2012年11月29日
「言葉」という像について~
今回は「言葉」と「像」(認識としての像)にもう一歩踏み込んで考えてみる事にした。
昔…外出時に母に、よく「気を付けてね~」と言われていた。
その時、心では『何に気を付けるのだろう?』と思いつつも…「ハイ!、と言って出掛けたものであった。
息子が生まれ、言葉がやっと分かるようになった時分から、私も危なげに走る息子の姿に、思わず「気を付けて!」と発してしまっている自分を意識するようになっていった…
その後、色々な本を読み…今は以下のように考えている。
「気を付けて…」という言葉は、とても抽象的表現である。それでも、大人であれば、出掛けの「気を付けて」の声かけであれば、その自己の状況から、車の運転であれば、周囲の安全確認、徒歩での外出であれば、前方、足元、信号…等の確認、と具体的な像である認識を思い描き、そのように行動する事が可能であろう~もっとも…そこまで考えずに『気を付けよう』と思うだけかもしれないが…
ししか、子供の場合、特に幼児の場合は、「気を付けてね」の言葉は、「気を付けてね」であって、そこから具体的に自分のするべき、気を付ける行動の像は思い描くことは不可能である。
そう~ある時、息子がジャングルジムで遊んでいた時、息子の滑って落ちてしまう姿を思い描いてしまい、思わず「気を付けろ!」と言ってしまった。
その時、息子が私のその言葉に気を取られ、「気を付ける」どころか…足を滑らしそうになっていたのである…
『シマッタ!』と気付いた私は、「手でしっかり、鉄棒を握っていろ!手さえ放さなければ大丈夫だ!」と言葉を続けた。
「足を意識して!」とも思ったが…足より手の方が意識し易いと思い~「手にしっかり~」としたのであろうか~
次に想い出したのが以下の事です。
子供の頃、私が親戚の○○の家に遊びに行く時、母によく「『○○に宜しく!』と伝えて…」と言われた。
初めの頃は、この「宜しく」の意味が分からず、○○に会うと「宜しく」と言っていた。
すると、○○に、「宜しく…とは何?」と聞かれるので、私は「 母が「『宜しく!」伝えて』 」と言っていた…」と答えていたものである…
この場合、初めの○○に会った時に私のとった<「宜しく」言う>という行為は、母の言葉を言葉のままに実行したものである。
その後の私の言葉ーー<「 母が『 宜しく伝えて!』と言っていた」>ーー、これは、母とのやり取りをその言葉を含めた、その時の像で考えての言葉である、のだろう~
あれから~数十年…
私も大人になり、今では、○○に「××に宜しく~言っておいて!」と言われた時は、××に会うと「○○が××が、元気にやっているか気にしていたよ~」、というような事を言うようになっている。
上記のようなに…、相手の言葉をその言葉の意味のままに分かるのては無く、その言葉を含めた全体像で考え分かる、という事なのだろうか…
公園で見かける以下のような親子のやり取り…
やっとヨチヨチ歩きがやっとの幼児が走ろうとしている、その危なげな姿に「危ない!」と声掛けをして、その子が転んで泣き出した時。
多くの親は、「ほら~だから危ない!と言ったでしよう~」と…泣いている子供に言ってしまう。
その時のその幼児の認識を言葉で表現するなら…「僕が痛くて泣いているのに…なんで?ママはそんなふうに僕を責めるの…?!」てな感じかな…
そもそも…全身全霊で走ろうとしている、その幼児への親の言葉掛けは、かえってその子の集中の邪魔になり、逆にその子を危ない状況へ陥れてしまう危険がある。日頃から親の言う事など聞かない子は危なくないのだろうが…
この場合…下手な言葉掛けより、近くに駆け寄って親が、車、人、物…など大きな危険が無いことを確認して暖かく見守ってやるべきなのだろう…
そして、その子が危ない状況になれば、急いで駆け寄って抱きかかえてやるべきなのだろう…
つづく…
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「気を付けて」も「宜しく」も…
感情的な像の表現であり、具体的な視覚的像ではない。
それでも、言葉に「感情・像」が付随している。
今の私は、理屈っぽく、抽象的過ぎ…
~反省~