前回「その2」の続きですが、
「鳴鹿坂」の続きを少し…
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「鳴鹿坂」、竹藪沿いに下ると湧き水の排水路に出ますが、
実際に水が流れているところを見たことがなかったのでその確認に、再び。
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ココ平野樋之口と平野見能の丁度境の水路です。
北側の上野台地からの湧き水と東から流れてくる水が合流するところ。
やがてこの水は木津川へ行くのでしょう。
もう一度鳴鹿坂を上って見上げると
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上野台地はかなり高いと見えました…
さて、実際に「江戸時代の古地図」を頼りに歩いてみて、
興味深かったのですが、現在の道と古地図の道がなかなか結び付かず苦労しました💦
ざっとおさらいをすれば
「上野五坂の一つである鳴鹿坂」から下屋敷の道を通り、
「旧さまざま園」※(=旧藤堂新七郎家)前通過(現在、管理はあまりされていないようでちょっと荒れた感じ)
※花見に招かれた芭蕉さんが「さまざまの 事思ひ出す 桜かな」の句を詠んだところ。
表門
その屋敷の横の細い路地道を東へ行くと「末光神社」、「侍屋敷」があります。
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江戸時代末期から明治頃に建てられた建物。
藤堂新七郎下屋敷の一部か家臣の長屋であったそうです。
通るときは静かに通りましょう、お稲荷さんへのお参りも忘れずに。
料理旅館「三田清」の前の道をそのまま東へ行くと「道標」。
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(撮影は北側から、奥に「芭蕉生家」が見えます)
この道標には
≪左 東海道せき道
右 なら者(は)せ山上道≫
南側に≪文政6年季 癸未夏五初吉≫
1823年、季は雨季(梅雨時期)のこと。みずのとひつじ 夏5月初旬吉日、でしょうか。
参考古地図⤵
古地図(秘蔵の国:上野城下町図より)
帰ってから何日も古地図とgoogle地図とを見比べていたのですが、
万が一間違っていたらごめんなさい、自分なりにメモッた古地図(福井健二氏著「上野城と城下町」より)。
さて?
いよいよ今回の二つ目の上野城下町の遺跡です。
聞くところによると平成24年(2012)度の国道25号拡張工事の際に発掘調査が行われたとのこと。
北から坂を上る部分を広くしてもらえたところですね。
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当時の『上野城下町農人町遺跡』現地説明会資料一部です。
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概略
≪上野盆地のほぼ中央の台地上に位置する遺跡。
天正13年(1585)に筒井定次が領主となり、伊賀上野に城を築く。
その後、藤堂高虎が伊賀上野城を大改修して城下町を整備。現在に至る。
江戸時代後期から幕末期の遺構や溝が確認され、当時の土器や銭貨(寛永通宝)が出土。
古墳時代の円筒埴輪も少数出土。
ここ農人町でも古い絵地図からココは侍屋敷(※箕浦藤兵衛など)であったことがわかっている。≫
≪古墳が2基見つかり(※資料作成後3基目が発見されたそうです)、
上野城下町がつくられる以前のこの台地には古墳がたくさん築かれていた
可能性があることがわかり大きな成果であった。
北側の柘植川・服部川、南側の久米川、西側の木津川に囲まれたこの台地は、
城郭とその城下町だけではなく、古来より盆地を見渡せる好条件の地であったことは明らか。
遠い昔の景色やそれを見つめた太古の人々の思いに触れるチャンスになれば≫とのこと。
今回の現地研修の大方の目的は達したのですが、
実はまだ前編みたいなもので、この後「城下町の東側」をあちこち歩きました。
また追々に書ければいいなぁと思っているところ…
ではまたいずれ。
追記:「三重県埋蔵文化センター/過去の発掘情報」。
「鳴鹿坂」の続きを少し…
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「鳴鹿坂」、竹藪沿いに下ると湧き水の排水路に出ますが、
実際に水が流れているところを見たことがなかったのでその確認に、再び。
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ココ平野樋之口と平野見能の丁度境の水路です。
北側の上野台地からの湧き水と東から流れてくる水が合流するところ。
やがてこの水は木津川へ行くのでしょう。
もう一度鳴鹿坂を上って見上げると
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上野台地はかなり高いと見えました…
