2013年03月15日
意図的変化運動をさせている認識
ある人が忠告してくれた…
「あんな日記レベルのブログ等止めなさい!」、
「あのような事は自分の日記に書いておけば、いいでしょう!」と…
また、ある人は呆れていた…
「よくも~まあ~恥ずかしくも無く、あんな内容のブログを書いていられるね~」と…
私は想う~
『両名のおっしゃる通りである。』、
『御尤もな事である。』と~
しかし、私は私の現時点での私の認識を視覚化したく書いているのである。
瞬間瞬間変化運動している私の認識、その認識はある量=厚さになると、私はその認識を私の認識として自覚できるのだろう。
しかし、認識的実在である人間において、その認識はその人物のその時々の気分的意識的恣意的問い掛けによって、変化運動してしまっている為、同じAを見続けていても、今の瞬間のA像と次の瞬間のA像とは、微妙に、時には大きく異なってしまっているものなのだろう~
このように異なっているA像の積み重ねでは、そのAをAとしての正確に認識可能な厚みのある認識に到達するのに、どれ程長い時間が必要となるのだろう~
そこで~弁証法なのである。
弁証法を駆使して自己の認識、問い掛け的認識を対象Aの変化運動に合わせて変化運動させる。
すると~弁証法を駆使して対象に則して、自己の認識を変化運動させつつ、その変化運動的な問い掛けて的認識で対象に問い掛け続ける事で、比較的短時間で対象を対象として正しく認識し得るだけの厚みある認識を獲得でき、そして、その対象を正確に認識できるのだろう~
私は今日の私が知りたい、
そして、その今日の私で、明日の私に問い掛けたい、
そして、その明日の私を知りたい、
その明日の私で明後日の私に問い掛けたい~
そして~~
でも…これって日記でもいいんじゃな~い?!
そう~私は過去に何回と無く日記に挑戦した…
そして…私は何度と無く敗れ去ってきた…
私のカラーボックスには、
一体全体?何冊の途中で終わっている日記、
十数ページも残っている日記、
書き終わっていない日記、
綺麗な日記があるのだろうか…
こんなそんな私にとってブログ形式は、
とても重宝しているのである♪♪♪
意図的変化運動をさせている認識
ある人が忠告してくれた…
「あんな日記レベルのブログ等止めなさい!」、
「あのような事は自分の日記に書いておけば、いいでしょう!」と…
また、ある人は呆れていた…
「よくも~まあ~恥ずかしくも無く、あんな内容のブログを書いていられるね~」と…
私は想う~
『両名のおっしゃる通りである。』、
『御尤もな事である。』と~
しかし、私は私の現時点での私の認識を視覚化したく書いているのである。
瞬間瞬間変化運動している私の認識、その認識はある量=厚さになると、私はその認識を私の認識として自覚できるのだろう。
しかし、認識的実在である人間において、その認識はその人物のその時々の気分的意識的恣意的問い掛けによって、変化運動してしまっている為、同じAを見続けていても、今の瞬間のA像と次の瞬間のA像とは、微妙に、時には大きく異なってしまっているものなのだろう~
このように異なっているA像の積み重ねでは、そのAをAとしての正確に認識可能な厚みのある認識に到達するのに、どれ程長い時間が必要となるのだろう~
そこで~弁証法なのである。
弁証法を駆使して自己の認識、問い掛け的認識を対象Aの変化運動に合わせて変化運動させる。
すると~弁証法を駆使して対象に則して、自己の認識を変化運動させつつ、その変化運動的な問い掛けて的認識で対象に問い掛け続ける事で、比較的短時間で対象を対象として正しく認識し得るだけの厚みある認識を獲得でき、そして、その対象を正確に認識できるのだろう~
私は今日の私が知りたい、
そして、その今日の私で、明日の私に問い掛けたい、
そして、その明日の私を知りたい、
その明日の私で明後日の私に問い掛けたい~
そして~~
でも…これって日記でもいいんじゃな~い?!
そう~私は過去に何回と無く日記に挑戦した…
そして…私は何度と無く敗れ去ってきた…
私のカラーボックスには、
一体全体?何冊の途中で終わっている日記、
十数ページも残っている日記、
書き終わっていない日記、
綺麗な日記があるのだろうか…
こんなそんな私にとってブログ形式は、
とても重宝しているのである♪♪♪