「正-反-合」を考えていたら…「即自・対自…」という言葉に行き着いて、
「正」が自分の見解なら、「反」は他人の見解、「合」は両者をまとめた見解。
そこから「即自・対自…」という言葉を思い出し、ネットで検索したら、
初めに「即自・対自・即且対自」が見つかり、
更には「即自・対他・対自」をみつけた。
この「即自・対他・対自」は初めて知った言葉である。
これらの解説は、記事の最後に添付している。
今ここで「正-反-合」を使うなら、
「正」=「即自・対自・即且対自」
「反」=「即自・対他・対自」
「合」=「即自・(対他・対自)・即且対自
言葉にすれば、
人間は自分だけでは自分を識る事はできない(即自)のまま。
他人と関わり(対他)の中で自分知り(対自)、
そこから、自分と他人・他人と自分の違いを識る(即且対自)
私が南郷師範から学んだ弁証法は、南郷学派の論文をいくら読んでも「即自」、
今回は、tadaさんの弁証法記述と大きく関わる事で「対他」となり、
南郷弁証法とtada弁証法を対峙して「即自・対他」から今は対自」の状態にある。
今後は、「即且対自」へと向かって行くのだろうが…
[ 「正」-「反「(正-反-合)」-合 ]
[ 正「即自」- 反「対自」=(即自-対他-対自)-合「即且対自 ]
これは、大本の
「正-反-合」の過程の中にも「「正-反-合」の存在が見て取れる。
これが師範の書いている「構造の過程と過程の構造」であろうか…。
大本は、<正>「正-反-合」と<反>「対自・対他・即且対自」であり⇒<合>へ
その過程で、
『正』「対自・対他・即且対自」」と
『反』「即自・対他・対自」
⇒『合』「「即自・(対他・対自)・即且対自」
大本の「正-反-合」⇒「即自・(対他・対自)・即且対自」となり得た。
これは「正-反-合」とう論理の構造の説明である。
ここから言える事は、「正-反-合」には、
「正(正-反-合-反(「正-反-合)-合(「正-反-合)」であり、
全ての大きな「正」・「反」・「合」は、より小さな「合」=「正-反-合」の結果である。
論理学としては「正-反-合」で終わりであっても、
弁証法としては、大きな「「正-反-合」の中にある小さな「正-反-合」の始まり…
これが、「正-反-合」の弁証法的な捉え方であり、弁証法運動なのだろうか……
例えるならば、対面して置いた二枚鏡の中の見える限りは無限「鏡世界」であろうか…
(おわり)だった筈が…
いやいやビックリ…記事への添付を忘れて
今初めて確認で以下の記述を最後まで読んでみたら…
なんと…「ここで私が考えているのは、<即自―対他―対自―即自かつ対自>という、対他による他の転態を媒介とした、円環的な連関の発展である。」と書かれていた。
本当にビックリ!である。
まあ~
この記事「対他」を「対自」の対比に気付いたのは事実であろうし…
そこから「正-反-合」の使い方の構造を考えだしたのも事実であろう…
「即且対自」これは、「即自かつ対自」の方がいいかも…
自分は自分でありながら他人的な自分も自分…。
以下は添付である↓
2020.11.29 Sunday
連関は、即自・対他・対自の三局面をもつ
transhistoy.jugem.jp/?eid=6259
連関は、即自・対他・対自が相互浸透して発展する。
即自 an sich は、自分が存在することじたい。連関の出発点である。まだ連関をはじめておらず、これから発展する段階であるが、同時に、発展がめざしているもの、発展の果てにあるものでもある。
対他 für Anderes は、即自にある自分が素材に向かって連関する局面。即自がなければ対他はない。
対自 für sich は対他の一種で、他=素材の位置に自分を置いて連関する側面。他は自分にとっての他であるから、対他は対自でもある。対他は対自を含むので、すぐれた対他は充実した即自につながる(即自かつ対自)。
すぐれた対他→即自かつ対自をするには、自分を小さくすることである。
自分を小さくして、あらかじめ多くの連関を受け入れているとき(やわらかい即自)、すぐれた対他=連関結合が可能になり、他=素材も、自分との連関結合を受けて、みずからすぐれた転態をおこなえる。
この対他は対自を含んでいる。他=素材がみずからすぐれた転態をおこなうのを見た自分はさらに小さくなり=即自性が増し、ますます多くの他に良い連関=対他ができるようになる。
即自を出発点とし、対他を媒介とし、対自が充実して、即自が発展する。
*ヘーゲル哲学の解説では、<即自―対自―即かつ対自>というトリオがとりあげられることが多いようだが(『ヘーゲル用語事典』平凡社、72-74頁)、ここで私が考えているのは、<即自―対他―対自―即自かつ対自>という、対他による他の転態を媒介とした、円環的な連関の発展である。
