工事にかかわられた皆さんの苦労がしのばれる、
卒業生としては、ここもあそこも在学中はじっくり見てなかったなぁ と。
今更ながら、いいところに居させてもらった青春時代だと。
第23回卒業生の同窓会の話は「入学後、半世紀」経ち、
「卒業して50年」になり、もうみんな「古希」になってしまう。
そんな再々延長に振り回されていますが、皆さんに会うまでにこの校舎は見事に蘇りました、
懐かしさと感謝の気持ちで見学させてもらってました。
その「たからもの」のご報告です…
nikkei.comから「明治の木造校舎、耐震化で後世へ」。
≪三重県教育委員会は木造で県の有形文化財、県立上野高校(伊賀市)の明治校舎の耐震工事をこのほど完了した。
1900年(明治33年)に旧制県第三中学校の校舎として完成、
全国でも今も残る旧制中学の木造校舎は珍しく伝統建築を後世に残す。
明治校舎は平屋建てで延べ床面積約969㎡、改修には約4億2千万円をかけた。
和風建築の入り母屋屋根に、洋風の玄関や窓が取り入れられているのが特徴だ。
三重県は1989年に県の有形文化財に指定している。
博物館明治村(愛知県犬山市)に移築されている国の重要文化財、旧三重県庁舎を
手がけた清水義八が設計した。作家の横光利一、書家の榊莫山が青春期を過ごした。
今後も校内活動に生かすとともに、市民の交流の場としても使う予定だ。≫
では、懐かしの【正門】から~
(左)2022/12/28撮影時は門扉全閉、
(右)2023/1/21には正門から入場可でした。
説明によると『門柱』は折れかけており、しかも基礎が1mくらいと長かったとか、
想定外のことだったらしく、元に戻すのにいろいろ工夫をされたとか、
おかげさまで見事修復され、正門復活劇場です。
(左)同窓生の皆さんは、この門から月ケ瀬マラソンに出発しましたねぇ…
昭和46年(1971)2月4日のこと、懐かしの出発風景です。
(右)卒業アルバム用では、4組だけこの「明治校舎正面」で撮りました。
10時から16時までの見学時間のうち、ワタシが参加したのは正午過ぎ、
お昼時にもかかわらず実に多くの見学者がいました。
おそらく卒業生の方々が多かったかもしれませんが、
三重県指定有形文化財でもあり、
県内では唯一残っている旧制中学校のひとつ。
残っていてくれてありがとう、と先ず思いました。
では【玄関】に迫ります~
一緒に見学していた「語り部」Mさんに教えられた情報では、
『玄関はビザンチン様式。入母屋造屋根。
両脇に三本ずつ変形トスカーナ式のエンタシス(※)の円柱』
※エンタシス=上部にかけて徐々に細くなる。
もう少し細かく『玄関の「円柱」や「天井」』など~
玄関の天井は『透かし菱目張り』というそうです。
三本の円柱、
アーチ状の柱間の装飾は、『唐草と若菜の彫刻で瓔珞(ヨウラク※)飾り』
※瓔珞=仏壇飾りによく用いられる。
両端には『若葉の持ち送り(※)』
※持ち送り=壁や柱より外側に出た桁を支える板状部材。
塗り替えられたもの
以前のものは、見るも悲しい姿でしたが…(リンクは写真)
もう一度外から全体を見上げてみると、
西洋風でありつつ、入母屋造りの屋根を持つ、
そこに象徴的な「鬼瓦」と「鬼瓦原寸図」。
今ここにあるのは「新調」されたもので、
元の鬼瓦は校舎東側下の地面に埋めてある、とのことでした。
「鬼瓦」は「三州瓦」だと以前の見学会で聞きました。
リンクは「解体された瓦の数々の写真」ですが、
決して捨てられるのではなく、利活用されているとのこと。
今度、修理修復されるかもしれない時、
「おっ、こんなものが出てきた!」って驚かれるのかもしれませんね。
ワタシたちが、今驚いているように…
では、内部潜入いたしますが、そこは後編で~~
