コロナ禍で3年ぶりに開催されたという「柘植の郷を巡るウォークイベント」(5/8開催)。
参加して、歴史や文化・鉄道の事などいっぱい知ることが出来ました。
各所周っても時間に限りがあるので、この日は10ヶ所ほど。
ゆっくり4時間ほどかけて楽しく歩いていましたが、まだまだそんなもんではない!
ということが、下記の資料を読んでいるとわかりますし、
実際現地研修へ行っても頭に入りきらないくらいのお話がごろごろあります。
「柘植の昔ばなし」(柘植地区まちづくり協議会教育文化部会編集)には、
「柘植地区市民センター」にて販売(@1,000/限定品)
「柘植の歴史年表」が載っていて、古代から明治頃までの様子がわかります。
かく歴史は古く、見どころいっぱいなのですが…
1~2年ほど前に何故か、
俄か「『倭姫命』の追っかけ」をしていたことがあります。(過去ログより)
「東大和・西三重観光冊子」を見たことがきっかけで、
「伊賀の『元伊勢伝説地』」を知りたいとの思いで、
深くも知らず出掛けけていたものです。
2021/1/19の「都美恵神社」訪問記。
下の写真は、ごく最近の様子から
「都美恵神社全景」と「拝殿」、
「神宮遥拝所」と参道から「旧大和街道」を望む。
そして、2021/1/20の「史蹟:雨龍(ウリュウ)神社跡」です。
柘植地区にも『斎王群行』が通り、
選ばれし斎王たちの『頓宮(トングウ=宿泊所)』があったとのこと。
その場所が「斎宮芝(サイカシバ)跡」として今も残っているとのことです、
この場所は流石に地図にも載っていないのでさっぱりわかりません。
今回(2022/5/14)、嬉しいことに教えていただける機会に恵まれたので、
忘れないうちに…
柘植地区の「浄化センター」(瓦屋根デス)があります、そこの前を通って
「柘植川/白橋」を渡る、ここは上村地区になります。
田園風景を眺めつつ、振り返ると素晴らしい「霊山」の姿。
午後になってやっと晴れてきたので嬉しかった
いよいよ、着きました…
では、配布資料を参考に~~
【斎宮芝跡】は、伊賀市柘植地区に残る斎王が伊勢神宮に向かう時の宿泊所。
「斎王」とは国の安全と平和を祈願するため、京の都から伊勢神宮に派遣され、
天皇の名代として神に仕えた人のことで、「斎王」には、皇女や皇族の未婚の女性から選ばれました。
「斎王制度」は、天武2年(674)、壬申(ジンシン)の乱に勝利した(大海人皇子=)天武天皇が、
勝利を祈願した天照大神(アマテラスオオミカミ)に感謝し、大来皇女(オオクノヒメミコ)を神に仕える御杖代(ミツエシロ)として
伊勢に遣わしたことに始まります。
「斎王」に選ばれると、都で2年間精進禊(ミソギ)をし、3年目に伊勢の斎宮に向けて5泊6日の旅をします。
この斎宮芝は平安京遷都(794年)から鈴鹿峠開通(886年)までの92年間、
斎王群行の重要な役割を果たしていました。
その間、「九人の斎王」が任にあたったとあり、一人が約十年務めたことになります。
京の都での「別れのお櫛」の後、斎王群行の3日目、勢多頓宮、甲賀頓宮の宿泊をへて、
伊賀に入り柘植で300名を越える群行を迎えました。
その道中で泊まられる所を、「頓宮(トングウ)」といいます。
群行の都度、仮宮として設けられました。
柘植川と倉部川の合流地点近くに古来より「斎宮芝」というこの場所が頓宮場所とされています。
看板にはこの斎宮芝で宿泊した道程は赤く描かれています。
役目を果たした斎宮の復路は全て②の道で一志から西に向かい青山地区を通り、
大和地区を経て山城国岡田賀茂(木津川)などで禊を済ませてから京に帰ったそうです。
という、選ばれた人とはいえ、華やかそうに見えても、
ちょっと悲哀のこもった群行ではなかったのかと勝手な想像をしてしまいます…
参考までに、柘植川と倉部川です。
ではまた
参加して、歴史や文化・鉄道の事などいっぱい知ることが出来ました。
各所周っても時間に限りがあるので、この日は10ヶ所ほど。
ゆっくり4時間ほどかけて楽しく歩いていましたが、まだまだそんなもんではない!
