2013年03月14日
悟得への道 <言魂>
人間がある心的状態に達した場合、その心的状態を安定化するのに、言語という道具がある。
その場合、その心境を表現するに相応しい言葉を選択する必要がある。
しかし、その心境を言語で表現した時点で、その心境の元たる心は、その言葉によって規定される事になってしまうのだろう…
その自己の選択した言葉次第で、心のそれ以上の成長・発展が望めなくなってしまうのだろう…
これは、心が言葉によって制限、固定化されてしまうからなのだろう~
それは、心と言葉の相互規定的相互浸透なのだろうか…
だから、成長・発展を望んでいる者は、弁証法的言語表現を選択してゆくべきなのだろう~
弁証法は変化・運動してゆくもの…
その変化・運動してゆく弁証法的言語を用いて言語表現してゆくからこそ、その弁証法的言語表現とその心境が相互規定的相互浸透で量質転化的量質転化化をしつつ成長・発展してゆける可能性が生まれるのだろう~
この心境の表現は、言語だけでは無く、その人間の行動、行為においても同様であろう~
「等身大の思想」が否定されてしまうのは以上のような理由からなのだろうか…
「等身大の思想」とは、今の自分の心境、現在の自分の能力にピッタリの思想という事であろう~
その今現在の自分にピッタリの思想で、自分に問い掛けつつ行動していては、自分を自己にピッタリの型に自分で嵌めこむようなもので、それは、自己の成長・発展の可能性に蓋をしてしまっているようなものなのだろうか…
だから~弁証法的言語表現を、それも魂レベルの言魂を選択してゆこう!ではないか?!
悟得への道 <言魂>
人間がある心的状態に達した場合、その心的状態を安定化するのに、言語という道具がある。
その場合、その心境を表現するに相応しい言葉を選択する必要がある。
しかし、その心境を言語で表現した時点で、その心境の元たる心は、その言葉によって規定される事になってしまうのだろう…
その自己の選択した言葉次第で、心のそれ以上の成長・発展が望めなくなってしまうのだろう…
これは、心が言葉によって制限、固定化されてしまうからなのだろう~
それは、心と言葉の相互規定的相互浸透なのだろうか…
だから、成長・発展を望んでいる者は、弁証法的言語表現を選択してゆくべきなのだろう~
弁証法は変化・運動してゆくもの…
その変化・運動してゆく弁証法的言語を用いて言語表現してゆくからこそ、その弁証法的言語表現とその心境が相互規定的相互浸透で量質転化的量質転化化をしつつ成長・発展してゆける可能性が生まれるのだろう~
この心境の表現は、言語だけでは無く、その人間の行動、行為においても同様であろう~
「等身大の思想」が否定されてしまうのは以上のような理由からなのだろうか…
「等身大の思想」とは、今の自分の心境、現在の自分の能力にピッタリの思想という事であろう~
その今現在の自分にピッタリの思想で、自分に問い掛けつつ行動していては、自分を自己にピッタリの型に自分で嵌めこむようなもので、それは、自己の成長・発展の可能性に蓋をしてしまっているようなものなのだろうか…
だから~弁証法的言語表現を、それも魂レベルの言魂を選択してゆこう!ではないか?!