新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

異常vs非常から「非常心」へ~

2024-02-29 18:18:04 | 「わたし事・学」
異常vs非常から「非常心」へ~


先ず以下の解説の引用から始めよう!


「異常」は普段とは違う様子や変な状態、「非常」は特別な場合の状態を指します。
「非常事態」は、危機が差し迫り、社会が普段とは違った状況になる事態を指します。予想外の出来事が突発的に起きる点では意味が似ていますが、「非常事態」は天災や経済恐慌などが発生し、社会が重大な問題に直面するときに使うケースが多いでしょう。

非常時とは、事変など非常の事態が起こったとき、または国家的または国際的に重大な危機に直面したときのことを指します。特に、戦争などの異常な事態にあるときを意味します。

異常とは、普段とは違う様子や変な状態、変な状況を指します。異常の反対語は「正常」で、標準作業通りの作業を継続して行なうことができ、スムーズに流れている状態のことを指します。異常とは、いつもと違う状態、ルール通り仕事が出来ない状態、いつもと違う品物の状態等のことです。


上記の説明から、今までの「私的非常心」を説くなら~
私的非常心とは、私にとつっての異常事態=肉親の死が、
私に過去、体験していない程の大きな悲しみ・感情を生じさせ、それ故に、私のココロが「異常事態」レベルに達していた。
そこには、身体的な危機感(個人レベルの非常時)がないので、それは「非常心」と言えず、単なる「異常心」であった。


ならば、武道修業・修行における「非常心」とは?

そのヒントが先日視た、録画していたNHKドラマ「正直不動産」の中の給湯室での会話・出来事から得られた。

それは、ミネルバ不動産で、営業成績トップ社員の神木と成績の悪い社員Aとの以下の会話・出来事である。

社員A―「神木さん!どうすれば、神木さんのような営業成績だせますか?」
神木―(流し台に水を入れながら)、ここに顔を付けて見ろ!」
社員A―「不思議な表情で水に顔を付けた」
数秒後社員A―「苦しくて顔を上げようとする」が…
神木―「そのAの頭を力ずくで押さえ、息を吸わせない…」

数秒後に神木―「(手を放しつつ)今!お前は何がしたかったか?」
社員A―「息が吸いたかった!」
神木―「そんだ!その『息が吸いたい』と同じ気持ちで、不動産を売ればいいだけだ!」

………
この「息が吸いたい」という本能レベルの欲求、吸えないと死ぬ…「吸いたい!」必死の感情…
このような感情・思い…を抱いている認識ココロは「非常心」と言えるのだろう…


これは、現実に「窒息状態だから息がしたい」…ではなく、
想定した「息が吸いたい・したい!」だから「非常心の設定」と言えよう。


実際に異常事態の発生なく、非常時でもないのに、
非常時の心境・ココロだから「非常心の設定」なのだろう。

また…非常心の設定ではなく、真の非常心としては~
戦時中or終戦後、大黒柱の夫が戦死して子供を抱えた妻が、
一人で数人の子を育てつつ生き抜く為に必死に働く姿に
「非常心」=稼ぎが悪いと子供達が飢え死に…の危機感のココロ…が見て取れる…



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45 コメント

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Unknown (弥勒)
2024-03-02 06:03:44
68歳で余りご自分のストレスになるようなことを考えるのは好ましくありませんね。健康を害しますし寿命が縮みますよ。

南郷先生も私が会ったときは50代後半でしたけど、スターリンか?毛沢東か?みたいな軍服を脱いだら相当に太っていて、余り身体を動かしていないのは明らかでした。「死即生」なんて生活をしていたら90歳までは生きられないと思いますよ。

それより、漫画本に精通している自由びと氏と話題を共有できるか分かりませんけど、私は30年くらい昔に『ガラスの仮面』と『スワン』という漫画を買いましてね、『仮面』のほうは南郷先生の影響ですけど『スワン』は海保さんがバレエに興味があるらしいと『試行』の連載で読んだからですね。

それで最近、YouTubeで「ボレロ」を複数人見ていて、ジョルジュ・ドンやマヤ・プリセツカヤ、シルビー・ギエム、あと日本の上野水香さんとか。でも、大まかな粗筋は分かっても、前半の奇妙な動きの意味が分からない。

これは実際に振り付けを考えたモーリス・ベジャールの考えを知らねば分からないなとベジャールの本を買いましてね。それであの暗闇の中でのシンメトリックな動きが「東洋」のイメージだと知りました。

あらためて古代エジプトの神殿建築を見返したら、肉体の動作に二重化されている「表現しようとしているエジプトの冥界」が見えるようになりましたね。
返信する
ブラック南郷継正へ (自由びと)
2024-03-03 11:25:08
>弥勒


>コメント

>68歳で余りご自分のストレスになるようなことを考えるのは好ましくありませんね。健康を害しますし寿命が縮みますよ。

ハ!は!笑!ですね~

お宅に、何が私のストレスになるか否かも知らず・分からず…
上記の発言とは…本当にビックリで呆れまれさせて頂いていますね!


