていました。逸れても結構早かったです。
それは、私が、速いパンチでのみる目があるのか?
または、私のパンチが遅かった?
その判断は、私には不能で、第三者の判定・確認が必要ですね。
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-13 10:10:35
自由びとさん、私はコロナに感染してしまい床に伏せっています。肉体労働で身体が疲労して免疫力が落ちているところで発症してしまったようです。
けれど医師からは薬も処方されずに「5日休んだら仕事に復帰できるから」とのことで、自分の免疫力で対処できるみたいですね。それで何度も風呂を沸かし直して身体を温めて、服を着込んで一日中布団の中で寝ています。

南郷先生が、こんなブログを見に来るとは思いませんけど、私がちょっと思ったことを述べますと日本の武道だとかの封建的な思想・儒教思想を色濃く残している団体では、キリスト教文化圏みたいな「自由と平等」ではなくて「順番」というものが重視されますでしょう?

ですから、私には今、玄◯会の中がどうなっているのか知りませんけど「南郷先生主宰の茶会」なんかを開くには私のように30年前に退会してその後は本部から「その人間を入会させてはならぬ」と宣告された者はもとより、自由びとさんのように初段レベルの人間が言い出すことの出来るものではなく、もっと上の五段、六段、七段だとかの高段者がやることではないかな?と思います。

さらに、南郷先生は既に相当なご高齢ですから「南郷先生にやらせる、やってもらう」ことを期待するよりも長年お世話になった弟子の自分が何かをして差し上げたいと思うものじゃないでしょうか?普通は。

南郷先生は18歳くらいから空手を始めてもう空手歴70年以上ですし、『武道の理論』発刊50年だとか『武道講義』発刊30年だとか色々とパーティだとか催して「いやー、これは歴史に残る本ですよ」だとか褒めまくるとか普通はやるでしょう、弟子たちが。南郷先生は余りそういうのが好きじゃないかも知れませんけど、弟子の玄◯会員ならば、そっちの方向で考えてみては?

神経体力だとか認識体力だとか何を書いているのか私には理解できませんけど、「自由びとさんの母親が亡くなったときの悲しみと奥さんが亡くなったときの悲しみの比較」という、普通は「どちらも悲しかった」で終わることに猟奇的な執着をしていることには「自由びとさんの悲しみ」という「即自」から離れて「他者の、他の人の悲しみ」と比較してみることも可能かと思いますね。そうすれば「親が死んだなら悲しいのが当然で、それを涙を流さないのは逃げて向き合っていないからだ」という結論にはならないように思います。

宗教には様々な要素があると私は考えていますから、「痛み、苦しみから逃れる方法」としては現在のリハビリテーションや心理療法に通じるものを科学的ではなく経験的に獲得したのだと思いますよ。
リハビリテーションの運動療法をやると中枢神経系から鎮痛物質(オピオイド)が分泌することが分かっていますし、プラセボだとかカウンセリングだとかでも人間の体内では鎮痛物質が分泌することが分かっています。

だから小中学から運動していた者と座って本ばかり読んでいた者とでは痛み・苦しみの閾値が違うのだと思いますね。蚊に刺されて「ギャー」と叫んで飛び上がる人も稀なように、その痛み・苦しみの閾値の違いは生理学的な、その人の身体の状態からくるのだと思います。

こんなことを書いても「そんなことは既に南郷先生から教えられていた」と言うのでしょうから余り書きたくもないですけど。

「一体的」みたいな抽象的なことを書かれても理解はできませんね。何が如何一体的なのかは身体運動ならばバイオメカ的な説明をしなければ伝わらないでしょう。
それで思い出したのが30年前に玄◯の合宿で「足幅を肩幅にしたまま走る」というのをやらされたことでした。それは20年以上の人生で身につけてきた身体運動とは異質なもので違和感があったのですが、今から思うとあれは「前屈立ちの足幅」だったんだと思います。つまりは基底面の面積を広くすることで「バランス」をとることなく「安定」させてしまうという方向で、それは確かに騎馬立ちや前屈立ちへの南郷先生の解釈=土台、安定、不動から派生した走り方だと思いますけど、これはリハビリテーション医学や身体運動科学における「歩き方、走り方」とは異質なものでしょうね。

