2013年02月06日
青雲ブログ『反骨を育むための体罰指導』に想う事…
反骨―権力や世間一般の傾向に簡単に従うことなく、自分が正しいと考えることを貫き徹す気持ち。(例解新国語辞典)
反骨とは上記のような事なのだから、今回の女子柔道の15人は組織や指導者の権力に簡単に従うことなく、弁護士=法律的力を用いて、「自分の正しいと考えたことを貫き通した」ということで「反骨精神を育んだ」という効果があったといえるのだろう。
この点でブログ主の書かれている通り『反骨精神を育むための体罰指導』は正しいと言えるのだろう。
これが、一般論である…
しかし、彼女らが、今では過去になってしまったあの体罰的指導の元で修業しつつ修行して強くなってゆく事と、新たな~それなりに彼女らにとって心地よい環境で修業を続けてゆく事とを比較した時、果してどちらが彼女らにとって武道的精神の修養になってゆくのだろう~か…
この様な結果になってしまった原因は色々と考えられるであろう~しかし、まともな指導者ならば、その原因を全て自己の責任として反省すべきである、と私は考えているが…。
一般的反省として、自己の体罰的指導を教育的指導として被指導者に反映させる事ができずに、彼女らに感情的体罰として受け取られてしまった、という失敗である。
具体的場面として、例えば~指導者の「何やってんだ!お前!こんなのじゃ~試合に出さんぞ!」という発言であるが…
こう裏にある認識は『実力あるお前なら試合に出て闘える筈なのに…、でも…こんな今のような弛んだ気持ちで練習していては試合で勝てないぞ、出て闘う意味が無いぞ~もっと気を引き締めろ!』的想い…
また、「死ね!死んでしまえ!」とは、『もっと必死になれ!武道の負けは即=死だ!と考えて練習しろ!このままじゃ~負けて死ぬぞ~』的想い…
そして、「馬鹿!アホ!人間やめてしまえ~!」は、『身体だけで覚えるな!お前も人間なら頭脳を使って考えて練習しろ!それが出来ないなら人間やめてしまえ!』的想い…
このような暴言的指導も単発であれば、ショック療法的効果を期待できようが…頻繁に使用したのでは、その教育的効果は怪しくなってしまうのだろう(特に現代の若者は)。と同時に信頼関係も危ういものとなるのだろう~それを未然に防止する為に、暴言の裏のその想いの言語化を稽古中でない時、指導者が感情的情熱的でなく、知性的理性的情熱的な時に、じっくりと優しく分かり易く被指導者の感情と頭脳に熱く語りかける指導が必要であろう~
同じように、身体への体罰的指導-平手打ちや蹴り…等は、指導者が自己の強い想いを言語化出来ずに想いあまっての単発的行為なら、まだその指導者の想いも何とか被指導者に伝わるだろう(それでも、一般的に女性には伝わり難い)が、それを頻繁に使用していたのでは、その行為が被指導者には、『自己に加えられた、いわれなき無き罰』と反映され、そして納得できず、反発を感じてしまうようになるのだろう~
驚いた?というか可哀想になってしまった事は、確か『岡目八目さんの教育論』の中で書かれていた「園田前監督が、被指導者に平手打ちをしながら道理を説いていた」的内容の文面である。
これなどは過去のペット犬の躾方法であり、今時はペットの躾さえもこのような方法は効果が薄いと否定されているのである…そう~過去に父がシェパード犬を買って、訓練所に出した時に、そこで現代の犬の躾について色々と聞かされたのであるが…。
また、実際に体罰的指導の失敗の実例を私は目のあたりにしている。
それは、息子の同級生のK君である。彼と初めて会ったのは息子が幼稚園の時、彼が保育園児の時である。
当時、自宅近くのトイレ公園で、初めは別々に遊んでいた二人は、そのうち一緒に遊ぶようになり、そして子供同士の自己主張の衝突の結果喧嘩になった。息子はK君に顔面パンチを一発喰らって大泣きで終了であった。
問題は、その後であった。近くで見ていたK君の母親が駆け寄り、彼に謝罪させようとするのだが、K君は全く聞き入れない、母親が手を上げて言い聞かせようとしても駄目であった。
私は『痛い思いをした息子は可哀想だか…これも良い経験になるだろう~』と考え、その旨を親に伝えて、その場は収まった。
その後、K君の現役の競輪選手である父親と話す機会があり、聞かせてもらった事が以下のような内容であった。
K君は幼児の時から身体が大きく、悪戯で落ち着きがなかった。口で叱っても悪戯を止めないので、その内に叩くようになった。軽く叩いても聞かないので、だんだんに強く叩くようになり、今では強く叩いても言う事は聞かなし、痛がりもしないそうである。
そのK君は、小学校では息子と同じクラス、学童保育でも一緒となり、同級生に直ぐに手を出す問題児になっていた。それでも、私は彼がけっこう好きで、彼も私を見かけると「○○のお父さん!」と声を掛けてくれている。
