2013年03月03日
センチメンタル・マイ・マインド
今日はチョット?と言うよりかなり感傷的に書いてみた。
数日前に、フッと息子の、そう二、三歳の時の息子の姿が脳裏を過ぎった。あの「パパちゃん~」と言う息子の声と純真無垢で素直そのものの当時の息子の顔が浮かんで来た。それは、冷蔵庫に貼ってある写真の中の息子の顔であった。
今、目の前の(残念ながら今日は従弟の家にいる)息子に、あの当時の表情は、殆ど見る事はできない。
昨日、息子と炬燵に入って座りながら、つい「幼稚園の頃のお前は可愛かったのに…」と言ってしまった。
その後直ぐに「可愛けりゃ~良いってもんでも無いけどね…」、「ハパにとっては可愛いお前が好いけど、大人になってゆくお前にとって、可愛いが良い事とは言えない…」と口から自然に出ていた。
『子を持って初めて知る親心』とは、よく言ったものである。生前の母もキット今の私と同じよう気持ちで、いつも私の事を見ていたのだろう~母にはもっともっと長生きしてもらって孫の顔を見せてやりたかった。
しかし、母が死んでいなければ、たぶん今の認識を持った私の存在は無かったのだろう~本当に『人間万事塞翁が馬』なのだろう~
生前の母はよく私に「今の内に親孝行しておくんだよ!私が死んだら出来ないよ!」と、言っていた。
当時の私は『ふん!何を言ってるんだ~!』と思っていたが、まさか!?その言葉が実現してしまうなんて…これは喜べない現実である…
さて…話は変って本日久し振りに『学城』第六号、「海保静子が遺してくれた未来への手紙」-本田克也―を読んだ。
印象的だったのが、「弁証法の弁証法性」-自己の中に弁証法を創り、育ててゆく的ことが書かれていた。
以前に読んだ時には、こんな感じはなかったのに…
そう~今の私の中に弁証法は創造できているのだろう~か…?!
~あるとすれば、それはシッカリと弁証法的に変化・運動しながら生長しているのだろうか?
~有るのに無いのが弁証法、無いのに有るのも弁証法~
~見える人には見えて、見えない人には見えないのも弁証法~
~見えていても見えない弁証法、見えないのに見えている弁証法~
~弁証法の学びだ!と自信を持って学ぶと身に付かない弁証法~
~知らず知らずに習得した弁証法は弁証法にならない弁証法~
ホンに…厄介な弁証法~
~こんな物…欲しいと思わなければ…キットきっと私はもっともっと不幸せになっていたのかも…
それとも…自分の不幸に気付かない気付けない主観的幸福者だったのかも…
…なんて…ね…
~♪♪♪センチメンタル・マイ・マインド♪♪♪~by 自由びと
センチメンタル・マイ・マインド
今日はチョット?と言うよりかなり感傷的に書いてみた。
数日前に、フッと息子の、そう二、三歳の時の息子の姿が脳裏を過ぎった。あの「パパちゃん~」と言う息子の声と純真無垢で素直そのものの当時の息子の顔が浮かんで来た。それは、冷蔵庫に貼ってある写真の中の息子の顔であった。
今、目の前の(残念ながら今日は従弟の家にいる)息子に、あの当時の表情は、殆ど見る事はできない。
昨日、息子と炬燵に入って座りながら、つい「幼稚園の頃のお前は可愛かったのに…」と言ってしまった。
その後直ぐに「可愛けりゃ~良いってもんでも無いけどね…」、「ハパにとっては可愛いお前が好いけど、大人になってゆくお前にとって、可愛いが良い事とは言えない…」と口から自然に出ていた。
『子を持って初めて知る親心』とは、よく言ったものである。生前の母もキット今の私と同じよう気持ちで、いつも私の事を見ていたのだろう~母にはもっともっと長生きしてもらって孫の顔を見せてやりたかった。
しかし、母が死んでいなければ、たぶん今の認識を持った私の存在は無かったのだろう~本当に『人間万事塞翁が馬』なのだろう~
生前の母はよく私に「今の内に親孝行しておくんだよ!私が死んだら出来ないよ!」と、言っていた。
当時の私は『ふん!何を言ってるんだ~!』と思っていたが、まさか!?その言葉が実現してしまうなんて…これは喜べない現実である…
さて…話は変って本日久し振りに『学城』第六号、「海保静子が遺してくれた未来への手紙」-本田克也―を読んだ。
印象的だったのが、「弁証法の弁証法性」-自己の中に弁証法を創り、育ててゆく的ことが書かれていた。
以前に読んだ時には、こんな感じはなかったのに…
そう~今の私の中に弁証法は創造できているのだろう~か…?!
