2013年01月27日
心に青雲ブログ「岡目八目さんの教育論」を読んで…
「体罰」について、禁止or容認と色々と書かれている。「体罰」とは、ある行為に付けられた呼び方であり、時には「しごき」、「愛の鞭」、「暴力」…等とも呼ばれたりもしている。
「名は体を表す」と言われているように、ある人がある行為をどの様な名のもと=意識で行ったかによって、その結果・効果も異なってしまうものである。
従って教育現場においては「体罰」ではなく、教育的指導であってしかるべきであろう。
では、ある行為を「体罰」として行う事と、教育的指導として行う事とでは、何がどのように異なってくるのだろうか。
教育的指導とは、その児童・生徒が「文化遺産の継承と発展」ができるように、指導することである。即ち、そのある行為とは、児童・生徒の変化=意図的成長を期待してのものである。従って、その教育手段を用いて指導を行っているには関わらず、目的とする効果・結果が現れない場合、その行為を見直す必要がある、と私は考えている。
勿論、短期では駄目で、長期的持久戦的指導が必要な場合も当然あろう。しかし、「体罰」と呼ばれ得るその行為とは、「罪に対しての罰」的もの「失敗に対しての罰」的で、即効性あるもの、急速な量質転化を期待するものであろう。
「急速な量質転化」の為の手段であるなら、同一人物に用いて即効的結果・効果が出ない場合は、継続的使用や多用すべきではなく、別の手段を考えて然るべきものであろう~
上記の観点より、教育現場における体罰的行為の多用や継続的使用は禁止されて然るべきであろう。当然に教師たるもの「体罰」を加えるという意識で、その行為を行うべきものでもない、と今の私は考えている。
初めて小学三年生の担任になった時、そう23歳の時、私は児童の授業態度、姿勢、学校での生活…を緊張感あるものにしよう、と考えた。そこで、「気を付け」と立つ時、指先をシッカリ伸ばす事、足の踵を付ける事を徹底することにした。
口で注意しても、気付けない、出来ていない児童には、掌への平手打ち、踵を付けていない児童へは、踵への蹴りを入れて指導した。これは指導法として、身体感覚への直接の指導としてとても効果があり、何人かに行ったところ、それ以後は口頭での注意で十分な指導効果を得る事ができた。
これを人は体罰と呼ぶかもしれないが…私はあくまで「できていない罰」では無く、教育的指導として用いたのである。
また、身体への打撃だけではなく、ドスの効いた太く大きい声、児童が怖いと感じる目つき顔つきも練習したものであった。
また、大声で児童を睨み怒鳴りつけ叱っている時でも、横から無関係な他児童が話し掛けてきた時は、瞬時に普段の顔、声に戻しての対応を心掛けたものであった。
現代の小学校高学年から中学、高校では、怖い物知らず我儘な自己中心的児童・生徒もかなり
いるようで、口頭での注意を聞けない児童・生徒のせいで、公立中学では授業が思い通り進まず、真面目な教師ほど精神的にまいってしまい、休みがちになってしまうそうである。
このような状態で「体罰禁止」を「体罰解禁」にしたら、どうなるか…
学生時代にまともにスポーツや武道で身体感覚、身体コントロールを習得していない教師が、教育的指導の名の元に遠慮なく「体罰」を児童・生徒に加えたら、ひ弱な現代の子供達は如何に相成る事でしょう…
教師は「体罰」的教育手段に頼る前に、ひと睨み、ひと怒鳴りで児童・生徒を黙らせる迫力と自己の指導への理論的裏付け、その自信からの気迫、そして、その効果・結果を冷静かつ客観的に判断して日々の反省を実践するべきであろう~。
従って、岡目八目殿の以下の言葉は、教師の立場からは、決して思ってはいけないものである、と今の私は考えている。
……引用開始……
そこで今問題になっている、体罰についてですが、一般的に言って体罰は、教育指導の一手段として容認されるべきであり、禁止されるべきではありません。大事なことは個の感情が何よりも優先されるべきではなく、日本國民全体が日本國を見事に発展させるためにふさわしい日本國民として成長することであるからです。それが教育の目的であるからであり、その教育の目的から判断されなければならないからです。ところが、現状は個の命・人生・感情が何よりも優先され、そこから判断されてしまって、結果として教育が損なわれてしまっています。
……引用終了……
そもそも…現代の教師のどれだけが「日本國民全体が日本國を見事に発展させるためにふさわしい日本國民として」児童・生徒を「成長」させるの視点で彼らと関われているのだろうか?
