「臨済義玄」コメントへ
以下のコメントへの問いかけを~
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
「絶対矛盾」について…
「・コメントを書いた人」(2021 11 22 月)
「臨済義玄」
↑~
こいつは何者?
「・コメント」
「私が既に投稿している「ゼノンのパラドックスは絶対矛盾である」との南郷さんの考えへの反論が公開される前に次の投稿を送るのも「勿体ない」というレベルの慈善事業的・奉仕的な行為であるが、
自由びとさんには未知のこととして理解するのが困難ではあろうが、「打ち出の小槌」という知的見解をドンドンと量産してくれる「弁証法の技化」という現実の存在を示しておくことも後進のためにはなろう。む
↑
自己満の塊!?
「自由びとさんが記述している「弁証法と弁証法性」との理解は全くもって駄論というか阿呆そのものです。私のことを「馬鹿だ、馬鹿だ」と書いてくれたから遠慮なく述べるが(敵に塩を送るが?ww)、「弁証法は変化・運動の科学であり、弁証法性とは現実世界の変化・運動する性格」という理解は阿呆そのものなんです。」
↑
私の「馬鹿の概念」を知っていて、
私を「馬鹿」呼ばわりしているのだろうか?
「もしかしたなら「弁証法性とは?」についての概念規定に関わる発言をしたのは人類史において私が最初なのかも知れませんが(そんなことあるの?)、「現実世界の変化・運動する性格」が弁証法性ではありませんよ、人類の学問史から顧みたならば。」
↑
本当に「上記のように信じているなら」~
即「論文・書籍化して出版する事を勧めます!」よ~
「「弁証法」というのは「人間の思考の中で」対立関係の事柄を云々する技術として発生して発展してきたもので、
それが即ち「人類の学問の内実」となっています。」
↑
そうなのですか!?
弁証法も十人十色で千差万別ですね!
「だから自由びとさんでも理解可能なように?発言したならば、「アキレスが疾走して場所を移動している」ことは全く弁証法的ではありません。」
↑
そんなの当たり前でしょうが…何を今さら書くの?
アキレスが亀との競争で、アキレスがゴールを目標とせず、
敢えて眼前を走行している自分より遅い亀を目標にしたからの「絶対矛盾」ですよ。
「「運動・変化と静止」という対立関係を合わせて取り上げる「対立物の統一」こそが「弁証法」であり「ソクラテスの産婆術」だったわけです。」
↑
「静止と運動」から始まるのは物理学の世界ですね!
弁証法の始まりは、この世界の中での「運動とは?」「静止とは?」…ですね…!
「そのことが、例えば物理学における「運動と静止との区別」から「どうして運動するのか?」という運動の原因や「どうして静止しているのか?」という静止の原因が判断できていき、「運動するのは力が加わっているからだ」「静止しているのは力が加わっていないからだ」といった因果関係を特定できていき、
さらには「ダルマ落としで下の積木を弾いたならダルマは下に移動する」といった事実から、「静止していた物にも力は加わっていたのだ!ただ、他の力と釣り合っていたから静止していたのだ!」という理由が理解できていきます。」
↑
そうそう物理学の世界ですよ!
「このように「人間の思考、観念の中で対立関係として取り上げることで現実世界の様々な事柄=構造?が把握されていくような《現実世界に秘められている性格》」を「弁証法性」というのです。」
↑
そもそも~現代人なら兎も角…
過去の人類にとって、初めから「対立物」とは何か?分かっていた筈はないしょ!
「そこから三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』に述べているような「ここの弁証法的な関係を究明することで予測できることがある!」との能動的な思考活動が出来るわけです。」
↑
「対立物の特定」ができ難い人類に、どんな「思考活動」が期待できるの?
「このことは、貴兄が書いた「弁証法は変化・運動の科学で、弁証法性は現実世界の変化・運動する性格」といった阿呆丸出しの話しではなく、哲学史的にはカントの「コペルニクス的転回」を踏まえた、
あるいは南郷さんの『武道への道』の「頭の働きとは」の「自分が認知したことを自分なりに整理しておくのが論理だ」といったことに関わる、
「頭の中にそのように整理できる性格が現実世界にある!」ということが「弁証法性」ということの根幹なのだと私は理解していますね。」
↑
いいじゃない…それで~
お宅の自由びとの「弁証法性と弁証法」が、異なっていても別に問題ないでしょうが…
「もしも、阿呆丸出しの貴兄が南郷学派の悠季真理だとしたならば、『学城』の「ギリシャ哲学への招待」は皆んなが知らないギリシャ哲学の知識を知っていたというだけで、南郷さんが重要視していた「論理能力」を持ち合わせていない輩が書いたものだと理解できると思いますね。」
↑
「馬鹿なお宅」と「阿呆丸出しの」自由びとの
記述が一致するのは至難の技ですね♪♪♪♪
そもそも…神にしても、絶対精神にしも、モノ自体論にしても…
それらの言葉は、人類が未知のモノへの命名であり、誰もその中身・内実を事実確認できていないでしょう…
それらは、全て人類の観念内でのモノ…とう事なのです。
ならば、それらの言葉を出発点として、
如何に現代科学の知識を総括・統合できるか…が問題なのです。
「神」概念を用いて、現代社会の全ての物事・事柄を全人類に納得できるか?
「絶対精神」を用いて…
「モノ自体論」を用いて…
お宅のように、部分的なお宅の自己満的な言説にも、なかなか面白いモノがありますが…
まあ…お宅は一生お宅のまま生きていく…のが宿命な運命ですかね…
でも~自由びとは、自由な者として、変幻自在化して一生を過ごしたいのですよ。
「一流」とういう言葉で書くなら、「一流の自由」獲得を目標としたのが「自由びと」的私なのです。
当然、それは、お宅が信じている「自由勝手」とは、異なっている「一流の変幻・自由自在」ですがね…