昨日までの記述。
そこ今朝、生成AIで検索したら以下です。

>「ストレスとは、物理学や機械工学で「物体のゆがんだ状態」を意味する用語です。医学では、心身に各種の刺激を引き起こすものを「ストレッサー」、それにより心身がゆがんでいる状態を「ストレス状態」と表します。

>「ストレスの種類は、主に「物理的ストレッサー」「化学的ストレッサー」「生物的ストレッサー」「心理・社会的ストレッサー」の4つに分けられます。」
>「ストレスの種類には、心理的、身体的、行動的なストレスがあります。」


確かに、私も生物・人間ですから、「ストレッサー」はあります。
そして、その時々に「ストレス状態」にもなり得ているでしょうね…
でも、重症化する前に、何とかしてきたつもり…です。

ただ…その歪みが身体的ではなく、「認識・精神的な混乱状態」を引き起こした事は数回ありました。
それでも、その対処法は、体得してきたつもり…です。
ただ「つもり」であり、今後、更に過去にはなかったレベルの「ストレッサー」に襲われた時…どうなるか?不明です。

それでも…言える事は、たぶん、そのようなストレッサーは「息子の死」だけでしょうね…
今の私にとって、「私の死」は、大した事には思えません。

その「私の死」は、私にとっては「世界消滅と共に死んで逝く」に過ぎません。
ただ、息子にとっての「父親の死」は強烈でしょうね…

私が怖いのは、身体的異常・寝た切りになって、即死ではなく、苦しみながらジワジワと死へ至る過程ですかね…
でも…その時には、きっとまた都合のいい理由・思考…適応反応で、自ら苦しみが苦しみと感じなくさせるでしょうかね。

そう高3の時、叔父(母の弟)の雀荘でバイトしていた時、夜食を食べ過ぎて、元々53キロだった体重が60キロになった時、「貫禄がついて良かった」なんて自己満足させていました。それ以前は、入浴の度、腹の肉をつまんで、「この贅肉イヤだ!」なんて思っていたのに…





>南郷先生も私が会ったときは50代後半でしたけど、スターリンか?毛沢東か?みたいな軍服を脱いだら相当に太っていて、余り身体を動かしていないのは明らかでした。「死即生」なんて生活をしていたら90歳までは生きられないと思いますよ。


そう言えば、御講義で以下のような事を言っていた事を思い出しました…
「…武道の理論…?」を書き始めた頃…運動する暇なく…太っていた…
長生きは、そんな本人の自覚・反省があり、その自己の肥満問題に対する目的・意識的な対応・行動の結果、でしょうね…


そうそう「運動し過ぎで…歩けなくなった?力が入らなくなった?それを重たい扉?で直した…そんな事を聞いて記憶が…不確かですが…
何かしている途中で「足が痛くて歩けなった時、そのもの数キロ歩いて直した…


そうです!「神経は嘘を吐く」でしたね。
私の、数年前or十数年前or数十年前…は不明ですが…
初めは時々・一時…その後は頻繁・一時に、そして、頻繁・継続・断続的に…
右股関節の付け根が痛み始めました。
整体院の先生いうには、原因は『左右差』だそうです。

でも…家内が亡くなって以来、最近まで全く痛まず快調でした。
その理由には、ここ数年間「整体院」へ通っている事。

また、テレビ体操を時々やるようになった、更に「ホネラブZEX体操」をDVD視てやるようになった。

しかし、数週間前から、また痛み始めたのです…
それも今回の痛みは、今まで異常のレベルで…痛みをこらえてあるくのに必死でした。
でも…そんなん中、気付きました実感しました。
右片足でたって数秒力むと…なんとビックリ「痛みが消えます」…それでも…その数秒後にまた痛みが…
その後、その片足…効果がなくなり…諦めて痛みに耐えながら歩き続けたら…今の平気です。

そうそう…痛みの再発には、柴愛犬のマロン散歩の時間・回数の増加でありました。
一日三回・朝・昼・晩…最長は一回一時間半…
それを足が痛んでいても繰り返し続けました。そうしたら…なんと痛み消失…今の所は…
この体験から「大気拳」の這い」の意味・効果…太極拳のゆっくり・リズムの意味・効果…も何となく感性的に分かったような気がしています。