「君が代」静聴で起立しない教師に「日本國を見事に発展させる為」等という視点での教育が可能なのだろうか?
「個の感情が何よりも優先されるべきでなく…」という一般論として正しい事も、教師自身が「日本國」的視点でなく個人的視点でしかない以上、「禁止の体罰」を用いた、その体罰的指導そのものも個人的感情を優先したものに過ぎないのだろう…
以上の視点からも現代の多くの教師による体罰は、個人的感情を優先した私的罰になり得る可能性大である、と私には思えているのだが…
「そこで今問題になっている、体罰についてですが、一般的に言って体罰は、教育指導の一手段として容認されるべきであり、禁止されるべきではありません」(by岡目八目)と書かれているが、教師側に「体罰」を教育的手段として使える実力があるとは思えない現時点では、一般的に正しくとも、その実施の為の条件不足で実際には否認されるべきものであろう~以上は私の私的見解で個人的意見である…
そもそも体罰的教育手段は、劇薬的で副作用的ものも強いのである。この指導を実施した場合、教師たるものは、その後の効果・結果を冷静に客観的に観察・分析して、くれぐれもその指導を児童・生徒に体罰と思わせない指導、関わりが不可欠であろう~
児童・生徒に「体罰」と思われ、言われた時点で、その教師の指導は失敗である、と私は思っている…
一般論とは、あらゆる立場を離れて一般的観点による論理である。しかし、現実の生きている人間には、その人のそれぞれの立場というものがある。
この場合、教師の立場からは「体罰的指導」を容認してはいけないと思う。教師たるもの安易に「体罰的指導」に頼るべきではない、と私は考えている。それでも、あらゆる考え得る教育的手段を尽くした末に、それでも熱意のあまり「体罰的指導」をしてしまった時は、当人は反省すべきであろう。しかし、児童・生徒や保護者は、その「体罰的指導」の正当性=他に手段が考えられず熱意のあまり、を容認し了解して従うべきであろう~
そのように児童・生徒や保護者に了解され容認されようが、教師たるもの「体罰的指導」に二度と頼るべきで無い、と反省するべきであろう~それでも…
一般論は一般論であり、一般論をそのまま用いて、個別の問題解決は難しいのだろう…
↑~
凄い!十年前の私へ拍手~
~パチ!パチ!パチ!~
心に青雲ブログ「岡目八目さんの教育論」を読んで…
「体罰」について、禁止or容認と色々と書かれている。「体罰」とは、ある行為に付けられた呼び方であり、時には「しごき」、「愛の鞭」、「暴力」…等とも呼ばれたりもしている。
「名は体を表す」と言われているように、ある人がある行為をどの様な名のもと=意識で行ったかによって、その結果・効果も異なってしまうものである。
従って教育現場においては「体罰」ではなく、教育的指導であってしかるべきであろう。
では、ある行為を「体罰」として行う事と、教育的指導として行う事とでは、何がどのように異なってくるのだろうか。
教育的指導とは、その児童・生徒が「文化遺産の継承と発展」ができるように、指導することである。即ち、そのある行為とは、児童・生徒の変化=意図的成長を期待してのものである。従って、その教育手段を用いて指導を行っているには関わらず、目的とする効果・結果が現れない場合、その行為を見直す必要がある、と私は考えている。
勿論、短期では駄目で、長期的持久戦的指導が必要な場合も当然あろう。しかし、「体罰」と呼ばれ得るその行為とは、「罪に対しての罰」的もの「失敗に対しての罰」的で、即効性あるもの、急速な量質転化を期待するものであろう。
「急速な量質転化」の為の手段であるなら、同一人物に用いて即効的結果・効果が出ない場合は、継続的使用や多用すべきではなく、別の手段を考えて然るべきものであろう~
上記の観点より、教育現場における体罰的行為の多用や継続的使用は禁止されて然るべきであろう。当然に教師たるもの「体罰」を加えるという意識で、その行為を行うべきものでもない、と今の私は考えている。
初めて小学三年生の担任になった時、そう23歳の時、私は児童の授業態度、姿勢、学校での生活…を緊張感あるものにしよう、と考えた。そこで、「気を付け」と立つ時、指先をシッカリ伸ばす事、足の踵を付ける事を徹底することにした。
口で注意しても、気付けない、出来ていない児童には、掌への平手打ち、踵を付けていない児童へは、踵への蹴りを入れて指導した。これは指導法として、身体感覚への直接の指導としてとても効果があり、何人かに行ったところ、それ以後は口頭での注意で十分な指導効果を得る事ができた。
