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空海お宅へ「幸運・不運の弁証法性」

2023-10-15 22:32:28 | ~ものは考えよう~
空海お宅へ「幸運・不運の弁証法性」


今回は、以下の空海コメントへの私コメント記事である




>・コメントを書いた人
>空海

・コメント
>>今回の「運」「不運」は、「万事塞翁が馬」ということです。

>それはビックリしましたね。自由びとさん(能力的に低劣だから「さん」づけせずに呼び捨てでも構わないレベルの実力だと判断していますけど、敢えて「さん」づけします)の元の記事だと私のようき「運とは運ばれてくるモノであり、それには良きモノが運ばれてくることと、悪しきモノが運ばれてくる場合とがある」という理解ではなく、
「運とは受け取るものであり、条件次第で受け取れないことがある」という考えですから、「悪い運を受け取る」という考えは無かったわけです。



>「万事塞翁が馬」とは「悪いことがあっても、また良いことが起こり、そしてまた悪いことが起こったり良いことが起こったりするものだから、小さな事で一喜一憂することなく生きて行きましょう」ということだと思いますね。

>「その時の「幸運」が後の「不運」へ、またその後の「幸運」になり得る」ということではなく、
つまりは「広島や長崎に原子爆弾が落とされて多くの日本国民が被爆者として苦しんだ」という不運が、
この「被曝」ということが後の幸運になるということではなく、


嫌な事ですが…
不幸・不運な「原爆の結果」が、(アメリカの勝利)終戦という「幸福・幸運」になり、
終戦の結果、更なる多くの人々の死を回避できた「幸福・幸運」です。

幸運・不運は同じ者には同時にきません。
同時にあり得るのは、対立した者達です。


>その不運・不幸とは全く別の方向から別の事柄として幸せとして訪れるから、未来の幸せを見据えて今の不幸を嘆くべからず、みたいな話しだと思いますね。

>不幸が幸せに、幸せが不幸に繋がるという理解だと、幸せになるためには不幸を目指さないといけないという、過去の様々な拷問だとかの不幸を「幸せに転化するための前提」みたいな《阿呆きわまる乞食の観念》として理解する徒花の思考だと判断できます。





この空海には、「言語」社会性が全く理解されていない!

相手への「さん」付けは、言うなれば社会性の現れであり、普通の社会人なら、相手の能力・人格に無関係で使用している。
それを以下のように~この空海お宅はワザワザ

>(能力的に低劣だから「さん」づけせずに呼び捨てでも構わないレベルの実力だと判断していますけど、敢えて「さん」づけします)<


と書き込んでいる…余程のバカ・アホor社会性欠如状態の者なのだろう。



そもそも…この「幸運・不運」の概念の一致がない自由びとと空海お宅なら、同じ説明・言葉・認識になり得ないのは当然であろう。
そんな判断も出来ずに、このブログ記事への反論とは…思考・概念の相違(良し悪しではなく)が理解不能な者である。



私は、「運⇒幸運・不運」があるのではなく、
その人間が、ある事実・物事に対して、自己の立場から勝手に「幸運・不運」と決めつけている、と考えている。

ただ、そのある事実・物事が、非日常的であり、偶然性が強いモノに限られる。
普通に得られる結果(予想可能なモノ)を人は、幸運・不運とは思わないだろうから…

「運を受け取る」とは、私にはない考えである。

例えば、歩いていてカラスのウンチを浴びたとする。
これは、「運を受け取る」ではなく、
運悪く、ウンチをもらった事にある。
運が悪いとは、不運な事に見舞われた(受け取った)事であり、「不運を受け取った」のではない。

運・不運とは、なかなか起こり得ないような事に出会った…そんな事だと考える。
または、そのような、不幸が起きる契機・幸運が起こせるチャンス…とも考えられる。

受け取ったのは、「運」ではなく、
ある事実・物事(契機)であり、人は、その物事の経過・結果に対して「幸運・不運」の判断・評価が生じてくる。


「万事塞翁が馬」の場合は、「馬を失った」事が不幸、で始まっていますね…

そうそう知っていました~
「学研現代国語辞典辞書」の「幸せとは良い運に恵まれている(幸運)」
「不幸」の類語は「不運」ですよ。

だから、「万事塞翁が馬」なのですよ!

空海お宅には、「幸福・不幸の意味が幸運・不運」となり得る事が分かっていない…
チャンと辞書も調べずに、自分勝手に別物と理解している、ようですね。

言語は認識の表現ですよ!
問題は、言葉・言語ではなく、その言語を発した者の認識です。

「人間万事塞翁が馬」の概念を「幸運・不運」で考えるなら~

例えば…
ある日・ある深夜に、暴走野郎が、いつもの道路を暴走していたとします。
その夜、たまたまパトロールしていた白バイ警官に発見され、追跡された、とします。

暴走野郎が超猛スピードで逃げ、それを警官が猛スピードで追う。
その時、たまたまその白バイが不具合で追えなくなった、とします。

暴走野郎は白バイの故障で逃げられて「幸運」、
白バイ警官たまたまの故障で追えずに「不運」。

でも、暴走野郎は逃げられて、スピード出し過ぎで道を渡る犬をひいて事故⇒「不運」
白バイ警官も故障なく追っていたら、一緒に事故かも…逃げられた事の「不運」が、実は「幸運」




>その不運・不幸とは全く別の方向から別の事柄として幸せとして訪れるから、未来の幸せを見据えて今の不幸を嘆くべからず、みたいな話しだと思いますね。

>不幸が幸せに、幸せが不幸に繋がるという理解だと、幸せになるためには不幸を目指さないといけないという、過去の様々な拷問だとかの不幸を「幸せに転化するための前提」みたいな《阿呆きわまる乞食の観念》として理解する徒花の思考だと判断できます。



「幸せは幸運」・「不幸は不運」で、辞書的には同じモノ。

運がいい事が幸せ、運が悪い事が不幸。
どちらも、ある同じ事実・物事を評価した言葉。

空海お宅って、
こ難しい言葉・知識ばっかり詰め込んでいて、
その現代国語力が、小学生以下なのでは…ないのですか?

不幸が幸せにつながる場合とは、
NHKドラマの「おしん」とか、
「苦労(不幸)は買ってもしろ」とか、
「可愛い子には旅(の苦労)をさせよ」とか、

何の苦労のない生活から、ワザワザ「苦労を買う」のは、不幸ですね。
幼い「おしん」のような生活環境は、不幸です。

それで、その不幸に耐え続けて頑張った結果が幸せ・幸運、でしょう。

「不幸一般」の問題ではなく、
どのような「不幸」が、幸福に繋がるか、が問題です。

空海お宅には、
幸福に繋がる不幸と、
更なる不幸になり得る不幸、の区別がない!ですね。


全くもってして…弁証法性が零零零の空海お宅でした。






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