新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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…感情と行為…

2023-07-13 11:15:55 | ~ものは考えよう~
感情と行為…

先日、「幸せ」を辞書で調べた。

例解新国語辞典[第四版]―しあわせ[幸せ]…
これ以上望むものがなく、十分に満足している状態。

岩波国語辞典[第八版]―しあわせ…
①[仕合せ・幸せ]…運がよい事。幸運。幸福。
②[仕合せ]…まわり合わせ。運。なりゆき。



上記の二通りの「意味」の違いをどのように考えるか?

人が「運がよい」と思った・考えた事柄に対しての、
その時の感情・像が「これ以上望むものがなく、十分に満足している状態」なのだろう。

または、「これ以上望むものがなく、十分に満足している状態」になり得たのは、
たまたま「運がよかった」から、と思い・考え・認識するからだろうか。


まあ~どっちにしても、「運がよい」=「…十分に満足…」とう事であろう。

「しあわせ」とは、人間の感情であり、
そこに「しあわせながある」のではなく、
ある時、ある人が、あるモノに対して、発生した感情が「しあわせ」なのである。


だから…ドラマの台詞ではないが…
「しあわせ過ぎて怖い!」、「こんなに、しあわせなんていらない!」…

言い変えるなら、多くの人達の「しあわせ」を、
ある特定の人達は、「しあわせ」とは感じ得ない…という事でもある。


感情と言えば、以下のような話もある。


6月25日(日)、フジテレビ7時からの番組「ボクらの時代」での
吉澤嘉代子×吉岡里帆×又吉直樹の対話から考えた。


又吉直樹のエッセイ集「月と散文」の中に
「…何をしていても恥ずかしい…」
といった事が書かれていた。


それを受けて、吉澤嘉代子が以下のような事を言った。

私は、「恥ずかしい」という曲を書いた事がある。
「…子供の頃からずっと恥ずかしい何をしても…」
「…恥ずかしがっているのも恥ずかしくて…」
「今ここにいる(テレビ出演)のも恥ずかしい…」
「そう思っているのも恥ずかしい…」
「だから開き直って生きている感じ…」


又吉直樹が言った。

「たまに、よく いや恥ずかしがり屋のくせに人前でする仕事なんてするわけない…言う人がいるじゃないですか…」
「でも、恥ずかし屋のそれってすごい入口で、なにしても恥ずかしいから無理なんですよね。」
「だから開き直ってやりたいようにやる、というのが一番健康的…と思っていても、できたり・できなかったり…」



「寿司屋での注文が、恥ずかしくてできない…」
そんな二人の話に、吉岡里帆は、「恥知らずで…寿司屋でも何でも平気で注文できる…」


「恥ずかしい」とは、感情である。
「恥ずかしい言動がある」のではなく、
「ある人が自分のある行為・言動に恥ずかしい」と感じる、のである。

なので、同じような言動で、それを恥ずかしいと感じる人と感じない人があり得る。


普通、「ある行為・言動が恥ずかしいなら、決して人前ではやらない」のが、普通の人達である。

しかし…上記のような~
「何もかも全てが恥ずかしい!」。
「生きていることさえも恥ずかしい」と感じてしまう人達なら~
普通の話ではなくなってしまう。


よく「食べ物の好き嫌い」は、しないで食べよう…とか、
また「食べ物の好き嫌い」は、個性だからしょうがない、とも言われている。

人間なら、物事について「好き嫌い」はあって当たり前(個性)。
当然に「食べ物の好き嫌い」もありえる事。


問題は、「好き嫌いのある・なし」ではなく、
「好きだから食べる・嫌いだから食べない」という行為にある。


食事とは、生きる為の栄養摂取である。
だから、食べる・食べない判断・基準は、
生きる上で「必要or不要」、「有益or害毒」であるべきモノ。


「恥ずかしい」も然り、
その行為・言動にたいしての自己感情である「恥ずかしい」が問題ではなく、
その行為・言動が、その集団・社会の中での妥当性が問題である。
究極的には、その社会の中での合規則性・合法性であろう。


「何をしても恥ずかしい・生きている事も恥ずかしい」と思ってしまう人達なら、
その行為・言動の基準は「恥ずかしいから、やらない」ではなく、
「迷惑・違法…だからやらない」にするしかない…

ただ私の個人的見解は、
他人に迷惑はかけても、自分がどうしてもやりたい事なら、違法でない限りやるべきであろう。


因みに、「全てが恥ずかしい」と感じる人達の「認識の原風景」(南郷認識論)が…
三歳までの体験・経験の中に「自分の存在・行為…が恥ずかしい」と思わされてしまった事件があったのだろう。



私の原風景は、母親の「乳房からし塗られ」事件であろう…
母から聞かされた以下のような事件である。


母曰く~
「お前が、なかなか乳離れをしないので、乳房にからしを塗ったら、一発で飲まなくなったよ」。


この体験からの私の「原風景」とは以下のようなモノであろうか~
今まで、「快適・快感」を感じ得るモノが、ある時・ある瞬間から、
「不快・苦痛」を感じ得るモノへ変化する。


この私の「原風景」を母は、
お前は、「石橋を叩いて渡る」と表現していたが…
私は、「石橋を叩いても渡らずに、他人が渡るのを見て初めて渡る」と思っている。


そう~物事・他人・自分への、私の不信感は、超一級品であろう。
















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