そんな彼も5年生の現在、息子の話から、かなり落ち着いてきたように私には思える。これは、小学校の担任達の力量であり、その力による同級生達の関わりの中での結果なのだろう~
以上が頻繁に使用された体罰の非教育的効果―言うことを聞かない―気に入らない―即攻撃的効果であろう。
母親と子の強い信頼関係の中でさえ、このような副作用のある劇薬的体罰の恐ろしさを自覚して体罰的指導を駆使している指導者は、世の中にどれ程に存在しているのだろう~
現在の小五までの息子の担任は全て女性であり、その内現在の担任が私にとっての一番のお気に入りになっている。その一番の理由は全員の前で、その児童の自尊心を傷付けるような名指し的指導を彼女が極力回避しているように、私には思えているからである。
確かに、その被指導者の自尊心を否定しての教育的指導の効果を私は否定しない。しかし、小五という大人的自我の確立がなされようという時の、その未熟な自尊心の否定は、大きな爪痕をその児童の心に残しかねないから~である。
大人においても指導者なら、その被指導者の現在の人格がどのようなものであるかを見極めた上での、自尊心否定的体罰的指導であるべきなのだろうに…
体罰で『反骨精神を育む』には、その被指導者に『骨』が存在していての「・は・な・し・」であり、現代の若者に、その骨はあるのだろうか?簡単にポッキリ折れてしまうような骨でない、強固な骨が?…
それは疑問である…
骨の無い被指導者に、体罰によって育まれるものは、「反抗精神」なのだろう~
「一般論として体罰容認」とか、「体罰を法律で認めろ」的発言を平気できる指導者に、この体罰の副作用は実感できているのだろうか…
体罰解禁などしたら、それこそ~藪医者に劇薬を出してもらうようなもの、未熟な薬剤師に劇薬を調合してもらうようなものであろう~
しかし…それでも体罰的指導は、名指導者によって駆使されれば、被指導者には「体罰」とは反映されず、素晴らしい教育的指導と相成ってゆくのだろう~
従って~世の中の全ての体罰は無くなったとしても、永遠に体罰的指導は存在し続けるのだろう…そう決して「体罰」とは認識され得ない~まま~名指導者の指導のもとで…
↑
このK君とは、中学の野球部で一緒になり、
今でも、時々に一緒に飲みに行っている仲良しです。
青雲ブログ『反骨を育むための体罰指導』に想う事…
反骨―権力や世間一般の傾向に簡単に従うことなく、自分が正しいと考えることを貫き徹す気持ち。(例解新国語辞典)
反骨とは上記のような事なのだから、今回の女子柔道の15人は組織や指導者の権力に簡単に従うことなく、弁護士=法律的力を用いて、「自分の正しいと考えたことを貫き通した」ということで「反骨精神を育んだ」という効果があったといえるのだろう。
この点でブログ主の書かれている通り『反骨精神を育むための体罰指導』は正しいと言えるのだろう。
これが、一般論である…
しかし、彼女らが、今では過去になってしまったあの体罰的指導の元で修業しつつ修行して強くなってゆく事と、新たな~それなりに彼女らにとって心地よい環境で修業を続けてゆく事とを比較した時、果してどちらが彼女らにとって武道的精神の修養になってゆくのだろう~か…
この様な結果になってしまった原因は色々と考えられるであろう~しかし、まともな指導者ならば、その原因を全て自己の責任として反省すべきである、と私は考えているが…。
一般的反省として、自己の体罰的指導を教育的指導として被指導者に反映させる事ができずに、彼女らに感情的体罰として受け取られてしまった、という失敗である。
具体的場面として、例えば~指導者の「何やってんだ!お前!こんなのじゃ~試合に出さんぞ!」という発言であるが…
こう裏にある認識は『実力あるお前なら試合に出て闘える筈なのに…、でも…こんな今のような弛んだ気持ちで練習していては試合で勝てないぞ、出て闘う意味が無いぞ~もっと気を引き締めろ!』的想い…
また、「死ね!死んでしまえ!」とは、『もっと必死になれ!武道の負けは即=死だ!と考えて練習しろ!このままじゃ~負けて死ぬぞ~』的想い…
そして、「馬鹿!アホ!人間やめてしまえ~!」は、『身体だけで覚えるな!お前も人間なら頭脳を使って考えて練習しろ!それが出来ないなら人間やめてしまえ!』的想い…
このような暴言的指導も単発であれば、ショック療法的効果を期待できようが…頻繁に使用したのでは、その教育的効果は怪しくなってしまうのだろう(特に現代の若者は)。と同時に信頼関係も危ういものとなるのだろう~それを未然に防止する為に、暴言の裏のその想いの言語化を稽古中でない時、指導者が感情的情熱的でなく、知性的理性的情熱的な時に、じっくりと優しく分かり易く被指導者の感情と頭脳に熱く語りかける指導が必要であろう~
