否定の否定と回り道~
「急がば回れ」という言葉・教え・諺がある。
意味は、「早く着くためには、危険な近道より遠くても安全で確実な方法をとったほうが早く目的を達できる」である。
より詳しくは、「急がば回れ」の例文!小学生にでもわかりやすく簡単な短文で! | 贈る言葉情報館 (okurukotoba.tokyo) にどうぞ。
学校教育も一つの大きな回り道と言えよう。
身体的には未熟な小・中学生は無理でも、
17歳(中学卒業)位になれば、大人と同じレベルの身体的労働が可能である。
それでも、高校へ通う理由は、現代社会の文化レベルでの頭脳労働を可能にする為である。
これは、今すぐ肉体的な労働は可能な身体でも、それを否定(労働しない)で更に学校へ通う。
そく働く(直行)を否定して、教育を受ける(曲行)回り道、結果、頭脳労働可能な頭脳獲得、と言えよう。
このように、学校・教育そのものが、否定の否定であり、回り道である。
私は、本日一年生に対する担任の指導の回り道の事実について気付く事ができた。
それは、教員時代の私が普通にやっていた指導なのに…
今日の今日まで、私が「否定の否定・回り道」と全く気付かなかった事。
それは以下のような事実である。
今日の二校時、一年二組の教室体育の補助に入った。
元々は、外・校庭体育だったが台風の為の教室になった授業。
内容は、運動会での「ダンス」種目の練習。
初めに担任が以下の指示を出した。
「みんなで机を後ろに寄せて、終わったら、おしゃべりしない、静かに体育座りで待つ事」
しかし、机の移動が終わっても、子供達は指示通りに待っずザワザワしていた。
そこで、そんな児童達に担任の説教が始まった。
その説教は以下のような内容・言葉に
「…すぐに練習を開始したかった…その為の初めの指示なのに…お喋り・ふざけ合い…で出来なかった…」
私は、担任の言動を矛盾だと感じた。
説教での「すぐに早く始めたかった」という言葉・内容、と
実際は直ぐ始めずに長々と説教し続けている行為の矛盾。
それは、小学校中・高学年以上になると、誰もが感じる不満であろう。
私も学生時代に、同じように感じ続けていた、のに教師が怖くて口に出せずにいた事。
そんな私だったが…今日の私は、「これは回り道であり、否定の否定」だと気付き痛感した。
教員の説教は何の為?
それは、説教によって、今の児童・生徒の言動・行為を変える為のモノ。
上記の場合の説教では、今後は、児童達が、教師の指示に従って静かに待てるようになり、すぐに練習開始が可能になれば、練習時間は、ずっと多くなり得る。
今日の練習時間は、説教の為に結果的には短くなっても、
今後は、説教の効果があれば、より長い時間が生まれる。
今回は、直ぐに練習開始しない(否定)して、
…長い説教での回り道…
結果、次回は児童のお喋り・教師の説教なし(否定)で、そく開始可能。
教育の本質が「否定の否定・回り道」のような矛盾であるから、
当然に、具体的な教育過程も、「矛盾」となり得る。
教師は、自己の教育・過程での矛盾を常に意識・自覚する必要があろう…
今回の担任も自分の矛盾を自覚・意識できていたなら、
説教の終わりに、以下のような言葉を加えられただろう。
「
「…今回のように、早く練習したかったのに、先生が長々説教したのは、
先生の言葉で、みんなに変わって欲しかった。
次回は、お喋りもふざけのなしで、直ぐに練習を始められる
みんなになって欲しかった、から…(と怒り顔をやめた、思いっ切りの笑顔で伝える)
「急がば回れ」という言葉・教え・諺がある。
意味は、「早く着くためには、危険な近道より遠くても安全で確実な方法をとったほうが早く目的を達できる」である。
より詳しくは、「急がば回れ」の例文!小学生にでもわかりやすく簡単な短文で! | 贈る言葉情報館 (okurukotoba.tokyo) にどうぞ。
学校教育も一つの大きな回り道と言えよう。
身体的には未熟な小・中学生は無理でも、
17歳(中学卒業)位になれば、大人と同じレベルの身体的労働が可能である。