~あるとすれば、それはシッカリと弁証法的に変化・運動しながら生長しているのだろうか?
~有るのに無いのが弁証法、無いのに有るのも弁証法~
~見える人には見えて、見えない人には見えないのも弁証法~
~見えていても見えない弁証法、見えないのに見えている弁証法~
~弁証法の学びだ!と自信を持って学ぶと身に付かない弁証法~
~知らず知らずに習得した弁証法は弁証法にならない弁証法~
ホンに…厄介な弁証法~
~こんな物…欲しいと思わなければ…キットきっと私はもっともっと不幸せになっていたのかも…
それとも…自分の不幸に気付かない気付けない主観的幸福者だったのかも…
…なんて…ね…
~♪♪♪センチメンタル・マイ・マインド♪♪♪~by 自由びと
それを如何読むかは人それぞれなんでしょうけれど、「家庭内での子供の教育を父と母というチームを組んで行う」という視座はこの記述には皆無で、単に父親である自由びとさんにとって「可愛い」と感じられる息子でいて欲しい、という個人的な主観の吐露となっています。
子供が父親に生意気な態度を取るようになる過程で母親は何をしていたのか?とか、息子の生意気な態度を許している父親である自由びとさんの存在感は何なのか?とか
実際には無いような空想的なバーチャルなお話しが綴られています。
一般的に言って人が他者に生意気な態度を取るということは、その相手からの協力を受け難くすることですから、子供が親離れする時に実の親に生意気な態度を取ることは、家の外の別の人にとって可愛い人間となっていくこと、
つまりは実家の外に自己の存在基盤を作っていくことを意味するでしょうから、父親は父親としての威厳をもって、その息子の巣立っていく成長を心中喜びをもって迎えるのでしょう。
これが実の親ではなく、仮に玄◯会という実家の外部にある団体に所属したならば、そこの大幹部である本田克也さんに生意気な態度を取って可愛いがられなくなることは、指導を受けられなくなることを意味しますから、当人にとっては損ですよね。
そこを未成年の息子さんでも気がつくように指導できるかが親としての実力を試される事柄で、不特定多数の、不特定な誰かにでも可愛い人間であれ!なんて阿保丸出しのお話しでは無いのでしょう。
>空海
>・コメント
>なんでか、随分と沢山の記事を過去のブログから引用したんですね。
↑
「温故知新」的な気持で、旧「悟りを求めて…」ブログを読み返ししていたら…
過去の私の「感情・感想」が、とても懐かしく思い出されてしまい…
ついつい再投稿・再度のアップしたくて堪らなくなってしまいました。
十年前の私の記述の方が、今の私のモノより、分かり易い気がしてしょうがありません。
日記で確認したら、この記述の一年後の2014年から、
特別支援学級の補助員を始めたのです。
>それを如何読むかは人それぞれなんでしょうけれど、「家庭内での子供の教育を父と母というチームを組んで行う」という視座はこの記述には皆無で、単に父親である自由びとさんにとって「可愛い」と感じられる息子でいて欲しい、という個人的な主観の吐露となっています。
↑
それは当たり前です。
何故なら、ここでは個人的な立場からの感想・感情の記述・吐露・暴露・であり、
社会的な父親としての教育・指導…方針とは別物なのですから…。
「教育を父と母というチームを組んで行う」事は、日常茶飯事でしたよ!
そもそも…家内は「おおらか」で私は「細かい」…という性格だったので…
自然的に互いに足りない所・多すぎる所をカバーしあって子育てをしていました。
結果的に、バイト先に居酒屋の店長さんから
「とても立派な息子さんで、いつもとても助かっています!」とお褒めの言葉を頂きました。
>子供が父親に生意気な態度を取るようになる過程で母親は何をしていたのか?とか、息子の生意気な態度を許している父親である自由びとさんの存在感は何なのか?とか
↑~
それは、特に、ここで書きたい事ではなかった…というだけです。
お宅は大きく錯覚・誤解しています。
私が、この個人ブログで何を書こうか…
それは私の自由であり、一々お宅が注文・イチャモン付けてくるのは可笑しいですよ。
私は、「生意気」が悪い事だとは思っていません。
そもそも…「生意気」とは、「年齢・実力に不相応な自己主張」とい側面も否定し難いのです。
「自己主張」という事は、社会的な人間とって必要です。
しかし、実力がないのに…自己主張ばかり、では人に嫌われます。
「生意気」という自己主張は認めると同時に、
その「主張の中身」について意見・批判したり、チョット釘をさしたり…する事はあります。
生意気的ではあっても、自己主張の気持ち・意気込みを認め、
他人に「生意気」と感じさせない言葉にできるように願っての教育です。
>実際には無いような空想的なバーチャルなお話しが綴られています。
↑
何が「空想的なバーチャルなお話」なのか…私には不明です!
