新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「像」で考えるなら~

2022-06-05 11:04:38 | 悟得びと認識論



以下のようなコメントから~



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
算数の計算は何の為~


・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
私がここで思ったのは、自由びとさんが私の「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」だというコメントを読んで新たに書いた記事に
「同じ数字」ということから「では0×0は?」とか「0÷0は?」という方向にいった自由びとさんと「像で考えるのと言葉で考える(文字や数字という記号で考える)のと」という区別なんですよね。

まあ、そんなところなんですけどね。



↑~
私は、上記の記述を読んで思った!
『このお宅は、本当に… 』
『>像で考えるのと言葉で考える(文字や数字という記号で考える)のと」という区別<が…』
『分かっているのだろうか?』と…

そもそも
>「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」<…
この記述自体が像ではなく、
言葉で考えている事に、気付けているのだろうか?

例えば以下のような「像」で考えるなら…

ミカン3個とリンゴ3個、全部で何個? 

式は、  3個+3個=6個   (答え) 6個

これを、同じ数の3だから「3×2=6」で、正しい式と言えるだろうか?



では、ミカン三個とミカン三個、全部で何個? 
これなら、3×2=6で、よいと言えるだろうか?
掛け算で、計算するのは、正しいのだろうか?

掛け算を用いる場合とは、
一袋にミカンが3個、2袋では何個?

これなら
一袋+一袋⇒一袋×2⇒ 3個/袋×2袋=6個  6個~正解であろう。



以上のように…
「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」という事にはならない。
確かに「九九表」は、「1から9までの同じ数の足し算」と言えるだろうが…

掛け算の計算である「九九(表)」と「掛け算の適用場面」とを区別すべき…であろう。
この区別には、現実・場面の像で考える必要があるが…



またコメントの記述である~
>「同じ数字」ということから「では0×0は?」とか「0÷0は?」という方向にいった自由びとさん<

↑これは、間違いである。


算数の授業で黒板に書かれていたのが、
「同じ数の同士の割り算」と「0の入った掛け算」であり~

子供達が、「同じ数の割り算の答え=1」で、
「0の入った掛け算の答え=0」…  と記憶していたので…

「同じ数字」だからではなく、
「0」の特殊性から、0と0の計算を考えた…なら。


「0÷0」と「0×0」なら…子供達ならなんと、答えるだろうか…と、
想像してみたのである。


そもそも…算数の「0」とは?

人が3人で、腕は何本?  2本/人3人=6本
魚が三匹で、腕は何本?  0本/匹×3匹=0本

ミカンが三個入っている袋がない、ミカンは何個ある? 3個/袋×0袋=0




ならば…「0×0」とは?
初めの「0」とは、何もない「0」なら、
後ろの「0」とは、何もないモノが「0」個ある。

何もないモノを数える事は、不能である。
何もいないのに…それが人間(腕二本)か魚(腕0本)か、
どのように判断するのだろうか?

従って…「0×0」も数学的には兎も角…
算数問題・計算としては、可笑しい事になる…のだろう。


「0÷0」とは?

そもそも…a÷0とは、
a個のミカンを0人で分けると何個?

分ける人数が0人という事は、
全く分ける必要がない・分けられない…のに~
「割り算」で計算しようとしている…これは可笑しい!!!


これが、「引き算」で考えるならば、
8÷2⇒

8-2=6
6-2=4
4-2=2
2-2=0

8÷2=4(回)

8÷0=
8-0=8
8-0=8…
……永久に
「8-0」が、「0」になる事はない…

だから…割る数が「0」の割り算は、出来ない(割り算ではない)という事にもなろう。







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