「思考の方法」と「思考の技」について~
昨夜の23:23に、
息子からラインに「今日の朝帰るかも」と言うコメントが入った。
一読して思った事は『この文章は少々変かな?』であった。
何故なら、今日の(夜)23時に今日の朝は、もう終わっている、からである。
この文章を正しく書くなら、
「今日の帰りは明日の朝かな」であろう。
または、「明日の朝帰るかも」であろう。
更に短く書くなら「朝帰るかも」であろう。
初めの「朝帰るかも」は、
現実の夜の23時にラインに入った言葉だから、
現実の中では言いたい事は通じるだろうし内容の理解可能である。
これは、文法として「今日の朝」と「帰るかも」と間違いなくても、
現実の事実との対比において、
過ぎてしまった「今日の夜」に「今日の朝帰るかも」はあり得ない。
文法として「文章構造の正確さ」と現実的な「文章内容の正確さ」の区別と連関である。
言葉の正しさの二重性~
一つ、言葉の表現方法として正しさ―文法と使用語彙の正しさ。
一つ、表現の現実性としての正しさ―現実的であるか・否か。
一つ一つの語彙には、語彙の意味がある。
それには、辞書に書かれた意味と社会で使われている意味があり得る。
例えば、「ヤバい」という」語彙であるが…
私の年代では「ヤバい―危ない・危険だ(良くない感情)」で「警官に見られたらヤバい…」。
息子の年代では「ヤバい―凄い・非常に(好感)」で「これ!ヤバい!(すごくおいしい)。
語彙の意味は辞書に書かれている。
では、「その語彙の概念は?」というと…
その書かれた意味の現実的な共通性であろう。
例えば「崩れる」なら、
高く盛り上がっていたものがこわれる。 崖が崩れる
整っていたものがこわれる。 姿勢が崩れる。
金が細かくなる。 一万円札がやっと崩れた。
と辞書に書かれている。
これは、
(険しい)崖が崩れて「険しくなくなった」―質が変化した。
(正しく良い)姿勢が崩れて「見た目が悪くなった」―質が変化した。
(一枚の)一万札が崩れて「多くの小銭になった」―質が変化した。
このように捉えるなら、「崩れる」の概念を以下のように捉ことが可能である。
崩れるとは変化である。
変化には、「モノの形の変化」と「モノの質の変化」が考えられる。
色々な形のモノを作れる紙粘土でも、
ある形のままに放置しておくなら固まって(質が崩れて・変化して)形を変える事ができなくなる。
この場合、
形を変えられる状態の紙粘土の形の変化―例えば作った作品が崩れても、また簡単に作り直せる。
しかし、固まってしまい質が変化してしまった紙粘土の完成品が崩れたら接着剤が必要となろう。
技の崩れと変化とは、
「技の崩れ」とは、その技の質の「意図しない」劣化的な変化であり、
「技の変化」とは、その技の形の「意図する」変化・変形である、と考えられる。
この「技の崩れ」と「技の変化」の概念を用いて以下の文面を捉え考えるなら~
>・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
(前略)
例えば次のようなことです。その流派で技に威力を出すために「土台技」というものを訓練したとします。それで突きにしろ蹴りにしろ地面からの反力を活用して威力を出す術を身につけていたところ、闘う相手が「揺さぶり」と称して運足を縦横に使って心理的・肉体的にタイミングなど乱していって、その「土台技」を使わせなかったとしたなら、心身ともに崩されてヘッドアップして体が泳いで突きや蹴りを出したなら、それは「技が崩れた」と言えるのではないかと私は考えます。
「土台技」を働かせるために軸足にしっかり重心を乗せられなかった、という「技の機能が失われた」という意味での「崩れ」であり、その後に基本稽古や型稽古をしたなら再び元に戻ったなら、戻ったからあれは崩れじゃないのだ、なぜなら崩れるとは元に戻らなくなることだから、という理屈にはならないように思います。(後略)<
↑~
その「土台技」の質が、その対手の実力に対して試合で使用可能なレベルではなかった。
言うなれば「質が未熟で技として未完」。それでも異なった相手に使用可能なのかも知れない。
「その後に基本稽古や型稽古をしたなら再び元に戻った…」としても、
それは、単に「形が戻った」のか、それとも「質的な向上があった」のかは、再び、その対手との試合で試してみない事には…
技の「元に戻にも」二通り考えられる。
一つ、元の形を取る事が可能になる。
一つ、劣化した質を元のレベルへ戻した。
以上のように考えるから、
上記のコメントを寄越した「一村隆滝」お宅の
「思考の技」の構造・中身が想像可能であろう。
そもそも…一括りで「技」と言っても技にはレベルがあり得る。
この上記のコメントでは、技のレベルを全く考慮していない。
そもそも試合での闘いは、基本技の形・基本の変化技の使い方…の質が優劣が勝敗を決定するのだろう…
もっとも…「勝負は時の運」とも言われているが…
それでも、幸運の勝利はあり得ても不運の敗北はあり得ない…そうである。
敗れるには、必ず敗れるだけの理由・原因がありえる。
例え、そこに相手の幸運があった…としても、である。
追伸~
この記事のテーマ<「思考の方法」と「思考の技」について~>最後に一言。
「思考の方法」とは言うなれば「思考の型」である。
それを基本として色々な物事について繰り返し思惟・思考する事で、
最終的に基本の型の質を落とす事無く、基本型を自由自在に変形可能になり得たなら、
それが「思考の技」となろうか…