そもそも…>「死即生」…<は、
実生活の中ではなく、空手の約束組手や防具着用組手…、そして自由組手の中での「認識・ココロ」であり、「死を覚悟しての飛び込み」

実生活の中では、「○○」しないと「死ぬ」という想像であり、それは死の回避の為の全力行動・生活訓練なのでしょうね。
この場合は「生即死」かな…生きる為の死の覚悟ではなく、生きる為に全力発揮可能な状態へ己を持って行く為の思考。

なので「死即生」のストレスは、空手稽古の時くらいでしょうね…
そもそも…単なる刺激が「ストレッサー」レベルになるのは、その刺激に対する人間の認識・受け取り・解釈が原因でしょう。

殴られれば、身体的な痛く~殴られて当然と思うなら「痛い」で終了。
でも、理由・原因が分からずに、殴られれば「痛い!+何故?」…
この「何故?」が解決不能なら精神的な悩みへ…ストレス状態へ
もっとも…この何故?⇒ストレス状態は、その相手との関係性から生じるモノ…



>それより、漫画本に精通している自由びと氏と話題を共有できるか分かりませんけど、私は30年くらい昔に『ガラスの仮面』と『スワン』という漫画を買いましてね、『仮面』のほうは南郷先生の影響ですけど『スワン』は海保さんがバレエに興味があるらしいと『試行』の連載で読んだからですね。

↑~
え!お宅でも「自由びととの話題の共有」を望んでいたなんて…「ふ・し・ぎ」と嬉しいですね。


>それで最近、YouTubeで「ボレロ」を複数人見ていて、ジョルジュ・ドンやマヤ・プリセツカヤ、シルビー・ギエム、あと日本の上野水香さんとか。でも、大まかな粗筋は分かっても、前半の奇妙な動きの意味が分からない。あの暗闇の中でのシンメトリックな動きが「東洋」のイメージだと知りました。

>あらためて古代エジプトの神殿建築を見返したら、肉体の動作に二重化されている「表現しようとしているエジプトの冥界」が見えるようになりましたね。



『ガラスの仮面』は、愛読書でした。全巻揃えました…確か未完のまま…でしたね。
『スワン』は記憶になかったのですが…今朝「ネットで検索して…「ブラック・スワン」という言葉で何となく思い出しました。

ホワイトスワンが、生きる喜びの表現なら、
ブラックスワンは、死への恐怖or死の喜び?・死の迷い?


ホワイトスワンが、全身での「生」の表現なら、
ブラックスワンは、全身での「死」の表現かな…


バレエについて、今の私には具体的な映像・知識・意見・見解は、特にありません。

バレエのホワイト・ブラックスワンの意味は、今ネットで調べたら、


スターウォーズのフォースの「ライトサイド・ダークサイド「光明面の暗黒面」と似ていますね…


因みに「ブラックスワン」とは以下です。

ブラックスワン(Black Swan)とは、予測が困難で、起こったときに大きな衝撃をもたらす事象を指します。

この言葉は、ヨーロッパで白鳥は白色だと信じられていた時代、1697年にオーストラリアで黒色のアヒルが発見された出来事に基づいています。当時の鳥類学者たちの定説が大きく崩れたこの出来事が由来となり、金融の世界でも使われるようになりました。

ブラックスワン理論は、ありえなくて起こりえないと思われていたことが急に生じた場合、「予測できない」、「非常に強い衝撃を与える」という理論です。特に予測・想像していた事態よりも大きな衝撃が起きることに使われ、金融危機と自然災害をよく表しています。

一方で、いずれ起きると分かっているリスクを“ブラックエレファント”と呼びます。


いや~
この知的な刺激が快感で面白い♪
私の知的思考にも役に立ちますね!

~生成AIとは~
「生成AIとハサミは、使い方次第!」ですね。


ヤッパリ弥勒お宅は、ブラック南郷継正だ!


そうそう本当は記事に書こうと思ったけど…
ここで書きます!

今朝「桃太郎の繰り返し」を検索しました。
その理由は、お宅の「桃太郎の繰り返し…習慣化」というコメントに違和感が生じたからです。

>桃太郎では、家来となる動物との出会いが3度あります。
>桃太郎は、川を流れてきた大きな桃から生まれ、村を荒らす鬼と戦うために、道中で家来となった犬、猿、雉とともに鬼を退治する物語です。
>桃太郎の繰り返しとは、家来となる動物との出会いが3度あることです。何度も繰り返すことで、子どもの成長を支えていきたいという考えが込められています。


上記の記述から、私は悟りました。
師範の『武道講義』に書かれている「桃太郎の繰り返しの解説の意味」が…

「桃太郎は、同じ事を繰り返す事で彼の成長してきた」
ならば、読者が本の記述・「桃太郎では、家来となる動物との出会いが3度…」書かれている部分を繰り返し読む事での成長は?