>一般的に言って人が他者に生意気な態度を取るということは、その相手からの協力を受け難くすることですから、子供が親離れする時に実の親に生意気な態度を取ることは、家の外の別の人にとって可愛い人間となっていくこと、
つまりは実家の外に自己の存在基盤を作っていくことを意味するでしょうから、父親は父親としての威厳をもって、その息子の巣立っていく成長を心中喜びをもって迎えるのでしょう。
↑
親の感じる自分の「子供の生意気な態度」は、
そこには親の「主観=いつまでも子供のままでいて欲しい」とか…
「いつまでも親の思い通りにいて欲しい」とか…
親の我儘な感情の為でも、あるのでしょうね…
>これが実の親ではなく、仮に玄◯会という実家の外部にある団体に所属したならば、そこの大幹部である本田克也さんに生意気な態度を取って可愛いがられなくなることは、指導を受けられなくなることを意味しますから、当人にとっては損ですよね。
↑
それは、どうでしょうかね?
「生意気な態度」が、あるのではなく、
「他人のとったある種の態度を人が生意気」だと感じしる事があるのです。
従って、お宅が「生意気だと感じるような態度」を取った時に、
本田氏は、その態度に好感を抱いて「更に熱心に指導する」事もあり得ます。
>そこを未成年の息子さんでも気がつくように指導できるかが親としての実力を試される事柄で、不特定多数の、不特定な誰かにでも可愛い人間であれ!なんて阿保丸出しのお話しでは無いのでしょう。
↑
「なんて阿保丸出しの」記述は、お宅の方です。
私が息子に感じる「可愛らしさ」を、
他人も、同じように「可愛い」と思うとは限らないのは当然なのです。
いいですか!
ブログ記述を再読して下さい!
>その後直ぐに「可愛けりゃ~良いってもんでも無いけどね…」、
>「ハパにとっては可愛いお前が好いけど、大人になってゆくお前にとって、
>可愛いが良い事とは言えない…」と口から自然に出ていた。
↑
このように
「大人になってゆくお前にとって、可愛いが良い事とは言えない」
と釘を刺しているでしょうが…
他人の記述へのイチャモン・文句・批判は、
その記述を確りと読んで、記述内容・言葉表現を
「自己の認識化・像化」してからにして下さいね!
もっとも…私的には、そのお宅の、
そのような適当ないい加減さが、結構気に入っていますがね♪♪♪
改めて以下のように思いました。
「十年前の私の記述の方が、今の私のモノより、分かり易い気がしてしょうがありません。」の理由を!
私は、この2013年までは、通常・児童達と関わり続けていました。
でも、翌年の2014年からは、発達障害児との関わりが始まり~
四年間は、「知的障害のある自閉症的な発達障害児達」であり…
次の五年間は、「知的障害のない情緒障害児達」…
その後、今年で三年目の「通常級・低学年児童達」と関わり続けています。
その結果、過去に「一般的に書けたモノ」が、
私の認識内の「特殊性が強くなった」結果…
私の認識内の「一般・通常と発達障害・特殊の像」の言語化が難しくなっている、ようなのです。
お前は「生意気は結構、だがその生意気を向ける方向性に気をつけろ」なんてことは全く書いていなかった。書いていないということは、お前の思案の外、お前が未経験なことを頭で考えて綴った嘘文章の中に表現されていないということ。
お前は「生意気」だから生意気でない可愛い人間であって欲しいという「親」でも「教育者」でも無い阿保丸出しの単なる個人として書いたのだと、私からの指摘で明らかになっただけ。
私も昔のことを思い出す。亡くなった海保氏がおそらくは筆を執っていたであろう玄◯BRY空手のブログで綴られていたのは「私を好きだと言いなさい」という「鬼教官」だと南郷先生に作り上げられた一人の女性の本音だったのだろう。
おそらくは武道講義でロミオとジュリエットの事例を上げていた如くに南郷学派の女性陣は瀬江千史のように大学空手部で一緒だったという稀有な例以外には、玄◯と対立する団体に所属している者との恋愛や結婚は許可しないのだろう。
だから、そうした玄◯女は広末涼子のような奔放な真似も出来ずに誰か玄◯信者であることを容認してくれる間抜けな男を探しているのだろう。
非常に哀れで悲しい顛末ではある(涙)
>空海
・コメント
>自由びと、お前は嘘を書いている。
↑
どんな根拠をもって「嘘を書いている」と断言しているのだろか?