これを人は体罰と呼ぶかもしれないが…私はあくまで「できていない罰」では無く、教育的指導として用いたのである。
また、身体への打撃だけではなく、ドスの効いた太く大きい声、児童が怖いと感じる目つき顔つきも練習したものであった。
また、大声で児童を睨み怒鳴りつけ叱っている時でも、横から無関係な他児童が話し掛けてきた時は、瞬時に普段の顔、声に戻しての対応を心掛けたものであった。
現代の小学校高学年から中学、高校では、怖い物知らず我儘な自己中心的児童・生徒もかなり
いるようで、口頭での注意を聞けない児童・生徒のせいで、公立中学では授業が思い通り進まず、真面目な教師ほど精神的にまいってしまい、休みがちになってしまうそうである。
このような状態で「体罰禁止」を「体罰解禁」にしたら、どうなるか…
学生時代にまともにスポーツや武道で身体感覚、身体コントロールを習得していない教師が、教育的指導の名の元に遠慮なく「体罰」を児童・生徒に加えたら、ひ弱な現代の子供達は如何に相成る事でしょう…
教師は「体罰」的教育手段に頼る前に、ひと睨み、ひと怒鳴りで児童・生徒を黙らせる迫力と自己の指導への理論的裏付け、その自信からの気迫、そして、その効果・結果を冷静かつ客観的に判断して日々の反省を実践するべきであろう~。
従って、岡目八目殿の以下の言葉は、教師の立場からは、決して思ってはいけないものである、と今の私は考えている。
……引用開始……
そこで今問題になっている、体罰についてですが、一般的に言って体罰は、教育指導の一手段として容認されるべきであり、禁止されるべきではありません。大事なことは個の感情が何よりも優先されるべきではなく、日本國民全体が日本國を見事に発展させるためにふさわしい日本國民として成長することであるからです。それが教育の目的であるからであり、その教育の目的から判断されなければならないからです。ところが、現状は個の命・人生・感情が何よりも優先され、そこから判断されてしまって、結果として教育が損なわれてしまっています。
……引用終了……
そもそも…現代の教師のどれだけが「日本國民全体が日本國を見事に発展させるためにふさわしい日本國民として」児童・生徒を「成長」させるの視点で彼らと関われているのだろうか?
「君が代」静聴で起立しない教師に「日本國を見事に発展させる為」等という視点での教育が可能なのだろうか?
「個の感情が何よりも優先されるべきでなく…」という一般論として正しい事も、教師自身が「日本國」的視点でなく個人的視点でしかない以上、「禁止の体罰」を用いた、その体罰的指導そのものも個人的感情を優先したものに過ぎないのだろう…
以上の視点からも現代の多くの教師による体罰は、個人的感情を優先した私的罰になり得る可能性大である、と私には思えているのだが…
「そこで今問題になっている、体罰についてですが、一般的に言って体罰は、教育指導の一手段として容認されるべきであり、禁止されるべきではありません」(by岡目八目)と書かれているが、教師側に「体罰」を教育的手段として使える実力があるとは思えない現時点では、一般的に正しくとも、その実施の為の条件不足で実際には否認されるべきものであろう~以上は私の私的見解で個人的意見である…
そもそも体罰的教育手段は、劇薬的で副作用的ものも強いのである。この指導を実施した場合、教師たるものは、その後の効果・結果を冷静に客観的に観察・分析して、くれぐれもその指導を児童・生徒に体罰と思わせない指導、関わりが不可欠であろう~
児童・生徒に「体罰」と思われ、言われた時点で、その教師の指導は失敗である、と私は思っている…
一般論とは、あらゆる立場を離れて一般的観点による論理である。しかし、現実の生きている人間には、その人のそれぞれの立場というものがある。
この場合、教師の立場からは「体罰的指導」を容認してはいけないと思う。教師たるもの安易に「体罰的指導」に頼るべきではない、と私は考えている。それでも、あらゆる考え得る教育的手段を尽くした末に、それでも熱意のあまり「体罰的指導」をしてしまった時は、当人は反省すべきであろう。しかし、児童・生徒や保護者は、その「体罰的指導」の正当性=他に手段が考えられず熱意のあまり、を容認し了解して従うべきであろう~
そのように児童・生徒や保護者に了解され容認されようが、教師たるもの「体罰的指導」に二度と頼るべきで無い、と反省するべきであろう~それでも…
一般論は一般論であり、一般論をそのまま用いて、個別の問題解決は難しいのだろう…
↑~
凄い!十年前の私へ拍手~
~パチ!パチ!パチ!~