読者が子供の場合なら、「国語・言葉の学習」・「国語の学習法の訓練」…
読者が国語の達者な大人なら~目的意識的な「目的達成の為訓練」…

空手の突きなら、突きの繰り返し…
ただ…著書『武道講義』の中での「桃太郎の一節」の繰り返し読みの目的が問題なのです。

国語が達者な「桃太郎の一節」の繰り返し読みを「桃太郎の繰り返し」と捉えた時、
その時、意識する目的とは、分かり切って物事でも更なるレベルを求めての「繰り返し」…
こんな事は出来る・分かる…でも、同じ事の繰り返しをする事。

「桃太郎の習慣化」とは、
ただ「繰り返す事の習慣化」ではなく、その目的を意識して、その実現に向けての繰り返し・理性的な「意識の習慣化」である。
私が、『おれは鉄平』を読むのは、「面白い・解放感」がある…感性的な満足感を得る事。


しかし…でも、感性・知性・理性…的であっても、目的達成為の「繰り返し」なら、「桃太郎の繰り返し」…
ならば…確かに「桃太郎の繰り返しの習慣化」ではあるが…

空手は上達したい…でも、いつも同じ突きの練習は嫌だ!
この場合は、「桃太郎の繰り返し」は出来ない事になる。

私は、毎回「面白さ」を求めて『おれは鉄平』を読む事はない。
感情の満足を目的とした「繰り返し」とは、快を求めてのモノ。
それが、知的・感性・理性的な「快」の繰り返しでも…

このような、快を求め、不快をさける繰り返しは、「桃太郎の繰り返し」だろうか?
ふ・ふ・ふ~ん♪

「桃太郎の繰り返し」そのものの目的は、「子供の成長を求めて」であった。
ならば「自分自身への『桃太郎の繰り返し』」の目的は~

自我的満足の達成。己だけの感情的満足。
自己的満足の達成。他者も考慮の満足。
社会的満足の達成。組織的な満足。


成長という根源的な、目的・意識のない繰り返しは、「桃太郎の繰り返し」とは、言い難い!
なので、私の『おれは鉄平』の再読だけを見て「桃太郎の繰り返し」の習慣化を断定するのは、セッカチであろう…

習慣化の弊害は、「日々の歯磨き」にも言えます...
返信する
上記のつづき (自由びと)
2024-03-03 11:36:37
習慣化の弊害は、「日々の歯磨き」にも言えます、
無意識的習慣としての「朝・昼・晩」は、問題はありません。
しかし、「歯磨きの仕方・カタチの習慣化」は、問題です。
何故なら、歯の汚れ・状態は、日々変化しています。
なのに、磨き方・磨く場所が変化しない!は、不適格です。




因みに、今私が通っている歯科医院は、三か月ごとに、定期健診のメールが来ます。

もっとも…行く・行かないは強制ではありませんが…

そうそう「定期健診」ではなく、「メンテナンス」と言っています。


因みに、歯医者の定期検診とメンテナンスの違いは次のとおりです。

定期検診は、治療終了後に新たな問題が起きていないかを確認するものです。

メンテナンスは、健康な口腔内の維持やさらに健康にするために、継続的にお手入れすることを意味します。

定期検診では、虫歯や歯周病、咬み合わせのチェック、必要に応じてレントゲン検査を行います。問題があれば治療を行い、なければクリーニングを行います。

メンテナンスは、ひと昔前まではほとんど実施されていませんでしたが、最近では広く認識されるようになりました。

定期検診は原則として健康保険が適用されます。3割負担の方で1回あたり2,500~3,000円程度の自己負担額となります。



い~や! 生成AI様様ですね…

ただ…生々AIの記述には感情がない!
ネット上の知識・記述には、その書き手の感情が籠っている…
しかし、私の体験・経験した範囲内であれば、その無感情的なAI情報に、私的感情を加味できる…ただし私レベルの私的感情に限定!
返信する
Unknown (弥勒)
2024-03-05 07:52:55
>ハ!は!笑!ですね〜
>お宅に、何が私のストレスになるか否かも知らず・分からず…

私は自由びとお宅の記事にある
>戦時中or終戦後、大黒柱の夫が戦死して子供を抱えた妻が

以下の文章を読んでの発言ですよ。一般的に人間が苦痛を感じ共感するような「ストレス事例」の。阪神大震災や東北大震災、それから先日の能登の件など通常の日本人ならば同じ国の同胞の悲しい事件だと心を痛めるものでしょう。そうした心労が高齢になって体力の衰えている老人に重なると健康に悪いし寿命が縮むことにもなるとの普通の常識人ならばすんなり共感し同意してくれるに違いないことを述べただけですけども?(?をつけてみましたが、実際には自由びとお宅の心中は察しがついてはいます)