それでも、高校へ通う理由は、現代社会の文化レベルでの頭脳労働を可能にする為である。
これは、今すぐ肉体的な労働は可能な身体でも、それを否定(労働しない)で更に学校へ通う。
そく働く(直行)を否定して、教育を受ける(曲行)回り道、結果、頭脳労働可能な頭脳獲得、と言えよう。
このように、学校・教育そのものが、否定の否定であり、回り道である。
私は、本日一年生に対する担任の指導の回り道の事実について気付く事ができた。
それは、教員時代の私が普通にやっていた指導なのに…
今日の今日まで、私が「否定の否定・回り道」と全く気付かなかった事。
それは以下のような事実である。
今日の二校時、一年二組の教室体育の補助に入った。
元々は、外・校庭体育だったが台風の為の教室になった授業。
内容は、運動会での「ダンス」種目の練習。
初めに担任が以下の指示を出した。
「みんなで机を後ろに寄せて、終わったら、おしゃべりしない、静かに体育座りで待つ事」
しかし、机の移動が終わっても、子供達は指示通りに待っずザワザワしていた。
そこで、そんな児童達に担任の説教が始まった。
その説教は以下のような内容・言葉に
「…すぐに練習を開始したかった…その為の初めの指示なのに…お喋り・ふざけ合い…で出来なかった…」
私は、担任の言動を矛盾だと感じた。
説教での「すぐに早く始めたかった」という言葉・内容、と
実際は直ぐ始めずに長々と説教し続けている行為の矛盾。
それは、小学校中・高学年以上になると、誰もが感じる不満であろう。
私も学生時代に、同じように感じ続けていた、のに教師が怖くて口に出せずにいた事。
そんな私だったが…今日の私は、「これは回り道であり、否定の否定」だと気付き痛感した。
教員の説教は何の為?
それは、説教によって、今の児童・生徒の言動・行為を変える為のモノ。
上記の場合の説教では、今後は、児童達が、教師の指示に従って静かに待てるようになり、すぐに練習開始が可能になれば、練習時間は、ずっと多くなり得る。
今日の練習時間は、説教の為に結果的には短くなっても、
今後は、説教の効果があれば、より長い時間が生まれる。
今回は、直ぐに練習開始しない(否定)して、
…長い説教での回り道…
結果、次回は児童のお喋り・教師の説教なし(否定)で、そく開始可能。
教育の本質が「否定の否定・回り道」のような矛盾であるから、
当然に、具体的な教育過程も、「矛盾」となり得る。
教師は、自己の教育・過程での矛盾を常に意識・自覚する必要があろう…
今回の担任も自分の矛盾を自覚・意識できていたなら、
説教の終わりに、以下のような言葉を加えられただろう。
「
「…今回のように、早く練習したかったのに、先生が長々説教したのは、
先生の言葉で、みんなに変わって欲しかった。
次回は、お喋りもふざけのなしで、直ぐに練習を始められる
みんなになって欲しかった、から…(と怒り顔をやめた、思いっ切りの笑顔で伝える)
Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。
こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。
このコメント欄に投稿することで今まで気がつかなかった多くの事に気がついて来ていることは望外の喜びです。
特に20代の前半で初めて『マルクス主義国家論』を読んだ時に良く分からなかった《Kraft(自然の力)、Macht(権力)、Gewalt(強制力)の区別と連関》なるものが、国家生成当時の畿内の旱魃による飢饉という「天災による食糧難」という具体的事実でイメージされたことは、《理論を支える反映像》としてカントの『純粋理性批判』が身近に感じられた幸福でした。
このように10代の頃に見た夢が現実化されて私の実力が拓けていることは、取りも直さず私の身体意識が緻密なものとして拓かれて来ているからだと実感しています。
私の先生は「優秀な人物は身体意識で考える」と発言していますけど、正しく私はその道を歩いている、これからも歩き続けると決意しています。