フっと気付いた!
「真理とは何か?」を明確にせずに、
「『真理は二つ』につてい」を問うのは、手順が違っていて、筋が間違っている(非論理的)である事に…
そこで、今「真理とは何か?」を問うてみた。
真理とは、対象とする何かの「真の姿」とする。
「真の姿」があるなら「偽の姿」や「仮の姿」があろう。
例えば、私の「真の姿」とは?を考えたなら、
それは、今この瞬間、ここに存生する「現実の私の姿」であろう。
そして、一瞬前の私の姿は「仮の姿」、「過去の姿」であろう…
その理由は、生物・人間である私の姿は刻一刻と変化している。
それは肉体・表情・感情・思い・考え…
それら全てが一瞬前の私と今の私とでは異なっている…からである。
ならば「真の私の姿」とは何か?
それは、過去から現在そして未来にあっても、
ずっと変わらずに存在し続ける「変化しない私の姿」と言えよう。
ここで、真の私の姿=変化しない私の姿を考えるなら、
私は人間なので、私には、
人間として変わらない「人間の真の姿」と
私として変わらない「私の真の姿」の二重性が考えられる。
私の真の姿(私の真理)には、
「生物・人間の真の姿」(人間の真理)と「個体・私の真の姿」(個体の真理)の二つだと考えられる。
さて…ここで、「真理とは対象とする何かの真の姿」と捉えて良いだろうか?
「良い」とするから、それは五感で感覚可能であろうか?
「万物流転」が世界の絶対的な真理=真の姿である…と信じているなら、
万物の「真の姿」は決して五感では直接に捉えられないモノと言えよう。
私の真の姿は、現実に存在する私の姿であるのに…
その「真の姿」を直接に五感では捉えられないのである。
ならば…真の私の姿は、どのように捉えるのだろうか?
真理とは、
現実に存在する変化・運動している何かの中で、
「その何かとして絶対に変わらない姿」を、
人間が自己の観念内に構築・像化する事、と考えよう。
この変化・運動する・している何かの中で、
絶対に変化・運動しないモノを哲学用語で「実体」と言うのだろう。
実体の変化・運動は絶対に変わらない・止まらない…
なので、そんな実体は決して捉えられない…
それで、変化・運動している実体の姿・状態=実態は捉えられるなら…
例えば、
「私が笑っている・怒っている…」これを実態として見えても…
この場合、この「笑い・怒り」は、どのような実体の状態なのだろうか?
「笑い・怒り…」は感情である。「感情の元は心」であるから「その実体は心」?
しかし、人間の身体のどこを探しても、誰もが「心」というモノは発見できていない。
現在では、「心は人間の頭脳の働き・機能」だと考えられている。
機能は現実に存在(現存)するモノではない。
モノでないのに実体(実際に存在する体)と言っていいだろうか?
実体が変化・運動している状態を実態とするなら、
実態である「笑い・怒り」の源が心なら「心は感情の実体」と言えよう。
では、頭脳の機能である「心の真の姿」とは?
それは、その実存する頭脳の中身・構造となろう。
……
さてさて…疲れたので…
ここで、以下のように「真理」の種類について考えた。
真理を、
人間の観念内に構築・創造する、
現存する対象である何かの
変わらない真の姿、とするなら…
真理には、
「その何かの真の姿」の表現。
「その何か真の姿を構築・創造するまで時々その何かの姿」の表現。
「私の観念の中でのその何かの真の姿」。
「私以外の人々の観念内での何かの真の姿」。
真理には以下のようなモノが考えられる。
到達したと思える「真の姿」(真理)としての認識・表現。
到達したと思えるまでの「時々の姿」の認識・表現。
以下のような意味の言葉を思い出した、
「その結果が全てではない、その結果に至る過程をも含めたモノが全てである」
これは、結果論だけではなく、過程論を合わせて初めて全てという「真理」であろう。
自己の真理の表現。
他人の真理の表現。
↑これは、
自分の真理が真理ではなく、他人の真理をも含めて初めて真理である。