ここは、俳聖殿南側の入り口の門。
(昔blogで、山門と書いていた自分が恥ずかしい限りです )
↑ (左:2021/11/17)&(右:2022/6/7撮影)
↑ 見上げた屋根にツララまだ残る…(2023/2/4撮影)
語り部Mさんによる楽しい説明は続きます。
以下、メモ書きです、あしからず…
*苔生す屋根は茅葺入母屋造りの『薬居門』(ヤクイモン)形式。
こんな感じの門です。
屋根の中心が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)でなく、やや前方にあります。
*天井の梁などに「檜」、柱には「翌檜(アスナロ)」を使っています。
*門から見て左側の茶室「偲翁舎(シオウシャ)」が老朽化した折に、
俳聖殿の屋根の葺き替えと同時に修理がされている、とのこと。
※草庵四阿風(ソウアンシアフウ)の簡易薬居門ともいわれます。
四阿風=東屋ともいうそうです、まさに侘びさび
門をくぐって中へ、伊賀の人なら誰もが知っている、
子どももよく知っている我が愛しの「俳聖殿」ですが、
意外と眺めてる…だけの人は多いかも。
四季折々の自然との調和が素晴らしい建物なんです、
しかも「国指定重要文化財」(平成22年(2010)12月24日指定)ですね。
そして、隠れた裏話もあるんです。
では、解説に耳を傾けましょう~~
↓ こんな風に写真付きの説明なのでとても分かりやすいのです
*松尾芭蕉生誕300年を記念する建物です。
*昭和17年(1942)に竣工されましたが、
工期は、太平洋戦争開戦を挟み軍事色一辺倒の時代。
よくぞ、素晴らしい文化的建物を建てていただけたと…感謝です。
*外観は、当時衆議院議員を務めていた川崎克氏の着想を元に、
設計指導は東京帝国大学名誉教授の伊東忠太博士による。
*この独特の形、下層八角形平面、
上層円形平面の木造建築であり、屋根は総桧皮葺です。
金釘は一切使わず、すべて「竹釘」。
さぁ、ここで何故こういう特殊な建物に思い至ったか…
*川崎克氏が昭和12年中国北京旅行の際、『天壇公園』へ、
そこで『祈念殿』を見学して感銘を受け、
この時、俳聖殿の原型を思いついたそうです。
例えばの写真ですが、
(上部でご紹介の写真では見にくいので探してきました…)
①芭蕉さんの旅笠(俳聖殿上層部の屋根部分)
②祈念殿(重層式になる部分のイメージか)
③夢殿(下層の八角形部分)
④上の3つの合同イメージで建てられた「俳聖殿」
*上層の屋根が旅笠、白い壁の部分はお顔、下層のひさしは蓑と旅による汚れた衣姿、
堂は脚部分、回廊の柱は杖と脚を表していますが、そこで問題!
八本の柱は「1本は杖、2本は芭蕉さんの脚、さて後の5本は??」
皆さん、いろいろ考えますが、とある先輩に伺った話では、
芭蕉さんも疲れたときは馬にも乗ったかも、
((馬に乗る芭蕉さん&祈念殿の内部柱))
杖も予備がいるでしょう…
なんと、これで5本!嘘みたいなホントの話かどうかは別にして、
そうであれば旅も楽し、と思うことにいたしましょう~~
屋根を「檜皮葺」「総檜造り」にしたのにもわけがある!とのこと。
川崎克氏のお言葉に(『芭蕉は生きている』川崎克著より)
「『月日は百代の過客』である限り芭蕉も永遠の旅の続行であらねばならぬ。
この気持ちを以て考えた俳聖殿は、その建築芸術表現せねばならぬ。
『旅人と建築』これをひとつのものにしなければならぬ」。
ご自分で「芭蕉の旅姿の下絵」を何度も書いておられたとか。
「柱」は檜を削って赤みの柱に仕立て、風雨にめげず千年持つように、
「瓦」屋根にすると神社仏閣に見えてしまう、「檜皮」なら感じ柔らかく、
純日本式にみえる等々工夫は至る所に表現されています。
瓦や銅板葺きにした場合と比べると一目瞭然、
柔らかさ、侘びさび、落ち着きなど日本建築の粋を集めた建物であると感じ入ります。
国指定文化財データベースでは
『俳聖殿は、他に例を見ない構成をもつ、大規模な記念建造物であり、
伝統建築を基礎にしながら、自由な意匠を取り入れた独創的な造形になる
近代和風建築として、価値が高い』と。
八角堂内には
(伊賀上野観光協会HPより)
川崎克氏自らの窯で焼き上げた伊賀焼の芭蕉座像。
これは10月12日の「芭蕉祭」の時のみ公開されます。
「この祭の日には、献茶、献花、献菓もあり、
今日(2/4)の現地研修の皆さんに見ていただこうとお菓子を持ってきましたよ」と。
「伊賀上野城下町には和菓子屋さんが多く、それぞれのお店で
工夫された『芭蕉さんにまつわるお菓子』があります、
それを訪ねて街歩きされるのもいいですよ」とも。
最後は「城下町の街歩き」=「芭蕉も歩いた城下町」。
こんな閉め方をされて嬉しい限りでした。
まだまだ奥が深く書ききれないことは山のごとく、
今回の芭蕉さん現地研修もまだまだプロローグ。
ワタシもまだまだ未熟なことしか書けませんが、
何十年この伊賀上野という場所に住んでいても知らないことは多い。
がんばらないと。。。
ではまた
(昔blogで、山門と書いていた自分が恥ずかしい限りです )
↑ (左:2021/11/17)&(右:2022/6/7撮影)
↑ 見上げた屋根にツララまだ残る…(2023/2/4撮影)
語り部Mさんによる楽しい説明は続きます。
以下、メモ書きです、あしからず…
*苔生す屋根は茅葺入母屋造りの『薬居門』(ヤクイモン)形式。
こんな感じの門です。
屋根の中心が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)でなく、やや前方にあります。
*天井の梁などに「檜」、柱には「翌檜(アスナロ)」を使っています。
*門から見て左側の茶室「偲翁舎(シオウシャ)」が老朽化した折に、
俳聖殿の屋根の葺き替えと同時に修理がされている、とのこと。
※草庵四阿風(ソウアンシアフウ)の簡易薬居門ともいわれます。
四阿風=東屋ともいうそうです、まさに侘びさび
門をくぐって中へ、伊賀の人なら誰もが知っている、
子どももよく知っている我が愛しの「俳聖殿」ですが、
意外と眺めてる…だけの人は多いかも。
四季折々の自然との調和が素晴らしい建物なんです、
しかも「国指定重要文化財」(平成22年(2010)12月24日指定)ですね。
そして、隠れた裏話もあるんです。
では、解説に耳を傾けましょう~~
↓ こんな風に写真付きの説明なのでとても分かりやすいのです
*松尾芭蕉生誕300年を記念する建物です。
*昭和17年(1942)に竣工されましたが、
工期は、太平洋戦争開戦を挟み軍事色一辺倒の時代。
よくぞ、素晴らしい文化的建物を建てていただけたと…感謝です。
*外観は、当時衆議院議員を務めていた川崎克氏の着想を元に、
設計指導は東京帝国大学名誉教授の伊東忠太博士による。
*この独特の形、下層八角形平面、
上層円形平面の木造建築であり、屋根は総桧皮葺です。
金釘は一切使わず、すべて「竹釘」。
さぁ、ここで何故こういう特殊な建物に思い至ったか…
*川崎克氏が昭和12年中国北京旅行の際、『天壇公園』へ、
そこで『祈念殿』を見学して感銘を受け、
この時、俳聖殿の原型を思いついたそうです。
例えばの写真ですが、
(上部でご紹介の写真では見にくいので探してきました…)
①芭蕉さんの旅笠(俳聖殿上層部の屋根部分)
②祈念殿(重層式になる部分のイメージか)
③夢殿(下層の八角形部分)
④上の3つの合同イメージで建てられた「俳聖殿」
*上層の屋根が旅笠、白い壁の部分はお顔、下層のひさしは蓑と旅による汚れた衣姿、
堂は脚部分、回廊の柱は杖と脚を表していますが、そこで問題!