ということが、下記の資料を読んでいるとわかりますし、
実際現地研修へ行っても頭に入りきらないくらいのお話がごろごろあります。
「柘植の昔ばなし」(柘植地区まちづくり協議会教育文化部会編集)には、
「柘植地区市民センター」にて販売(@1,000/限定品)
「柘植の歴史年表」が載っていて、古代から明治頃までの様子がわかります。
かく歴史は古く、見どころいっぱいなのですが…
1~2年ほど前に何故か、
俄か「『倭姫命』の追っかけ」をしていたことがあります。(過去ログより)
「東大和・西三重観光冊子」を見たことがきっかけで、
「伊賀の『元伊勢伝説地』」を知りたいとの思いで、
深くも知らず出掛けけていたものです。
2021/1/19の「都美恵神社」訪問記。
下の写真は、ごく最近の様子から
「都美恵神社全景」と「拝殿」、
「神宮遥拝所」と参道から「旧大和街道」を望む。
そして、2021/1/20の「史蹟:雨龍(ウリュウ)神社跡」です。
柘植地区にも『斎王群行』が通り、
選ばれし斎王たちの『頓宮(トングウ=宿泊所)』があったとのこと。
その場所が「斎宮芝(サイカシバ)跡」として今も残っているとのことです、
この場所は流石に地図にも載っていないのでさっぱりわかりません。
今回(2022/5/14)、嬉しいことに教えていただける機会に恵まれたので、
忘れないうちに…
柘植地区の「浄化センター」(瓦屋根デス)があります、そこの前を通って
「柘植川/白橋」を渡る、ここは上村地区になります。
田園風景を眺めつつ、振り返ると素晴らしい「霊山」の姿。
午後になってやっと晴れてきたので嬉しかった
いよいよ、着きました…
では、配布資料を参考に~~
【斎宮芝跡】は、伊賀市柘植地区に残る斎王が伊勢神宮に向かう時の宿泊所。
「斎王」とは国の安全と平和を祈願するため、京の都から伊勢神宮に派遣され、
天皇の名代として神に仕えた人のことで、「斎王」には、皇女や皇族の未婚の女性から選ばれました。
「斎王制度」は、天武2年(674)、壬申(ジンシン)の乱に勝利した(大海人皇子=)天武天皇が、
勝利を祈願した天照大神(アマテラスオオミカミ)に感謝し、大来皇女(オオクノヒメミコ)を神に仕える御杖代(ミツエシロ)として
伊勢に遣わしたことに始まります。
「斎王」に選ばれると、都で2年間精進禊(ミソギ)をし、3年目に伊勢の斎宮に向けて5泊6日の旅をします。
この斎宮芝は平安京遷都(794年)から鈴鹿峠開通(886年)までの92年間、
斎王群行の重要な役割を果たしていました。
その間、「九人の斎王」が任にあたったとあり、一人が約十年務めたことになります。
京の都での「別れのお櫛」の後、斎王群行の3日目、勢多頓宮、甲賀頓宮の宿泊をへて、
伊賀に入り柘植で300名を越える群行を迎えました。
その道中で泊まられる所を、「頓宮(トングウ)」といいます。
群行の都度、仮宮として設けられました。
柘植川と倉部川の合流地点近くに古来より「斎宮芝」というこの場所が頓宮場所とされています。
看板にはこの斎宮芝で宿泊した道程は赤く描かれています。
役目を果たした斎宮の復路は全て②の道で一志から西に向かい青山地区を通り、
大和地区を経て山城国岡田賀茂(木津川)などで禊を済ませてから京に帰ったそうです。
という、選ばれた人とはいえ、華やかそうに見えても、
ちょっと悲哀のこもった群行ではなかったのかと勝手な想像をしてしまいます…
参考までに、柘植川と倉部川です。
ではまた
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます