唯物論について以下のような見解があるが…
唯物論は、事実を起点とする。
(観念論は、本質を起点とする。)
でも…本当に、これでよいのだろうか?
唯物論には、
「ユイブツロン」というモノ、と
「タダモノロン」というモノ、とがある。
「タダモノロン」とは、
ただただ…事実や物から論じる唯物論の事を言う。
例えば、先日学校で以下ようなトラブルを目の当たりにした。
その発端は、月曜日の朝に、
A君が、B君を突然叩いた事である。
先生、「A君!何でB君を叩いたの?」
A君、「だって…Bが、先に叩いた!」
先生、「先って、いつの事?」
A君、「金曜日!」
さて、普通に考えるなら、
ここまでの事実なら、
(当日は)何もないのに突然にB君を叩いたA君が悪い、
で解決である。
しかし、この場合、
金曜日に何もしていないのに、B君に叩かれたA君が納得しない、
のである。
そこで以下の会話が続けられた。
先生、「B君!何で金曜日に、A君を叩いたの?」
B君、「だって…Aが突然ぶつかって来たから…」
B君、「何も言わず、謝らなかったから叩いた!」
先生、「A君!何でB君に何も言わなかったの?」
A君、「だって…C君が僕の事を押したから…」
ここまでなら、A君を押したC君が悪い事になる。
そこで先生はC君を呼んで以下の会話。
先生、「C君!金曜日に何でA君を押してB君にぶつけたの?」
C君、「先生、わざとじゃないよ!僕とAは遊んでいたんだよ!」
ここまで遡ると、
前の週の金曜日に、A君とC君が遊んでいて、
A君がB君にぶつかって、でもA君が謝らなかったのでB君が叩いた。
その日は遊びに夢中のA君は叩かれても…その日は、それで終わった。
しかし、翌週の月曜日に、
その事が思い出したA君が、突然にB君を叩いた。
という事である。
ここまで、
遡って考えれば、A君もB君も納得できる解決が可能であろう。
その一つが例えば~
金曜日に遊んでいて、ぶつかってしまった事を
先ずは、A君がB君に、説明して謝る。
つぎに、B君がA君に、金曜日にを叩いた事を謝る。
最後に、A君がB君に、月曜日に突然叩いて事を謝る。
何の為の唯物論なのか?
それは、問題解決の為である。
上記の場合の問題解決とは、双方の感情であり、納得である。
感情も納得も認識であり、観念の問題でもある。
認識・観念の解決を観念論での解決も可能である。
それは、二人の間に立った教師の力量であり、教師の観念的な説得力であろう。
金曜日と月曜日で、A君とB君は、お互いに一発ずつ叩いたから、あいこで終わり!…
まあ~解決方法色々であるが…
要は、双方の納得が得られればいいのである。
例え、唯物論が「初めに事実ありき」であっても、
その必要な事実をどこに設定するかが…
世界観としての唯物論の威力であろう。
世界観としての唯物論は、「世界の起源はモノ自体」であり、
その時々の、「世界はモノ自体の変化・運動」の過程的事実である。
言ったモノだろうと…私は思っている。
世界の起源がモノ自体ならば、
どんな今の事実からも、それ以前の事実へ遡れるのが唯物論であろう。
今回のように、子供同士のトラブルなら、双方の記憶も確りしているだろうし…
また、小学生の場合、先生の質問に嘘を言う事は殆どないだろうし…
これが、事実として、過去の事実へ遡れなかった場合は、
論理的な推測(観念的な推測)で、論理的な事実を提示して、
双方の了解・納得を求めるモノなのだろう。
最後に以下の記述は、そのタダモノロンの典型です。
>物質・物体の構成要素をどこまで小さく辿れるか?という方向で原子や元素の探究に向かっても唯物論ではありません。唯物論とは世界のありとあらゆるモノゴトを物質として説明しなければいけないはずのものですから、例えば貴乃花が相撲協会から引退した理由を水素だとかの92種類の原子で説明しなければいけないはずですよ。
>「憎しみのあまり殺害した」なんてのは事実として確認できるものですが「憎かった」なんて感情を理由にするのは唯物論ではないはずです。「事実」というのは「唯物論」的ではありませんし、そのため現代の学術世界は物質面での探究は必至であっても「唯物論」ではないのだと考えています。
>唯物論とは世界のありとあらゆるモノゴトを物質として説明しなければいけないはずのものですから、
>例えば貴乃花が相撲協会から引退した理由を水素だとかの92種類の原子で説明しなければいけないはずですよ。
「モノゴトを物質として説明」ではなく、
モノ自体であり、そのモノ自体からの考え説明です。
貴乃花は人間です。
だから人間自体からの考え説明。、
人間は認識的実在です。
だから、貴乃花の認識から考え説明。
認識は社会的な産物です。
だから、貴乃花の社会環境から考え説明。
>「憎かった」なんて感情を理由にするのは唯物論ではないはずです。
「憎かった」とは、「憎い」という感情的な事実です。
でも、説明は、その感情の形成過程です。
どうして、「憎い」感情の形成があったか?
どうして、その「憎い」が「殺したい」へ、そして、
どうして、「殺害したい」が「殺害」へ至ったかを、
その時々の事実関係から、その時々の感情変化を推理・推測していくのが唯物論です。
例えば、日常でも「心というモノは…」と言って、心もモノ扱いです。
モノにも、実体的なモノと観念的なモノの二重性が考えられます。
当初・過去の唯物論は、存在する物から論じていても、
現代は、モノから発展して人間の認識・精神・心…等も
モノとして扱える・扱うモノへは発展している、のでしょう。
だから、唯物論も観念論も「世界観」として捉えられているのです。
そして、唯物論だから、とことん追求が可能なのです。
観念論なら~だって…
「ヘーゲル哲学が…」とか、
「私が思う…」とか、
始まりを自分勝手に決定可能です。
しかし、
唯物論が必要に応じて出発点を決めていても、
その唯物論が世界観とするなら、
いつでもどこでも、その出発点から、
更に遡る事が可能であるべきモノなのです。