同じように、身体への体罰的指導-平手打ちや蹴り…等は、指導者が自己の強い想いを言語化出来ずに想いあまっての単発的行為なら、まだその指導者の想いも何とか被指導者に伝わるだろう(それでも、一般的に女性には伝わり難い)が、それを頻繁に使用していたのでは、その行為が被指導者には、『自己に加えられた、いわれなき無き罰』と反映され、そして納得できず、反発を感じてしまうようになるのだろう~
驚いた?というか可哀想になってしまった事は、確か『岡目八目さんの教育論』の中で書かれていた「園田前監督が、被指導者に平手打ちをしながら道理を説いていた」的内容の文面である。
これなどは過去のペット犬の躾方法であり、今時はペットの躾さえもこのような方法は効果が薄いと否定されているのである…そう~過去に父がシェパード犬を買って、訓練所に出した時に、そこで現代の犬の躾について色々と聞かされたのであるが…。
また、実際に体罰的指導の失敗の実例を私は目のあたりにしている。
それは、息子の同級生のK君である。彼と初めて会ったのは息子が幼稚園の時、彼が保育園児の時である。
当時、自宅近くのトイレ公園で、初めは別々に遊んでいた二人は、そのうち一緒に遊ぶようになり、そして子供同士の自己主張の衝突の結果喧嘩になった。息子はK君に顔面パンチを一発喰らって大泣きで終了であった。
問題は、その後であった。近くで見ていたK君の母親が駆け寄り、彼に謝罪させようとするのだが、K君は全く聞き入れない、母親が手を上げて言い聞かせようとしても駄目であった。
私は『痛い思いをした息子は可哀想だか…これも良い経験になるだろう~』と考え、その旨を親に伝えて、その場は収まった。
その後、K君の現役の競輪選手である父親と話す機会があり、聞かせてもらった事が以下のような内容であった。
K君は幼児の時から身体が大きく、悪戯で落ち着きがなかった。口で叱っても悪戯を止めないので、その内に叩くようになった。軽く叩いても聞かないので、だんだんに強く叩くようになり、今では強く叩いても言う事は聞かなし、痛がりもしないそうである。
そのK君は、小学校では息子と同じクラス、学童保育でも一緒となり、同級生に直ぐに手を出す問題児になっていた。それでも、私は彼がけっこう好きで、彼も私を見かけると「○○のお父さん!」と声を掛けてくれている。
そんな彼も5年生の現在、息子の話から、かなり落ち着いてきたように私には思える。これは、小学校の担任達の力量であり、その力による同級生達の関わりの中での結果なのだろう~
以上が頻繁に使用された体罰の非教育的効果―言うことを聞かない―気に入らない―即攻撃的効果であろう。
母親と子の強い信頼関係の中でさえ、このような副作用のある劇薬的体罰の恐ろしさを自覚して体罰的指導を駆使している指導者は、世の中にどれ程に存在しているのだろう~
現在の小五までの息子の担任は全て女性であり、その内現在の担任が私にとっての一番のお気に入りになっている。その一番の理由は全員の前で、その児童の自尊心を傷付けるような名指し的指導を彼女が極力回避しているように、私には思えているからである。
確かに、その被指導者の自尊心を否定しての教育的指導の効果を私は否定しない。しかし、小五という大人的自我の確立がなされようという時の、その未熟な自尊心の否定は、大きな爪痕をその児童の心に残しかねないから~である。
大人においても指導者なら、その被指導者の現在の人格がどのようなものであるかを見極めた上での、自尊心否定的体罰的指導であるべきなのだろうに…
体罰で『反骨精神を育む』には、その被指導者に『骨』が存在していての「・は・な・し・」であり、現代の若者に、その骨はあるのだろうか?簡単にポッキリ折れてしまうような骨でない、強固な骨が?…
それは疑問である…
骨の無い被指導者に、体罰によって育まれるものは、「反抗精神」なのだろう~
「一般論として体罰容認」とか、「体罰を法律で認めろ」的発言を平気できる指導者に、この体罰の副作用は実感できているのだろうか…
体罰解禁などしたら、それこそ~藪医者に劇薬を出してもらうようなもの、未熟な薬剤師に劇薬を調合してもらうようなものであろう~
しかし…それでも体罰的指導は、名指導者によって駆使されれば、被指導者には「体罰」とは反映されず、素晴らしい教育的指導と相成ってゆくのだろう~
従って~世の中の全ての体罰は無くなったとしても、永遠に体罰的指導は存在し続けるのだろう…そう決して「体罰」とは認識され得ない~まま~名指導者の指導のもとで…
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このK君とは、中学の野球部で一緒になり、
今でも、時々に一緒に飲みに行っている仲良しです。