「正」が自分の見解なら、「反」は他人の見解、「合」は両者をまとめた見解。
そこから「即自・対自…」という言葉を思い出し、ネットで検索したら、
初めに「即自・対自・即且対自」が見つかり、
更には「即自・対他・対自」をみつけた。
この「即自・対他・対自」は初めて知った言葉である。
これらの解説は、記事の最後に添付している。
今ここで「正-反-合」を使うなら、
「正」=「即自・対自・即且対自」
「反」=「即自・対他・対自」
「合」=「即自・(対他・対自)・即且対自
言葉にすれば、
人間は自分だけでは自分を識る事はできない(即自)のまま。
他人と関わり(対他)の中で自分知り(対自)、
そこから、自分と他人・他人と自分の違いを識る(即且対自)
私が南郷師範から学んだ弁証法は、南郷学派の論文をいくら読んでも「即自」、
今回は、tadaさんの弁証法記述と大きく関わる事で「対他」となり、
南郷弁証法とtada弁証法を対峙して「即自・対他」から今は対自」の状態にある。
今後は、「即且対自」へと向かって行くのだろうが…
[ 「正」-「反「(正-反-合)」-合 ]
[ 正「即自」- 反「対自」=(即自-対他-対自)-合「即且対自 ]
これは、大本の
「正-反-合」の過程の中にも「「正-反-合」の存在が見て取れる。
これが師範の書いている「構造の過程と過程の構造」であろうか…。
大本は、<正>「正-反-合」と<反>「対自・対他・即且対自」であり⇒<合>へ
その過程で、
『正』「対自・対他・即且対自」」と
『反』「即自・対他・対自」
⇒『合』「「即自・(対他・対自)・即且対自」
大本の「正-反-合」⇒「即自・(対他・対自)・即且対自」となり得た。
これは「正-反-合」とう論理の構造の説明である。
ここから言える事は、「正-反-合」には、
「正(正-反-合-反(「正-反-合)-合(「正-反-合)」であり、
全ての大きな「正」・「反」・「合」は、より小さな「合」=「正-反-合」の結果である。
論理学としては「正-反-合」で終わりであっても、
弁証法としては、大きな「「正-反-合」の中にある小さな「正-反-合」の始まり…
これが、「正-反-合」の弁証法的な捉え方であり、弁証法運動なのだろうか……
例えるならば、対面して置いた二枚鏡の中の見える限りは無限「鏡世界」であろうか…
(おわり)だった筈が…
いやいやビックリ…記事への添付を忘れて
今初めて確認で以下の記述を最後まで読んでみたら…
なんと…「ここで私が考えているのは、<即自―対他―対自―即自かつ対自>という、対他による他の転態を媒介とした、円環的な連関の発展である。」と書かれていた。
本当にビックリ!である。
まあ~
この記事「対他」を「対自」の対比に気付いたのは事実であろうし…
そこから「正-反-合」の使い方の構造を考えだしたのも事実であろう…
「即且対自」これは、「即自かつ対自」の方がいいかも…
自分は自分でありながら他人的な自分も自分…。
以下は添付である↓
2020.11.29 Sunday
連関は、即自・対他・対自の三局面をもつ
transhistoy.jugem.jp/?eid=6259
連関は、即自・対他・対自が相互浸透して発展する。
即自 an sich は、自分が存在することじたい。連関の出発点である。まだ連関をはじめておらず、これから発展する段階であるが、同時に、発展がめざしているもの、発展の果てにあるものでもある。
対他 für Anderes は、即自にある自分が素材に向かって連関する局面。即自がなければ対他はない。
対自 für sich は対他の一種で、他=素材の位置に自分を置いて連関する側面。他は自分にとっての他であるから、対他は対自でもある。対他は対自を含むので、すぐれた対他は充実した即自につながる(即自かつ対自)。
すぐれた対他→即自かつ対自をするには、自分を小さくすることである。
自分を小さくして、あらかじめ多くの連関を受け入れているとき(やわらかい即自)、すぐれた対他=連関結合が可能になり、他=素材も、自分との連関結合を受けて、みずからすぐれた転態をおこなえる。
この対他は対自を含んでいる。他=素材がみずからすぐれた転態をおこなうのを見た自分はさらに小さくなり=即自性が増し、ますます多くの他に良い連関=対他ができるようになる。
即自を出発点とし、対他を媒介とし、対自が充実して、即自が発展する。
*ヘーゲル哲学の解説では、<即自―対自―即かつ対自>というトリオがとりあげられることが多いようだが(『ヘーゲル用語事典』平凡社、72-74頁)、ここで私が考えているのは、<即自―対他―対自―即自かつ対自>という、対他による他の転態を媒介とした、円環的な連関の発展である。