突きの拳がピタっと止まることを意識して練習している流派は多くないように思いますけど、自分で拳が見えないくらい速く突くことを意識したほうがいいように思います。
返信する
覚り・悟る事 (自由びと)
2024-01-13 07:12:40
おはようございます♪南郷先生?


今朝、四時過ぎに、トイレに起きて、それから眠れず…床の中で、色々と妄想していました。
それは、即自、対自・即自かつ対自…またまた思考の迷宮へ…

結論から書きます。
<「神経体力・神経力」・「認識体力・認識力」の区別と連関を覚り・悟った>
のです。

認識体力は、五感器官の感覚能力であり、
対象の全体像を正確に感覚して反映する五感器官(神経伝達能力)の実力…
↑これも…他人の知識ですね。

では、私の場合を書きます。

初めの「母の死」の時、私はその死を感覚して「母の死」を事実だと認識した。
しかし、その事実と心では対自していない。目を逸らしていた。
その事実が、葬儀・告別式…全てにおいて、涙ぐむ事・泣く事もなく…ただの一滴の涙さえ流さなかった。
それは、私が即自・(自覚なく・心で)無視していた・逃げていた・対峙していない…から。
それでも、後日、母と離婚して、後妻と暮らしている父宅へ行って、父との話の中で「母の事で…号泣した」
この時が、初めての「母の死」とは対自であった。

それに比して「家内の死」の場合は、臨終の際には、泣けなかったが…その後、他人の話から、涙ぐんでしまう私を発見した。

何故に発見・気付く事が出来たか…
それは私が「母の死」の体験・経験(一回でも強烈な体験だったので経験)を比べて(対立物の統一)でその違いを認識できた。
このような気付き・発見・認識可能な能力が「認識力」である。

また、「母の死」では、なかなか泣けない私だったが…
家内の死では、他人との話で涙ぐむ自分を感覚(流れそうな涙・悲しみの感覚・感情)の自覚、
そこで、悲しみ感覚が感情に変化する前に、その思考を変えていた(心を家内の死から分離)。
それでも…告別式開始前の独りの時には、下を向いて殆ど声なき号泣が出来た。
これは、認識力のレベルアップ、その認識力の源が「認識体力」。

このような、対象(こごては私の正確な心裡状態・感情)を正確に認識可能も認識力なら、
外界物であれば、先ずは、五感器官の感覚能力とその対象を正確な像として描ける認識力。

認識体力とは、
「母の死」との対峙から回避・逃げていた私と「家の死」とは対峙していた私。
その違いが、「認識力」の相違…。
我慢力・耐える能力その認識体力の養成過程に「炎天下での大声合唱訓練」。
でも…「母の死」は、逃げて泣けない・「家内の死」は、逃げずに、悲しい感情に堪えて泣かない。
即自的でも(無意識的に回避・対峙しない)泣かないorその対象に悲しみを感じない。



ほ~ほ…宗教は、心・苦しみ・憎しみ感情を無視する・対峙しない認識を創る。
実は昨日、驚くような・タイミングでの出会いが、ありました。
それは、テレビを付けた瞬間に、「NHK」で「永平寺」の再放送が…
これは、以前に、家内の実家があった福島の「NHK何とか…」で、「永平寺」を視聴しました。
当時は、それらの修行の意味・意義が全く不明でした。
しかし、…昨日は、分かりました。それは、師範が説いていた「思考停止」であり
tadaから教えられた、自分が可能なある範囲内での認識の変化・運動の閉じ込め「集中」だと感じました。

