新・悟りを求めて~

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具体的に考える「言葉」と「像」について…

2023-06-24 14:40:52 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月06日
具体的に考える「言葉」と「像」について…

A:「今の時間は?」~「午後三時半!」
B:「御飯を食べてから経った時間は?」~「三時間半!」

同じ「時間」なのに、意味が異なっている。何故なのだろうか?
「時」の流れの一瞬一瞬を切り取ったものを「時刻」、流れ過ぎた「時」の纏りを「時間」、という言葉で表現したのだろう。
この「時刻」と「時間」は、小学生の算数の時間に教えられている。しかし、日常生活では、この「時刻」=「時間」として同じものとして普通に用いられている。その為か?なかなか区別し難いものになっているようである。

また、あやふやな記憶によれば、私は算数の先生に、距離=速度×時間、と教えられた。が…今、私が使っている教科書には、道のり=速さ×時間、と書かれている。
「距離」と「道のり」、「速度」と「速さ」、文字が違う。文字が違えば意味が違う。~ということなのだろうか…

言葉…昔の言葉は、今よりアバウトだったような気がする…


「言葉」とは、人間が認識し得た、気付けた、知り得た「何か」を文字や音声で表現したものである。

では~人間は目に見えない「時」をどのように認識したのだろうか?
それは、たぶん昔の人が、日々の太陽の昇り沈みで一日を、日々の天体の運行を観測することで一年を365日、28日~31日を一ヶ月、そして一日を24分割して一時間を、創ったのだろう。

その後、時計が発明され、カレンダーがつくられた。現代人にとっては、一年はカレンダーの数字の変化で、一日の時間は時計の動きで知ることになっているのだろう~

自然の変化から人類が創りあげた「時」の流れは、今では自然の変化から離れて時計の数字、カレンダーの数字の変化となっているようである。

「言葉」で考えるとは、この場合「時」という言葉を見て、時計やカレンダーを連想して、そこから「時」を考えることであり、「像」で考えるとは、人類が「時」認識した当初に溯り、そこから時計やカレンダーまでの発展過程も含めて考える、ということなのだろう。
この場合、言える事は時の流れは、時計やカレンダーの流れでは無いということであり、それは、自然の変化・運動、目に入る周囲の自然の変化・運動が「時」の流れなのだろう。
 その自然の変化・運動の、ある瞬間を切り取ったものとある瞬間から次の瞬間を纏めたもの、とを区別と連関で認識し得た時、「時刻」と「時間」という言葉で表現したのだろう。


 このように考えると、「言葉で考える」とは、ある短い時間・空間内の限定された変化・運動の範囲内で考える、ということであり、「像で考える」とは、その事物の出来始めから、発展過程、そして現在までを大きな流れとしての変化・運動として考える、ということなのだろう。

 人間の認識=像である以上、人間が対象を像で考えてしまうのは必然であろう。しかし、その像について考えた時、対象の部分的時間・空間像または時間・空間的部分像も全体的時間・空間像または時間・空間的全体像も、全て「像」という言葉で表現できてしまう。
 
そう~この同じ「像」という言葉を、その時々の対象に即して、部分的像と全体的像とに区別と連関で理解するのは、その当人の認識である。

 その当人の認識もまた像である以上、自己の認識における部分的像と全体的像の区別と連関ができていない場合は、どんなに丁寧な解説文=言葉を見ても、その像は描きようが無いのだろう~

 対象を部分的全体的像⇔全体的部分像、として分かる為に、その為にこそ弁証法の学びが必要なのだろう~

 対象の全体がみえている時は、全体からその部分を想像し、部分がみえている時は、その部分から全体を想像する。
 
これは、書くは易く、行うは難し…であるが…

しかし、これが無理に意識的にすることなく自然に容易く出来るようになった時、認識が弁証法性を帯びたといえるのだろう~





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