自由びとお宅は「自由びとお宅個人の個人的なストレスを感じる事柄」を私(弥勒)に知って欲しいんですかね?心理カウンセラーや整体師にクライアントが話すように。

しかし、私はそこには興味がありません。自由びとお宅が「感情がある」とか「感情が無い」とか言っているのは「感情一般」のお話しではなく「直情的」だとか「気分が悪いから心を閉じて本心を話してあげないから」といった、「そういった部分での感情」ということなんでしょうね。

そういった意味では自由びとお宅の言う「弁証法は変化だ」というのは看護職や心理職のいう「認知変容」「行動変容」に直結するタイプのものだとも判断できます。

ですが私の弁証法は三浦つとむの教科書の通りに「対立物の統一」で、それはtada氏も書いていたように「普遍、特殊、個別」ではありますが、その「特殊」が対立両項に分かれるという弁証法の形式は譲れないわけですよ。

だからヘーゲルの「存在と思惟」という2本柱が自然哲学と精神哲学という2構成となったとしても、
「非常」という「非日常的なもの」が「楽しい」と「苦しい」の対立物に分かれたものが脳内の扁桃体という同じ場所で生じるという直接的な同一性をもっていることに
返信する
やさぱりブラック!ですね♪ (自由びと)
2024-03-06 18:20:11
弥勒お宅殿

確かに…以下だけでは少々不足ですね。

>「また…非常心の設定ではなく、真の非常心としては~
戦時中or終戦後、大黒柱の夫が戦死して子供を抱えた妻が、
一人で数人の子を育てつつ生き抜く為に必死に働く姿に
「非常心」=稼ぎが悪いと子供達が飢え死に…の危機感のココロ…が見て取れる…」

なので、ここで以下の事を書き足します。

「先日の能登の件」について…ニュースで何回もやっていましたが…
子供三人と妻を亡くした男性の事です。
彼のストレスは相当なモノでしょうね。今の私が、突然「息子に死」なれ場合より更なるストレスでしょう。

上記の両者の大きな相違は、
自分が「生きる意味・必要」を感じられる現実があるか・否かでしょう。

母親には「自分が生き、そして子供を食べさせ・生かす」現実・目標・目的がある。
でも、一人残された男性には、「自分が生きる事」しかありません。

この記事は、「非常心」と「非常心の設定」について書かれたモノなのです。

そして「戦時中…」の記事は、現実の非常時における非常心の理解・実感の為。

「非常心の設定」の場合の「ストレッサー」は自己が決めるモノ。

なので、我慢不能の時には、設定を解除・止める・逃げ出せば、いいだけ。
自己の目的意識で、ストレス状態の人間に「同情は不要」。
周囲の人間は、その目的意識を理解しした上は、「頑張り過ぎない」ように気を付けていてあげる。

お宅の>(?をつけてみましたが、実際には自由びとお宅の心中は察しがついてはいます)…とは、
上記のような事も「察しがついては」いるのでしようか?


そう以下のような「空手合宿での具体例」が~

私の教え子が「玄和空手」の合宿に参加して、夜中?に脱走した事件がありました。

彼が言うには、空手を学びたいのに、
何故「魚の頭を食べる?」、「何故、まだ暗い四時・五時に起床?」他にも色々…の不満から脱走した、ようです。

これは、彼が、それらのストレッサーに耐えようとしない・耐えられないから。
耐える意味・意義を見出せないから…
空手修業・空手の技の修練は、理解できても…
空手修行・空手修練過程に必要な精神の修業が理解不能だった、からです。

玄和会空手の理解不足or自分が分かる範囲で納得した?
他の人々は、彼と同じ「ストレッサー」がある筈なのに…でも嫌がらない・脱走しない…
彼らには、その事の目的が分かっているから耐えられた・頑張れた…という事です。
または、真の目的が分からなくても「自分的な意味・意義を見出し 耐えようと頑張れた」


>自由びとお宅は「自由びとお宅個人の個人的なストレスを感じる事柄」を私(弥勒)に知って欲しいんですかね?心理カウンセラーや整体師にクライアントが話すように。


ブー~バスㇾ!

私が「知って欲しかった」のは以下です。
「夫が戦死して子供を抱えた妻が、」が、ストレス状態に、負けずに耐えて頑張れる「意志・目的・目標」がある事…。

上記のお宅疑問は、ブラックですね。
そんな事は、「自由びとお宅の心中は察しがついて」いる筈なのに…わざわざ書く事は、私からすれば「ブラック」嫌味です。

>「気分が悪いから心を閉じて本心を話してあげないから」

私なら、以下のように言います。
「その言い方は嫌味で気分悪いからやめて!」とか…
「その言い回しは、俺を馬鹿にしているのか?糞が!」とか…

しかも>…気分わるいから…本心を話して「あげない…」から<~なんて~
そんな「気分(感情)だけで人様にあげられない本心」なんか…「いらない!」「くれても即お返ししますよ」…

言い方・言い回しが、捻くれていますね!
お宅のココロって、屈折している?
光を吸収してしまう「ブラックホール」?