永平寺の修行は、決められた姿勢・型での読経。
変化に乏しい長い廊下の雑巾がけ・運動。
食事担当、毎日決められた食事・調理・用意の長期間(四か月)
寺での全ての言動・行動・行為…を型に嵌めようとする修行。
それらは、現実の変化と無関係に、認識内に築こうとする「御経」の世界像。
現実との関わり・日常生活の変化・運動とは、可能な限り無関係な(絶対的?独立関係)の世界。
自己の観念内、宗教的な観念世界の創出…



神経力・神経体力を痛感(これが神経力だ!)(そうか神経体力とはこれっだったのか!)は、
最近、再読した「武道の科学」の「起床・就寝」時の二分間の足上げ腹筋を、また始めた体験談から…


20代頃に、国会図書館でとった「試行」のコピー書かれていたので、毎日実践した。
その時は、その二分間が苦しみだった。それでも、若さ故か、五分にして実践。
風邪気味で少々熱があっても実践していた。

でも今回も「武道の科学」を読み、思い出して実践…それから一ヶ月位…でしょうか…
数日前に、不思議と…辛い腹筋が辛く感じなくなって来た自分を発見…より正確には違和感が…

そうそう今週の火曜日に、テレビ体操をしていて…体感・感覚が違う。
全身のすみずみまで、神経・気が通っている…自分の自覚。
そして、今日…二分間腹筋の事実に、若い頃の私との違いが「神経体力」の違い…と実感。

神経力とは、その神経力の自覚なのだろう。
以前、全力走が、スムーズに感覚した時があった。
感覚として風を切って走っている筈なのにスピードは、以前のまま…
あの感覚が、神経体力…言うなれば、全身が一体化して走っている状態…

そう「全身の一体化」…その感覚…
そうそう…今回は「突き」が、
そう突きが、ピった!と止められる。


肉眼でみても、ピったと止まっている…
突きの意識も、初めからスーと伸びている。

今回の発見・覚り・悟るも…以前程の興奮がないが…静かな興奮・キョウガイのような感じある。

失礼しました師範。
中途から…師範意識がなくなり、私の観念的な世界へ突入しまいました…
でも、過去の私の経験・体験した事実は、私の頭脳内にしか存在せん…

それでも「神経力・神経体力」・「認識力・認識体力」の、
私の実感は正しい…師範と同じようモノでしょうか?

ご指摘・アドバイスをお願いします。
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上記コメントの続き (自由びと)
2024-01-11 22:16:52
上記の続きコメントです。


>私も夢講義は余り読んでないんですけど、最新刊の夢哲学を買ったのがキッカケでヤスパースに関する本だとか買って読んでますね。それで、ヤスパースのイワユル「絶対的精神」というのが「愛」だというのは、やはりキリスト教圏の人間であるがゆえでアクィナスと同じだと思いましたし、「包括哲学」としての「実存哲学」もヘーゲルと並べる弁証法的な考えなのだと南郷先生を理解しましたけど。



私も「最新刊の夢哲学」を買って、一回読みました…
でも、よくわかりません!でした。
上記の言葉を手掛かりに今度差再読してみます。


上記の「「包括哲学」としての「実存哲学」も…」とても難しい言葉ですが…
でも…現代の生成AIって、とても便利です。

「主観と客観の統一」ですかね…

例えば、眼前の花を知るには、
「過去の花の知識・他人の言葉・での問い掛け」と「目の前の花の実感・反映」の統一ですかね。

他人の言葉には、本に書かれたモノと、口から発したモノがあるでしょう。

絶対精神から観た花と当人の認識の統一…



>京都の寄筆さんのように「夢は大学教員になること」だと公言して日夜勉強してるなんて見習いたいとは思いますけど、教員補助になりたいとは思いませんね。



そうなんです…

小学館アカデミー(塾)が廃校なった、当時の息子の学校の校長にお願いして、見つけてもらいました。
私の教員免許は、更新していなかったので使用不能。
だから、産休代替は無理で、結局特別支援学級の補助員だったのです。