卒業生としては、ここもあそこも在学中はじっくり見てなかったなぁ と。
今更ながら、いいところに居させてもらった青春時代だと。
第23回卒業生の同窓会の話は「入学後、半世紀」経ち、
「卒業して50年」になり、もうみんな「古希」になってしまう。
そんな再々延長に振り回されていますが、皆さんに会うまでにこの校舎は見事に蘇りました、
懐かしさと感謝の気持ちで見学させてもらってました。
その「たからもの」のご報告です…
nikkei.comから「明治の木造校舎、耐震化で後世へ」。
≪三重県教育委員会は木造で県の有形文化財、県立上野高校(伊賀市)の明治校舎の耐震工事をこのほど完了した。
1900年(明治33年)に旧制県第三中学校の校舎として完成、
全国でも今も残る旧制中学の木造校舎は珍しく伝統建築を後世に残す。
明治校舎は平屋建てで延べ床面積約969㎡、改修には約4億2千万円をかけた。
和風建築の入り母屋屋根に、洋風の玄関や窓が取り入れられているのが特徴だ。
三重県は1989年に県の有形文化財に指定している。
博物館明治村(愛知県犬山市)に移築されている国の重要文化財、旧三重県庁舎を
手がけた清水義八が設計した。作家の横光利一、書家の榊莫山が青春期を過ごした。
今後も校内活動に生かすとともに、市民の交流の場としても使う予定だ。≫
では、懐かしの【正門】から~
(左)2022/12/28撮影時は門扉全閉、
(右)2023/1/21には正門から入場可でした。
説明によると『門柱』は折れかけており、しかも基礎が1mくらいと長かったとか、
想定外のことだったらしく、元に戻すのにいろいろ工夫をされたとか、
おかげさまで見事修復され、正門復活劇場です。
(左)同窓生の皆さんは、この門から月ケ瀬マラソンに出発しましたねぇ…
昭和46年(1971)2月4日のこと、懐かしの出発風景です。
(右)卒業アルバム用では、4組だけこの「明治校舎正面」で撮りました。
10時から16時までの見学時間のうち、ワタシが参加したのは正午過ぎ、
お昼時にもかかわらず実に多くの見学者がいました。
おそらく卒業生の方々が多かったかもしれませんが、
三重県指定有形文化財でもあり、
県内では唯一残っている旧制中学校のひとつ。
残っていてくれてありがとう、と先ず思いました。
では【玄関】に迫ります~
一緒に見学していた「語り部」Mさんに教えられた情報では、
『玄関はビザンチン様式。入母屋造屋根。
両脇に三本ずつ変形トスカーナ式のエンタシス(※)の円柱』
※エンタシス=上部にかけて徐々に細くなる。
もう少し細かく『玄関の「円柱」や「天井」』など~
玄関の天井は『透かし菱目張り』というそうです。
三本の円柱、
アーチ状の柱間の装飾は、『唐草と若菜の彫刻で瓔珞(ヨウラク※)飾り』
※瓔珞=仏壇飾りによく用いられる。
両端には『若葉の持ち送り(※)』
※持ち送り=壁や柱より外側に出た桁を支える板状部材。
塗り替えられたもの
以前のものは、見るも悲しい姿でしたが…(リンクは写真)
もう一度外から全体を見上げてみると、
西洋風でありつつ、入母屋造りの屋根を持つ、
そこに象徴的な「鬼瓦」と「鬼瓦原寸図」。
今ここにあるのは「新調」されたもので、
元の鬼瓦は校舎東側下の地面に埋めてある、とのことでした。
「鬼瓦」は「三州瓦」だと以前の見学会で聞きました。
リンクは「解体された瓦の数々の写真」ですが、
決して捨てられるのではなく、利活用されているとのこと。
今度、修理修復されるかもしれない時、
「おっ、こんなものが出てきた!」って驚かれるのかもしれませんね。
ワタシたちが、今驚いているように…
では、内部潜入いたしますが、そこは後編で~~
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