新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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「勝ち」と「負け」について…

2022-05-07 12:27:47 | 悟得びと認識論
「勝ち」と「負け」について…

算数では「+」とは、足し算で、「-」とは引き算である。
でも、数学では、「+」と「-」には、加法・減法記号と、正・負の記号となる。

まず貯金なら~
貯金の増加(加法)は快感で「プラス感情」。
貯金の減少(減法)は不快で「マイナス感情」。

でも…借金なら
借金の増加は不快「マイナス感情」。
借金の減少は快感「プラス感情」。

それでも、
事業での借金の結果が利益拡大なら、「マイナス感情」と「プラス感情」となり得るだろう。

私の「勝ち・負け」の概念も「プラス・マイナス」と同様である。


さて私の上記のような基本概念を前提に以下のコメントから考えるなら~



以下のコメントについて…


理学でいう「リフレーミング」とは同じ事実、同じ事柄を別の(好ましい)フレームで考えるということですから、何かをした自分なり他人なりの評価を「勝ち負け」というフレームから別のフレームに移行することでしょう。

けれど、自由びとさんの考えでは「勝ち負け」という評価には拘泥するものの、それに対応する事実・現実を変えることですから。


私は全ての事柄を「勝ち負け」で考えることには賛成できかねますし、それは南郷先生の「私が何かを述べるときには科学的武道論の次元で説いているのではなく、學一般の次元で説いている」というのにも通じると思いますけど、
「勝ち負け」という評価で考えるべき事柄は世の中でそれほど多くはない気がするんです。


>「勝ち負け」という評価には拘泥するものの、それに対応する事実・現実を変えることですから。

私が、ここで「勝ちと負け」という言葉を使い続けるのは勝負論を論じるからであり、
「勝負論」なら、その勝負における「勝ち・負け」を決める必要があるからである。

ただ…その物事を「勝負」事の決めるのは、その者の認識である。
唯の練習・交流試合なら、楽しめればOKで、勝ち負けのなし…
もあり得る「ゲーム」でなり「勝負」ではない。

ケーム・試合に客観的な「勝ち・負け」はあっても、
そのゲームを当人が主観的に勝負と考えないなら主観的な「勝ち・負け」はなくなる。


勝負論で論じるなら、全てを勝負と捉えて論じるのが学問的な勝負論の使い方。「勝ち・負け」を設定しない・無くても、主観的・個人的に心の中で

「自分も相手も楽しめれば勝ち(++)」。
「自分だけ楽しめれば引き分け(+-)」。
「相手だけ楽しめたら引き分け(-+)」。
「相手も自分も楽しめなかったら負け(--)」。

~なんて主観的な
「勝ち・負け」を設定すれば、
それは勝負論で論じられる、だろう。



主観的な勝負から「勝ち・負けをも主観的に自由に決定可能である。
しかし、その主観的な「勝ち・負け」概念がコロコロと変わっていては、自己観念の一貫性を無くすだろうから…

これが、客観的な勝負なら、その「勝ち・負け」は私の主観の外にあるので、それに従えば問題ない、だろう。

私の「勝ち・負け」概念で捉えて書くなら~


ある考えが、学問(的な論理レベル)として正しい事は学問としての「勝ち+」。
でも、法律・規則違反なら、法律・規則として「負け-」。
それでも、個人的に容認可能なら、個人的に「勝ち+」。
でも、周囲の家族に迷惑をかけるので家族的には「負け-」。


辞書に載っている語彙には、その語彙の意味がある。
言うなれば、これが言葉の基本技といえよう。

そして、私の記述・発言した語彙は言葉になり、
そこには私の思い・考え…思考・思惟・思索・思弁の過程・結果・認識が表現されている。
それは、基本技の変化的な駆使であり、変化技とも言えるモノであろう。


どうやら…この一村氏は、「変化技」という言葉は使えても、
私の言葉を基本技(辞書・語彙的な意味)と変化技(私的認識の表現)として理解できていない…ようである。




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