「おまえらの、センス見せようとしてるところが、腹立つわー」
先日、ケータイにそんなメッセージが届いてきた。
差出人は友人イチオカ君で、
「有名人に、あんなからみ方したら、アカンでマジで」
なんでも、こないだ私が若いころ、お笑い芸人のぜんじろうさんにヤカラを入れたことに憤っているようのだ。
怒っている友には申し訳ないが、それは誤読というものである。
たしかに私は友人と酔って、ぜんじろうさんにからみはしたが、すでに反省しているし、相手方にも
「アナタが寛容な心をもって、どうしてもわれわれのことを許したいと切望するなら、それを受け入れるにやぶさかではないが、いかがかな?」
心の広いところを見せているのだ。
それを理解せずキレるなど、サムネやネットニュースの見出しだけ見てアンチコメントを書く、そそっかしい連中と同じではないか。
そう友を諭すと、
「いや、ぜんじろうなんか、どうでもええねん」
われわれと変わらぬ、豪快に失礼な返事が返ってきたうえで、
「それより、おまえらが、ヤカラの中にセンスを見せようとしてるところが、もうムカついてムカついて!」
さすがは友人。イチオカ君は実にいいところを見ている。
こないだの記事について、私は自分の恥をさらしたつもりだが、実はそこにかくし味として、もうひとつの「恥ずかし反省ポイント」が忍ばせてあるのだ。
整理すると、大学生のころだから、今からウン十年前の1990年代後半くらい。
大阪の繁華街である難波で、朝まで呑んでいた私と友人一同は、そこで当時『テレビのツボ』という深夜番組で大ブレイクしていた、ぜんじろうさんを見かける。
そこですかさず、われわれ泥酔ボンクラ学生は、
「おい、ラッキーぜんじろう!」
「ABCお笑いグランプリ最優秀新人賞、おめでとう!」
「相方の太平かなめは、どないしてん! 捨てたか?」
典型的な「有名人にヤカラを入れる愚かな若者」であり、今なら炎上。
まだ荒っぽさの残る当時なら、
「なんやコラ」
「なめとったら、承知せんぞ!」
ケンカになっても、おかしくないかもしれない。
まあ、ぜんじろうさんも、こんな阿呆集団にいちいち、かまってられないだろうが、今思い返しても、われわれは実に愚昧である。
さらには、ただでさえ痛いヤングなところに、もうひとつ同世代くらいの方々は上のセリフに、さらなる「自意識過剰」を発見し苦笑するのである。
たとえば、
「おい、ラッキーぜんじろう!」
という友人センヨウ君の発言。
ラッキーぜんじろうとは、ぜんじろうさんがデビューしたころの芸名。
ふつうに、「おい、ぜんじろう」でいいところを、わざわざ昔の芸名で呼ぶ。
こまかい情報であるが、センヨウ君からすれば、
「自分はそんなマニアックなことを知っている」
という「お笑い偏差値」の高さをアピールしているわけだ。
さらにはのちに「ラッキー」を取ったと言いうことは、この芸名を気に入っていなかったわけだから、わざわざ、そこをつくという手のこんだ嫌がらせで、
「オレは芸人に、【アホ】【おまえなんか、全然おもんないんじゃ】みたいな、ベタなヤカラを入れるような、低俗なお笑いファンではない」
という「意識高い系」であることへの、こだわりでもあるのだ。なんという教養。
今でいえば、オードリーを見かけたときに「お、ナイスミドルの若林や」。
ライセンスのお二人に「おい、ザ・ちゃらんぽらん」と呼びかけるようなものであろうか。
そこにあるのは、そんなことも知っているという、まさに選ばれし「情報エリート」という自負であるのだ。
ちなみにセンヨウ君は南海キャンディーズがMー1グランプリでブレイクし、山里さんが売れっ子になったころ、
「ほう、イタリア人って今、結構がんばっとるんやな」
とかコメントしており、相変わらずの激イタ。
どうも我々の辞書には「成長」「大人への階段」という文字は無いようなのであった。
(続く)