人類にとっての、究極的な対立物とは、「観念と現実」・「精神と世界」かな…
全ては、そこから始まっているのでしょうね…


まだまだ…対立物「ココロvsアタマ」vs「頭脳・実体vs機能・認識」
返信する
Unknown (弥勒)
2024-03-07 10:29:24
残念ながら?私は捻くれても屈折してもいませんね。自由びとお宅が自由びとお宅の偏狭な理解力で私のコメントを解釈すると「捻くれ、屈折」だと反映するのでしょうね。

昨夜、帰宅して椅子に座ろうとしたときに食卓の横に積んである本の山が崩れて『武道への道』が出てきたんですよ。それをパラパラ見ているときに、否、私のほうで庄司和晃からの手紙の中の「何か」を探していたんですね。以前読んだときにあった記憶の「何か」を、それが何だったのかは一晩眠って目覚めた私は覚えていませんけど、庄司さんの手紙にあった「非常心の設定」という言葉を再発見したのは自由びとお宅の言説を理解する助けにはなりましたね。

「非常心の設定」とは、つまり「非常心というものを設ける、置く」とは「平常心というものをレベルアップさせるために低いレベルの平常心とヨリ高いレベルになった平常心との間に非常心というものを置く、構える」という人間の(この場合は南郷先生ですけどね)知的営み(と言ったら良いのか?)を指していて、その「平常心」について庄司さんは「同じ己が心が、恐怖心といった形で邪魔をする」という表現をしているんですよね。

「平常心」と「恐怖心」とでは言語表現が全く違いますから、いわば「認識の3段階連関理論」のヨリ感覚的な段階に「降りた」わけです。人間が何かをやりたいと欲したなら、やれば良いわけですよ、「普通に」。ところが、そのやりたい事を邪魔するモノがいるわけです。その「邪魔者」が自分の心の中にいるときは例えば「恐怖心」だとかの「やりたいのに怖くて出来ない」とかですし、自由びとお宅があげたテレビの例ですと自分の心ではなく洗面器に上から押さえつけている神木某の腕力なわけです。息を吸いたかったらどうするか?といったら当然に神木某の押さえている手に逆らって水から顔を出すだけで、それが出来ないなら殺人事件であるように水の中で窒息死するわけで、選択肢は「我慢するか?逆らうか?」の二者ですが、そこに「必死」という「死んでしまうから逆らって自由になる」という方向があるわけですよ。

私からすれば自由びとお宅は「認識の三段階連関理論」でいう「降りる実力」が皆無なので、自分が慣れ親しんだ抽象的な思考を横すべりさせて自己満足な結論を出して喜んでいられるのでしょうね。

空手の事例でいったなら自由組手のときに約束組手のように相手を殴ったり蹴ったりしたいわけですが、相手から反撃される恐怖心があるから迂闊に攻めていけない、とかでしょうね。先の田島と肥田の件でいったなら肥田は田島からの反撃の恐怖心を持っていなかったからドンドンと攻撃をしかけていけたけど、眼底骨折を経験した後ではそうはいかなくなるでしょう、それでしょうね、だからやはり「非常心」という言語表現は対象の芯を穿っていないんですよ。

戦後の女性の件でも「目的意識」という言語表現は、やはりまだ芯を穿っていないと私には感じます。というのも、今その辺りを専門分野で勉強しているんですね。戦後の女性には恐らく「愛」があり「喜び」があったのだと思いますね。自分が子供のために働いて稼がないといけないと思うだけの子供に対する愛情があったと思います。それが無くて「子供を作っちゃったんだから食べさせるのは義務だろう」との義務感だけでは人間は行動できないものですよ。自分がやりたいわけでも無いのに「目的意識」という抽象的な言葉だけで、いつの間にか自分ならぬ他人の目的を果たすための活動をさせられていることはありますからね。

自由びとお宅は、本当に玄和の中では下っ端なんでしょうね。余りにもお馬鹿すぎますから。
返信する
Unknown (弥勒)
2024-03-07 11:01:39
自由びとお宅は関心ないかも知れませんけどね、最近、京都の寄筆さんが故・加藤幸信さんの論文を紹介してましてね。「世界歴史とは何か」という。

