「人間は認識的実在である」が真理なら、
「人間は本能的実在でない」も真理。
「動物は本能的実在である」が真理なら、
「動物は認識的実在でない」も真理。
人間の観念内での真理は一つであっても、
それを言語表現するなら「真理は二つ」となり得る(のだろう)。
人間が観念内で認識する「運動」は一つ でも、
それを言語表現するなら以下のようになり得る。
「運動とは、そのモノが、そこにあると同時にそこにない」
「変化とは、そのモノが、そのモノであると同時にそのモノでない」
「真理とは、あるモノコトの真の姿を認識したモノ」と概念規定するなら、
人間の観念内でのあるモノコトの真の姿「認識・真理は一つ」でも、
それを言語表現するなら「言語・真理は二つ」(になり得る)。
その理由は、言語表現には肯定⇔否定の両側面があり得るから…
「好きとは嫌いの否定」、「風が吹くとは無風の否定」…
そもそも…あるモノの表現・言葉は、
そのモノが他のモノと違う事を知らせる為に生まれた、のだから…
貴兄には貴兄のお考えがあるでしょうから、それを否定するつもりは有りませんが、貴兄とは差異のある私の考えも披露いたします。
それは、短く小見出し(小タイトル)をつけるとするならば「弁証法と論理学」ということになろうかと思います。要するに貴兄の説く「好きとは嫌いの否定」という考えは「論理学的」だということなんです。
それに対する「弁証法的」だというのは『南郷全集 第二巻』p93の
「杉の木の下でかつて失恋したことがあるみなさんは、そんな杉の木をみるとその像はイヤーなものとして合成されることになります。…嫌な思い出と楽しい思い出が双方ある杉の木ですと、いうにいわれぬ複雑な感情像となってしまうわけです。」
この「好きなのか嫌いなのか曖昧でハッキリとしない複雑な心情」は大人であるなら日常的にみられるものだと思いますが、子供にとっては「好きは好き」で「嫌いは嫌い」で交わらぬものでしょう。
それで貴兄が出している「認識的実在」なる言語表現は余りお目にかからぬ言い方で、おそらくは南郷学派の人間だけが使っているものではないかと思われます。
ここで貴兄が「動物は本能的実在」という表現と対立関係で提示していますから、ハッキリとはしないながらも情動に任せて行動する様を想定しているのでしょうか?
あまりハッキリはしませんが「教育と野放し」という対立関係なのかな?とも思われます。それは現在は動物調教師なる資格もあって動物を人間と共生できるように調教=躾ける社会があるからです。
そうなると、昔の教育学のように「人間は動物とは絶対的に線引きされた対立関係にあるもの」というのは必ずしも当てはまらず、動物は人間的な社会関係を担うものでもある=「人間化された自然」(『弁証法はどういう科学か』p162)ということになります。
これは奇しくもブッダが説いた「あらゆる生物に仏性はある」ということの現実化でしょうが、論理学的な認識とは区別された弁証法的な認識です。
「みずからを他のものとして創造する」という相互浸透の規定どおりに元のカテゴリーとは別のものへ変化してしまうわけですから。
それで貴兄は「認識的実在」なる言葉にさほどの深い意味は想定しておらず、人間は理性的に判断できるとか感情のままに行動せずに自制心があるとかいった文脈のようですが、そもそもこの「認識」と「実在」という言葉は同じ一つの哲学という領域の中で区別されたる「実在論と認識論」なる分野に使われていたということには注意しておいたほうがよいと思われます。
「哲学」という分野の別々の「実在」と「認識」とが混ざり合いヌエ的アイノコ的となって「認識的実在」となる、これは勿論が相互浸透なわけですが、庄司和晃の三段階連関図式(『弁証法はどういう科学か』p127)だと「概念的、普遍的段階」へ至る前段階である「過渡的段階」だということも述べておきたく思います。
貴兄の考えを否定するつもりは毛頭なく、議論するつもりもありませんので、一人の読者の感想だと思っていただけたら幸いです。
↑~
特に「興味深く」ある必要はありませんが…
>貴兄には貴兄のお考えがあるでしょうから、それを否定するつもりは有りませんが、貴兄とは差異のある私の考えも披露いたします。
↑~
別に「披露いたします」は不要ですが…
↓
>それは、短く小見出し(小タイトル)をつけるとするならば「弁証法と論理学」ということになろうかと思います。要するに貴兄の説く「好きとは嫌いの否定」という考えは「論理学的」だということなんです。
↑~
どちらかと言うと「言語学」だと思いますが…
↓
>それに対する「弁証法的」だというのは『南郷全集 第二巻』p93の
「杉の木の下でかつて失恋したことがあるみなさんは、そんな杉の木をみるとその像はイヤーなものとして合成されることになります。…嫌な思い出と楽しい思い出が双方ある杉の木ですと、いうにいわれぬ複雑な感情像となってしまうわけです。」
↑
これって…「杉の木」に対する感情の形成過程を説いているだけ…だと思いますが…
もっとも…その形成過程が弁証法的ではあるのですが…
>「好きなのか嫌いなのか曖昧でハッキリとしない複雑な心情」は大人であるなら日常的にみられるものだと思いますが、子供にとっては「好きは好き」で「嫌いは嫌い」で交わらぬものでしょう。
↑~
ここでの問題は人間の「好きなのか嫌いなのか曖昧でハッキリとしない複雑な心情」ではなく、
表現としての「言語」の問題のなのですが…
>それで貴兄が出している「認識的実在」なる言語表現は余りお目にかからぬ言い方で、おそらくは南郷学派の人間だけが使っているものではないかと思われます。
↑~
そう言われれば…南郷氏の言葉ですね。
>ここで貴兄が「動物は本能的実在」という表現と対立関係で提示していますから、ハッキリとはしないながらも情動に任せて行動する様を想定しているのでしょうか?