学習補助員としての児童・生徒との関りは、とても新鮮な発見の連続で楽しいモノがあります。
でも…もっと勉強したく思い、社会人聴講生でどこかの大学…なんて思ったりして…

また、京都弁証法論理学認識論研究会への入会も…思ったりして…
でも、年齢的にどうかな…という心配もあり…なかなか実行できていません。
玄〇会にも、三〇支部への復帰…なんて…色々と思っていますが…
すぐまた…行かなくなって…結局迷惑かけて…なんて…色々と余計な事を心配・考えてしまいます。



そうそう、合宿で、師範が一人で海の中……を発見した、
私が師範に「何をしているのですか?」と尋ねると、
師範が「中国・拳法の新発見をした…」答えてくれました。

それって御講義で話していたのですね。
手を使って投げた時、足の力が抜けている…

私も、弁証法を大学で、社会人講師として、教えられたら…嬉しいかな…
もっとも…今日の私は、少し驕り高ぶっているので…明日は、その反動でドスンと沈んでいたり…だったり…

そうそう御尊命ではなく、「御存命」でした。
以前読んだ本に、「人間の寿命の限界は125歳、と書いていましたから…
師範もまだまだ、今の「1と1/3倍」は、いける可能性がありますね♪♪♪♪
限界への挑戦がいいですね…人類史上・最年長・記録がいいですね…

最後に…ユーチューブの「「悟りへの道 ブッタの教え」を見て、まるで私の事だ!と驚きました。
そんな風に思えてしまう私が、とても危ない…と実感しました。
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オッス! (自由びと)
2024-01-11 19:02:20
オッス!宜しくお願いします!
返信する
驚駭!なのに静か? (自由びと)
2024-01-11 18:58:29
師範・弥勒様へ

オッス!

>私の記憶も曖昧な所はありますけどね、随分と昔、南郷先生は「脳細胞を3回作り変えた」と言っていた記憶がありますね。「認識を作り変えた」ではなくて。



御指摘の通りでした。ありがとうございます。

確かに、師範は「脳細胞を3回変えた」(私の記録)と1991年・私の緑帯時代に参加した、私の二回目の千葉県岩井浜海岸での夏季師範主催合宿の御講義で言われていました。

夏合宿の一回目・二回目の私が聞き取った師範御講義の記録をみたら、今の私が思って・書いている事と同じような事が書かれていました。
私は、初めから、私の到達点を教えられていたのですね…

取り急ぎのレスをいたしました。
これから夕食の用意ですので…この続きは…また~
すみません…明日から、仕事が始まれますので…

今日一日…実に不思議な静かな気分…
とんでもない事実なのに…驚駭レベルの事実なのに…
とても静かな驚きなのです。

言葉で感謝…というより、先生の御尊命中に、ここまで辿りつけて…
もしかして…少しは御恩返しになり得ていたら、
これで、きっと…南郷師範主催の茶会に招待頂けるかな…何て、期待して・失望するかも…なんてね…
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Unknown (弥勒)
2024-01-11 07:49:23
私の記憶も曖昧な所はありますけどね、随分と昔、南郷先生は「脳細胞を3回作り変えた」と言っていた記憶がありますね。「認識を作り変えた」ではなくて。

私も夢講義は余り読んでないんですけど、最新刊の夢哲学を買ったのがキッカケでヤスパースに関する本だとか買って読んでますね。それで、ヤスパースのイワユル「絶対的精神」というのが「愛」だというのは、やはりキリスト教圏の人間であるがゆえでアクィナスと同じだと思いましたし、「包括哲学」としての「実存哲学」もヘーゲルと並べる弁証法的な考えなのだと南郷先生を理解しましたけど。

京都の寄筆さんのように「夢は大学教員になること」だと公言して日夜勉強してるなんて見習いたいとは思いますけど、教員補助になりたいとは思いませんね。
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