私はそれを読んで「これが東大を出た社会学者の論文か?」と残念な気持ちになったんですけど、所々に感じることはあったんです。

それは「滝村は特殊性」だとか「繋がりを問うてない」とかの指摘ですよ。ただそれだけで具体的に指摘していなければ何の価値もないと私は思いますけれど、先日、ネットで滝村先生の国家論大綱を非常に高く評価している人と出会いまして、その人との対話でも色々なことが見えてきました。

要するに太平洋戦争後にアメリカ主導で進められたNATOを中心としたパックス・アメリカーナが弱体化してきている現在、全体を統括する強大な軍事力が無くなれば全ての国が覇権を狙う戦国時代となるとの滝村先生の考えは、「軍事は軍事で、軍事以外のものではない」といった論理学的な排中律の延長線にあり、戦中から戦後にかけてのアメリカの軍事活動は「一つの経済活動で、人間の生活の生産、つまり食べていくための活動の一つに過ぎず、他の経済活動に移行し得るもの」だとの弁証法的な視点を欠いている可能性に気がついたわけです。1970年前後からアメリカのGDPに対する軍事費がドンドン下がっているということは、他の産業が伸びているというわけで。

しかし、それにしても、「認識の三段階連関理論」のように「具体から抽象へ、抽象から具体へ」の昇り降りの過程を説かなければ、弁証法でいう「相対的(連続的)独立」の「独立」の面を等閑視した、神庭さんの論文のような「絶対的な連続」みたいなお話しに到達しそうな危険性は感じますけどね。
返信する
そうそう「恐怖心」ですよ! (自由びと)
2024-03-07 18:28:46
>・コメントを書いた人
>弥勒

・>コメント
>残念ながら?私は捻くれても屈折してもいませんね。自由びとお宅が自由びとお宅の偏狭な理解力で私のコメントを解釈すると「捻くれ、屈折」だと反映するのでしょうね。



>「残念ながら?」なんて…とんでもない!
お宅が、素直・率直・単刀直入…ならば、それは、それで、私がその観点での対応をすれば いいだけですよ。
私は、決して弥勒お宅に、捻くれ・屈折を期待していた訳でないので、その「残念ながら?」は的外れですね…
もっとも…「?」マーク付だったので、この疑問形は正解ですかね。







>昨夜、帰宅して椅子に座ろうとしたときに食卓の横に積んである本の山が崩れて『武道への道』が出てきたんですよ。それをパラパラ見ているときに、否、私のほうで庄司和晃からの手紙の中の「何か」を探していたんですね。以前読んだときにあった記憶の「何か」を、それが何だったのかは一晩眠って目覚めた私は覚えていませんけど、庄司さんの手紙にあった「非常心の設定」という言葉を再発見したのは自由びとお宅の言説を理解する助けにはなりましたね。



多分…それは、「意識的な問いかけ認識」でしょうか…それは、感情的+知識的=理性的…もの?



>「非常心の設定」とは、つまり「非常心というものを設ける、置く」とは「平常心というものをレベルアップさせるために低いレベルの平常心とヨリ高いレベルになった平常心との間に非常心というものを置く、構える」という人間の(この場合は南郷先生ですけどね)知的営み(と言ったら良いのか?)を指していて、その「平常心」について庄司さんは「同じ己が心が、恐怖心といった形で邪魔をする」という表現をしているんですよね。

>「平常心」と「恐怖心」とでは言語表現が全く違いますから、いわば「認識の3段階連関理論」のヨリ感覚的な段階に「降りた」わけです。人間が何かをやりたいと欲したなら、やれば良いわけですよ、「普通に」。ところが、そのやりたい事を邪魔するモノがいるわけです。その「邪魔者」が自分の心の中にいるときは例えば「恐怖心」だとかの「やりたいのに怖くて出来ない」とかですし、自由びとお宅があげたテレビの例ですと自分の心ではなく洗面器に上から押さえつけている神木某の腕力なわけです。息を吸いたかったらどうするか?といったら当然に神木某の押さえている手に逆らって水から顔を出すだけで、それが出来ないなら殺人事件であるように水の中で窒息死するわけで、選択肢は「我慢するか?逆らうか?」の二者ですが、そこに「必死」という「死んでしまうから逆らって自由になる」という方向があるわけですよ



>選択肢は「我慢するか?逆らうか?」の二者ですが、そこに「必死」という「死んでしまうから逆らって自由になる」という方向があるわけですよ

同感です♪

「二者選択とは、その「二者に対する知識・感情」であり、その一者への選択は、理性・論理・理論からの決定ですかね…
だから…武道的な約束組手では、対手の攻撃に対して、
「ここで逃げたら死」という目的的な理性・認識(必死)・非常心を設定して、「死即生」で逃げず闘う。
ただ…過去に「現実の死」の経験・体験のない者には、その「必死」は、真の「必死」にはなり得ない…
だから、たぶん…南郷氏は、その著書で幼少期の死にそうな体験・経験を書いていたのかも…