八本の柱は「1本は杖、2本は芭蕉さんの脚、さて後の5本は??」
皆さん、いろいろ考えますが、とある先輩に伺った話では、
芭蕉さんも疲れたときは馬にも乗ったかも、
((馬に乗る芭蕉さん&祈念殿の内部柱))
杖も予備がいるでしょう…
なんと、これで5本!嘘みたいなホントの話かどうかは別にして、
そうであれば旅も楽し、と思うことにいたしましょう~~
屋根を「檜皮葺」「総檜造り」にしたのにもわけがある!とのこと。
川崎克氏のお言葉に(『芭蕉は生きている』川崎克著より)
「『月日は百代の過客』である限り芭蕉も永遠の旅の続行であらねばならぬ。
この気持ちを以て考えた俳聖殿は、その建築芸術表現せねばならぬ。
『旅人と建築』これをひとつのものにしなければならぬ」。
ご自分で「芭蕉の旅姿の下絵」を何度も書いておられたとか。
「柱」は檜を削って赤みの柱に仕立て、風雨にめげず千年持つように、
「瓦」屋根にすると神社仏閣に見えてしまう、「檜皮」なら感じ柔らかく、
純日本式にみえる等々工夫は至る所に表現されています。
瓦や銅板葺きにした場合と比べると一目瞭然、
柔らかさ、侘びさび、落ち着きなど日本建築の粋を集めた建物であると感じ入ります。
国指定文化財データベースでは
『俳聖殿は、他に例を見ない構成をもつ、大規模な記念建造物であり、
伝統建築を基礎にしながら、自由な意匠を取り入れた独創的な造形になる
近代和風建築として、価値が高い』と。
八角堂内には
(伊賀上野観光協会HPより)
川崎克氏自らの窯で焼き上げた伊賀焼の芭蕉座像。
これは10月12日の「芭蕉祭」の時のみ公開されます。
「この祭の日には、献茶、献花、献菓もあり、
今日(2/4)の現地研修の皆さんに見ていただこうとお菓子を持ってきましたよ」と。
「伊賀上野城下町には和菓子屋さんが多く、それぞれのお店で
工夫された『芭蕉さんにまつわるお菓子』があります、
それを訪ねて街歩きされるのもいいですよ」とも。
最後は「城下町の街歩き」=「芭蕉も歩いた城下町」。
こんな閉め方をされて嬉しい限りでした。
まだまだ奥が深く書ききれないことは山のごとく、
今回の芭蕉さん現地研修もまだまだプロローグ。
ワタシもまだまだ未熟なことしか書けませんが、
何十年この伊賀上野という場所に住んでいても知らないことは多い。
がんばらないと。。。
ではまた
俳聖殿の着想の源流が中国の建物にあったとは驚きです。今まで純粋に日本の建物だと思っていました。それほど今ある土地に合致しているということでしょう。
こうした特徴的な建築物が街中にあったら観光客にもアピールするのになと思います。
ハイトピア伊賀の横のトイレを作る際、兵庫県豊岡市出石にある時計台のような観光客が写真を撮りたくなるランドマークにしてもらえばよかったですのにね。
15年前にまちづくりの研修で出石に行ってました。
その時にこの時計台見ていたこと、雪の中の町歩きだったけど、みなさんすごく頑張っている様子でした。
もう一度(自分のblogですけど)読み直して何かのヒントを探そうと思います。
余談になりますが、先般ご近所のむらいさん(萬香園の)が道後温泉へ行かれて、時計台の定時のからくりを終わるまで見ていたそうです。
奇しくもdawnさんと同じようなことをおっしゃってました「伊賀にも城下町に似合う時計台があればいいのになぁ…」と。
ぼちぼちミュージックサイレンも経年劣化(部品調達など不可能らしい)で鳴らなくなる日が来そうな予感がします。
寂しいですがそうなってしまった折には、ぜひ城下町に似合う「時計台」なんかを造っていただきたいですね。四十九でなくお城付近にでも…
dawnさん、いつも気付きをありがとうございます。ではまた
俳聖殿は小学校の遠足で行ったことがあるものの、芭蕉さんの生家には行ったこと
がなく、丸之内通りの北側あるのを今頃になって知りました。故郷塚あたりが生家
だと思っていました。蓑虫庵にも行ったことがなく、何処にあるのか?でした。
終戦直後の国土地理院の空中写真を見ますと、丸之内通りは大和街道に突き当たる
丁字路になっていて。町屋を挟んで、その向こうの通りの西側に生家があって、大和
街道が逆くの字で降りて、新大和街道が接続していたことが分かりました。というこ
とは、丸之内通りを東に延伸する際、芭蕉さんの生家はギリで立ち退きせずに済ん
で、丸之内通りに面する土壁の塀はその時に出来たのでしょうか?。
終戦直後の略図 大和街道 新大和街道
* /
>-+
: 三田清 + +
: +***+-- :
: *生家★: :
丸之内通=++---+ +---+--
: * : 故郷|
: : 井本* : ☆塚|
上野: : 薬局* : |
天神+***+***+***+***++*伊賀街道
**+いせや: : 金 : 農人町:
: : : 谷 : 局:
「幾度か直しているかもしれんけど、ずっと土塀だったような気がする」とのこと。
「生家」といえども、純粋にそこが、、、とは言えないかもしれません、伝説はいろいろ作られることもあるので。
戦災にも合わずに残った城下町なので、芭蕉さんもあの道、この道、当時のメインストリートだった伊賀街道、大和街道等々絶対に歩いてますよね、なんか同じ空気を吸ってるのかなぁって思ったりします。
moni5187さま、コメント並びに文字絵図ありがとうございます、雰囲気がとってもよくわかります。