さて、実際に「江戸時代の古地図」を頼りに歩いてみて、
興味深かったのですが、現在の道と古地図の道がなかなか結び付かず苦労しました💦
ざっとおさらいをすれば
「上野五坂の一つである鳴鹿坂」から下屋敷の道を通り、
「旧さまざま園」※(=旧藤堂新七郎家)前通過(現在、管理はあまりされていないようでちょっと荒れた感じ)
※花見に招かれた芭蕉さんが「さまざまの 事思ひ出す 桜かな」の句を詠んだところ。

その屋敷の横の細い路地道を東へ行くと「末光神社」、「侍屋敷」があります。
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江戸時代末期から明治頃に建てられた建物。
藤堂新七郎下屋敷の一部か家臣の長屋であったそうです。
通るときは静かに通りましょう、お稲荷さんへのお参りも忘れずに。
料理旅館「三田清」の前の道をそのまま東へ行くと「道標」。
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(撮影は北側から、奥に「芭蕉生家」が見えます)
この道標には
≪左 東海道せき道
右 なら者(は)せ山上道≫
南側に≪文政6年季 癸未夏五初吉≫
1823年、季は雨季(梅雨時期)のこと。みずのとひつじ 夏5月初旬吉日、でしょうか。
参考古地図⤵
古地図(秘蔵の国:上野城下町図より)
帰ってから何日も古地図とgoogle地図とを見比べていたのですが、
万が一間違っていたらごめんなさい、自分なりにメモッた古地図(福井健二氏著「上野城と城下町」より)。
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いよいよ今回の二つ目の上野城下町の遺跡です。
聞くところによると平成24年(2012)度の国道25号拡張工事の際に発掘調査が行われたとのこと。
北から坂を上る部分を広くしてもらえたところですね。
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当時の『上野城下町農人町遺跡』現地説明会資料一部です。
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概略
≪上野盆地のほぼ中央の台地上に位置する遺跡。
天正13年(1585)に筒井定次が領主となり、伊賀上野に城を築く。
その後、藤堂高虎が伊賀上野城を大改修して城下町を整備。現在に至る。
江戸時代後期から幕末期の遺構や溝が確認され、当時の土器や銭貨(寛永通宝)が出土。
古墳時代の円筒埴輪も少数出土。
ここ農人町でも古い絵地図からココは侍屋敷(※箕浦藤兵衛など)であったことがわかっている。≫
≪古墳が2基見つかり(※資料作成後3基目が発見されたそうです)、
上野城下町がつくられる以前のこの台地には古墳がたくさん築かれていた
可能性があることがわかり大きな成果であった。
北側の柘植川・服部川、南側の久米川、西側の木津川に囲まれたこの台地は、
城郭とその城下町だけではなく、古来より盆地を見渡せる好条件の地であったことは明らか。
遠い昔の景色やそれを見つめた太古の人々の思いに触れるチャンスになれば≫とのこと。
今回の現地研修の大方の目的は達したのですが、
実はまだ前編みたいなもので、この後「城下町の東側」をあちこち歩きました。
また追々に書ければいいなぁと思っているところ…
ではまたいずれ。
追記:「三重県埋蔵文化センター/過去の発掘情報」。
第6次は2016年ごろビルの2棟の解体後、さまざま広場の工事着工前の2017年にかけて行われ、
第5次は記事でご紹介いただいた、2012年からの農人町交差点の北詰拡幅工事に伴う調査のようです。
第1~4次は東ノ竪町筋拡幅工事に伴う発掘調査で2000、'01、'03、'05年に行われたようで、以下URL参照。
奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」>20951_1_上野城下町遺跡発掘調査報告.pdf
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/20951
ネットではめったに見れない、20世紀最後の年から21世紀初頭の銀座通りと工事中の様子ありです。
現在のカタチになったのが西側を後退させた「平成の拡幅」だとすると、
「昭和の拡幅」が何度もあったと、町の子から聞いたことがあります。その時はどうだったのでしょう。
史料等があればよろしくお願いします。
拙く報告させていただいております。
が、「昭和の拡幅」となると「昭和の写真集」でも見ないとダメかもしれませんね💦ちょっとお金がかかりそうなので図書館で調べるしかないかなぁ…と思ったり。
散歩してないで図書館通いでもしようかな(笑)。
第1次~4次の報告書は長いので掲載やめましたけど、moni5187様のコメントでしっかり読めます。
ありがとうございます。