そうですね…
「平常心」⇒「非常心」の設定には、「平常な日常の中に『恐怖心の想像・創像』」が必要ですかね。
私は「目的意識…」と書いても、「自己の死への恐怖心」と具体的な記述はなかった、ようですね…

その想像する「恐怖心」が、空手の場合は、相手からの刺激・攻撃技に対しての恐怖心、かな…
また、人間にとっての最大の「恐怖が自己の死」ですから、「死の想像」の恐怖を思い続ける事=「武道の恐怖心」非常心…




>私からすれば自由びとお宅は「認識の三段階連関理論」でいう「降りる実力」が皆無なので、自分が慣れ親しんだ抽象的な思考を横すべりさせて自己満足な結論を出して喜んでいられるのでしょうね。



そうですか…
でも…それ指摘だけでは、なんか今ひとつピンときませんね…


>空手の事例でいったなら自由組手のときに約束組手のように相手を殴ったり蹴ったりしたいわけですが、相手から反撃される恐怖心があるから迂闊に攻めていけない、とかでしょうね。先の田島と肥田の件でいったなら肥田は田島からの反撃の恐怖心を持っていなかったからドンドンと攻撃をしかけていけたけど、眼底骨折を経験した後ではそうはいかなくなるでしょう、それでしょうね、だからやはり「非常心」という言語表現は対象の芯を穿っていないんですよ。


それは、彼が日頃から「非常心」の設定をしてなかったから…
または、設定していても、この「非常心」のレベルが低かった…
「恐怖心があっても、その自信・過信から、攻撃できたのかも…

そして…非常心から自信・過信を持っての攻撃でも…その相手に通じず…結果的に「挫折・自信喪失」…
そうそう…「がんばれ元気」で、元気くんが…新人戦を自信満々で勝ち上がって…最後?外国人・ハングリーな新たな挑戦者の練習を視て「恐怖」で…震えて…とかの…がありましたが…


そう分かりました…
彼にとっての「真の非常心」(レベルアップ)の克服は、その敗北から始まっていたのでしょうね…
しかし…彼は、それに耐えられず?…進路変更…?



>戦後の女性の件でも「目的意識」という言語表現は、やはりまだ芯を穿っていないと私には感じます。というのも、今その辺りを専門分野で勉強しているんですね。戦後の女性には恐らく「愛」があり「喜び」があったのだと思いますね。自分が子供のために働いて稼がないといけないと思うだけの子供に対する愛情があったと思います。それが無くて「子供を作っちゃったんだから食べさせるのは義務だろう」との義務感だけでは人間は行動できないものですよ。自分がやりたいわけでも無いのに「目的意識」という抽象的な言葉だけで、いつの間にか自分ならぬ他人の目的を果たすための活動をさせられていることはありますからね。



ごもっとも…書かれている通りです。
その事は、感覚・気分的・感情的には、分かっていた…ようです。
何故なら、上記のお宅の記述だけで、我が母の愛情の想起があったから…少々涙ぐみましたが…

母性愛があろうとなかろうと…現実的な非常事態での非常な心的状態は、同じです。
ただ、母性愛が「非常心」より強かった為、克服する必要なく、頑張れたのでしょうね。

自分独りの為ではなく、子供の為に頑張らねば(という意志・目的)ココロ(愛情)の強さを、の具体例です。
この愛情が敵に対する「憎しみ感情」でも…同じでしょう~



>自由びとお宅は、本当に玄和の中では下っ端なんでしょうね。余りにもお馬鹿すぎますから。


ブーブー!大・大・大間違いですね!
何度も書いていますが…
私は、元玄和会で、それも初段レベルでの自然消滅的(練習の不参加)な退会をしています。

でも…不思議と奇遇な事に、私も、お宅同様に、お宅の事が馬鹿に思えてしかたがありません。
それって、互いに相手に自己の姿を投影して、その自己の中の「馬鹿さ」を観ているのかも…ですね。
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関心あります! (自由びと)
2024-03-07 18:45:01
>コメントを書いた人
>弥勒

>・コメント
>自由びとお宅は関心ないかも知れませんけどね、最近、京都の寄筆さんが故・加藤幸信さんの論文を紹介してましてね。「世界歴史とは何か」という。

いや~興味津々ですよ!
今探したら、「社会心理学」と「「学問の発達の歴史」の見つけられたのですが…「世界史とは何か」は有りませんでした。
どこで、入手できますか?
返信する
Unknown (弥勒)
2024-03-08 12:44:29
>どこで、入手できますか?

『自由学藝』を研究会から購入して付録も読んでいる自由びと氏が知らぬはずないでしょう。

寄筆さんのX(twitter)ですよ。
返信する

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