↑~
想定しているのは「動物の本能と人間の認識の区別と連関」ですかね。
>あまりハッキリはしませんが「教育と野放し」という対立関係なのかな?とも思われます。それは現在は動物調教師なる資格もあって動物を人間と共生できるように調教=躾ける社会があるからです。
↑~
人間の教育には「意識・自覚的な教育と無意識・無自覚的な教育」が考えられます。
この「野放し」とは、保護者が「教育放棄」して、他人の無意識・無自覚的な教育に頼る…モノですね。
>そうなると、昔の教育学のように「人間は動物とは絶対的に線引きされた対立関係にあるもの」というのは必ずしも当てはまらず、動物は人間的な社会関係を担うものでもある=「人間化された自然」(『弁証法はどういう科学か』p162)ということになります。
↑~
人間も動物も同じ生命体です。
線引きとは、人間が「どこで線を引くか」の問題なのです。
>これは奇しくもブッダが説いた「あらゆる生物に仏性はある」ということの現実化でしょうが、論理学的な認識とは区別された弁証法的な認識です。
↑~
「仏性は認識ではない」と思います。
生物の仏性とは、生物の実体(の有している)物自体の弁証法性ですかね。
>「みずからを他のものとして創造する」という相互浸透の規定どおりに元のカテゴリーとは別のものへ変化してしまうわけですから。
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弁証法性を有しているから、個体の個別・事実的な性質や形態が相互浸透して…
それでも、犬が人間と相互浸透しても犬は犬です。
なので「元のカテゴリーとは別のものへの変化」は大袈裟ですかね。
>それで貴兄は「認識的実在」なる言葉にさほどの深い意味は想定しておらず、人間は理性的に判断できるとか感情のままに行動せずに自制心があるとかいった文脈のようですが、そもそもこの「認識」と「実在」という言葉は同じ一つの哲学という領域の中で区別されたる「実在論と認識論」なる分野に使われていたということには注意しておいたほうがよいと思われます。
↑
今度、「認識的実在」と「観念的実在」の区別と連関を考え書いてみましょうかね。
>「哲学」という分野の別々の「実在」と「認識」とが混ざり合いヌエ的アイノコ的となって「認識的実在」となる、これは勿論が相互浸透なわけですが、庄司和晃の三段階連関図式(『弁証法はどういう科学か』p127)だと「概念的、普遍的段階」へ至る前段階である「過渡的段階」だということも述べておきたく思います。
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一般的な「認識」と南郷氏の書く「認識」とでは、その概念規定が異なっています。
南郷氏の「認識とは、人間が頭脳内で描く像(五感情像)」です。
「認識は機能」で「実在は実体の存在」ですね。
「認識的実在」とは、人間の実体の存在(実在)は、その人間の機能によって創り創られる、という事です。
>貴兄の考えを否定するつもりは毛頭なく、議論するつもりもありませんので、一人の読者の感想だと思っていただけたら幸いです。
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そもそも…お宅と私との議論は不毛です。
その理由は、互いの使用している言語の中身・概念が、少しまたは大きく異なっているからです。
真の議論を求めるなら(特求めませんが…)、
互いの言語の概念規定のアバウトな一致(最低限…その相違の理解)が不可欠なのです。
これを、お宅に求めるのは至難な事であり、無いものねだりの子守歌…ですね。
しかし 論理学の弁証法では この二つの真理を一つにして真の唯物論=科学としています。論理学的に観ると観念論とは演繹法であり 唯物論とは帰納法として抽象化できます。この抽象化から 哲学の方法を演繹法 科学の方法を帰納法と 私は規定しています。(南郷学派とは違う哲学の規定です。)そして 弁証法は この二つの方法が合体したものなのです。普遍性の哲学の方法側から特殊性の科学の方法側へまた特殊性の科学の方法側から普遍性の哲学の方法側への思考の運動こそが弁証法です。つまり 哲学を含んだ科学というものが真の科学になります。現代はこの哲学 全体を通して把握する理論が疎かになっているわけです。
この「場」というモノが全く分かっていない…
ここが自由びとブログのコメント欄であり、
掲示板ではない事が理解できていない。
この「2021-09-28 10:26:51」コメントは、まだマシだったので特別に公開した。
それは、例えるなら「他人の家に靴を脱いで上がった記述」だから…
それでも、「その家の主への挨拶・礼儀…等に不足」を感じてはいる。
しかし、それ以降の五連続・投稿の未公開コメントは、
とてもとても真面目に相手して読めたモノではなかった。
言うなれば、それは「他人の家に土足で乱入して」暴言放題コメントである。
それはそれは、もう…とてもとても公開でき難いモノである。
何が「土足」で何が「乱入」・「暴言」であるか?
それは~
私の精神世界であるブログ記述への「奇形」呼ばわり。
私の「公開・非公開」の都合に関係なくの「五連続投稿」。
更には己のコメントへの「自負妄想記述」…等であろう。