>お前は「生意気は結構、だがその生意気を向ける方向性に気をつけろ」なんてことは全く書いていなかった。書いていないということは、お前の思案の外、お前が未経験なことを頭で考えて綴った嘘文章の中に表現されていないということ。
↑
私の言葉が理解不能なのだろう…
「誰もが生意気or可愛いと感じる言動がある」のではなく、
その人のある言動を、他の人が「生意気」or「可愛い」と感じるのでする。
だから、私が息子に期待したのは、
親や人が求める「可愛い言動」をする。
親や人が嫌がる「生意気な言動」をしない…といった事ではなく。
他人の感情的な評価ではなく、
目的に対しての結果という視点で考える。
>お前は「生意気」だから生意気でない可愛い人間であって欲しいという「親」でも「教育者」でも無い阿保丸出しの単なる個人として書いたのだと、私からの指摘で明らかになっただけ。
↑
お宅には、分からないでしょうね。
息子の、その「生意気な言動」が、
親として、「とても可愛く」感じるなんて現実を…
生意気に育っている息子の姿が可愛い。
親の真似した息子の年齢に不相応な言動が、
大人びた生意気な姿が可愛い!
といった矛盾を~
>私も昔のことを思い出す。亡くなった海保氏がおそらくは筆を執っていたであろう玄◯BRY空手のブログで綴られていたのは「私を好きだと言いなさい」という「鬼教官」だと南郷先生に作り上げられた一人の女性の本音だったのだろう。
↑
へ!そんなブログがあったのですか?
今でもあるなら、教えて下さい!
私も読んでみたいです!
>おそらくは武道講義でロミオとジュリエットの事例を上げていた如くに南郷学派の女性陣は瀬江千史のように大学空手部で一緒だったという稀有な例以外には、玄◯と対立する団体に所属している者との恋愛や結婚は許可しないのだろう。
↑
お宅の妄想が入っていません?
>だから、そうした玄◯女は広末涼子のような奔放な真似も出来ずに誰か玄◯信者であることを容認してくれる間抜けな男を探しているのだろう。
↑
何を書いているのか…理解に苦しんでいます…
>非常に哀れで悲しい顛末ではある(涙)
↑
私からすれば、こんな事しか書けないお宅が「非常に哀れ」ですが…
南郷先生の講義に食生活に関する事柄は最重要の話しだったはず。
そのお前が聞いてノートにメモしたかも知れない最重要の食生活を、自分の妻との親密なる会話で話すことなく、「私はお前に健康で長生きして欲しいんだ」との希望も告げず、心の交流もせずに妻は夫=自由びととは全く無関係に飲み遊んで60代で膵臓ガンで死亡
お前のこの話しは多様な観点からも幾重にも阿呆で嘘丸出しの作為だ。
お前が玄◯に憧れながらも実際には入門できなかった京都の寄せ筆さんなら合点もいくが
お前の大事な目的とやらは南郷先生から健康でいるための食生活を教わりながらも妻は自分とは違う世界の人間だと放置して膵臓ガンで殺害する、という
それがお前の「妻を殺すという目的」だ
>空海
>・コメント
>お前の全てが嘘なのだよ
↑
私にとっての真実は、お宅にとっては虚偽なのですね!
まあ~立場が違うお宅だから致し方ない事でしょうね♪
>南郷先生の講義に食生活に関する事柄は最重要の話しだったはず。
↑
何の話ですかね…
食生活ですか…雑食である人類は、
好き嫌いする事無く多くの種類の食材を食べ、
運動・休息・睡眠を十分にとる事…ですかね。
>そのお前が聞いてノートにメモしたかも知れない最重要の食生活を、自分の妻との親密なる会話で話すことなく、「私はお前に健康で長生きして欲しいんだ」との希望も告げず、心の交流もせずに妻は夫=自由びととは全く無関係に飲み遊んで60代で膵臓ガンで死亡
↑
そう言えば…最近は「食事」の話はあまりしませんでしたね…
家内は忙しく、朝食もあまり食べずに、
昼食は「ケーキバイキング」とか、食べ放題ランチ…
とかを友達とよく行っていたようですね。
夕食は、「太るから」と言って、白米・雑穀・玄米…入りのご飯は、
殆ど食べずに、おかずをつまみにしてビールでしたね…
また、家内は「60代」ではなく、50代=58歳でした。
>お前のこの話しは多様な観点からも幾重にも阿呆で嘘丸出しの作為だ。
↑
人の記述を、いい加減に読んでいるお宅が、
私に「阿保で丸出しの作為」とは、
よくもまあヌケヌケと平気で書けるモノですね…
そんなお宅を人は「マヌケお宅」と呼ぶのでしょうね♪♪♪
>お前が玄◯に憧れながらも実際には入門できなかった京都の寄せ筆さんなら合点もいくが
↑
お宅の自分勝手な大誤解ですよ!
誤認・誤解なのに、分かっているつもりのお宅ですね!
「分っていない事」が「分らない」or
「分らない事」が「分っていない」。
>お前の大事な目的とやらは南郷先生から健康でいるための食生活を教わりながらも妻は自分とは違う世界の人間だと放置して膵臓ガンで殺害する、という
↑
成人・大人の長年の習慣化した食生活は、なかなか変え難いモノですね…
とても残念で悲しい事だったのですが…
>それがお前の「妻を殺すという目的」だ
↑
成る程…お宅は、
そのようにして「嫁殺害を実行した」のですね。
それでもって…まだ発覚していない!とは、
お宅って~嫁殺人のスペシャリストですね。
やはりお前は玄◯の会員ではない。
そんな抽象的なことを南郷先生は講義で話してなどいない。
具体的に「何を食べろ」「何は食べるな」という指導をしていたのだ。
だから、そこを非常に一般的に述べるならば「健康体であるような好き嫌いをしろ」ということになる。
何を企んで嘘八百並べているのだ、お前は?
本田克也さんに破門にされた寄筆一元=若井貴文さんだろ?貴様
>空海
>・コメント
>>雑食である人類は、好き嫌いする事なく多くの種類の食材を食べ
>やはりお前は玄◯の会員ではない。
>そんな抽象的なことを南郷先生は講義で話してなどいない。
↑
その通りです!
私は「玄〇の会員ではな」く、元・玄〇会員ですよ!
>具体的に「何を食べろ」「何は食べるな」という指導をしていたのだ。
↑
それが事実?なら、私に聞く必要は皆無ですよ!
私が、南郷学派の書籍or南郷氏の御講義から学んだ事は以下のような事です。、
なるべく、食品は加工しないで自然のまま、一部ではなく、丸ごと食べる事。
出来るだけ加工品は避ける。
特に馳駆や蒲鉾…等の加工品は癌の元…。
一日の30品目以上の食材を食べる事。
>だから、そこを非常に一般的に述べるならば「健康体であるような好き嫌いをしろ」ということになる。
↑
「好き嫌いする事なく…」が、どのように理解したら
>「好き嫌いしろ」になるのか、私には理解不能ですが…
「(健康の為には)好き嫌いする事なく多くの種類の食材を食べ…」が、
どうして「健康体であるような好き嫌いをしろ」なの?
「好き嫌い」をしてはダメ…なのに、>「好き嫌いをしろ」とは?
普通の人は、「好きだから食べる」・「嫌いだから食べない」なのです。
「健康体の為に好き嫌いしろ」なら、
「健康の為に好きなモノを食べ嫌いなモノを食べない」となるから…
結局、食べる品目が減り、嫌いなモノの中の栄養素が体内に入らない…
即ち自分では健康体だと思っていても…
実は健康体ではない…という矛盾の発生!
そもそも…過去から現在まで、
ずっと一貫して健康体である人物なら継続的に「好きに食べ続ければ」よいでしょう…
ただし、加齢・環境の変化…で生活が変化したら…
習慣的・日常的な飲食を考え直す必要がありますね。
その時は、今ままで「嫌いで避けて食べなかったモノ」を食べる。
確か、肉食中心で野菜を殆ど食べなかった「野球のイチロー選手」が、
結婚後は、奥さんが食生活を管理して野菜の食べるようになった。
という事を聞いた事があります。
若い頃は、あまり気にする事無く、
普通に好き嫌いをして食べても…健康でいられる…のでしょうね。
しかし、歳を取って腹減ったから「カップラーメン」はアウトです。
そう言えば、家内は若い頃からカップラーメンが好きで、
最近も小腹が減るとお菓子ゃカップラーメン…を食べていましたね。
私もカップラーメンは好きでしたが…
いつの頃から全く食べなくなりました。
>何を企んで嘘八百並べているのだ、お前は?
本田克也さんに破門にされた寄筆一元=若井貴文さんだろ?貴様
↑
私は、「何も企んでいませんよ!」
それは、全て空海お宅の妄想の産物ですよ!
私から書かせて頂くなら、
空海お宅こそ、「嘘だ!嘘だ!」と私の記述を否定し続けて
一体全体、お宅こそが「何を企んで」いるのですか? なのですが…