セルタ戦の前だからなのか、
ASにサルガドのちょっと長めのインタビュー記事。どうも今のマドリーには辛辣なようですが(まあ仕方ないか)、移籍当時の話、デル・ボスケへの敬愛、今のセルタ、マドリーについての批評、将来は…?と、いろいろな話題が少しずつ。
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Q:ドバイではどうしていますか?
A:ブラックバーンを出たのは経営的な問題のためで、彼らはベテラン選手達を削らなければならなかった。選択肢はあったが、スペインでプレイしたいと思わなかった。そして家族のことを考えて、子供たちの教育のために海外で続けることにした。それでドバイを選んだ。監督のコースは、既にアイルランドで修了しているよ。アル・ジャジーラと契約したし、ドバイ・スポーツ・シティのディレクターにもなった。この1月から始まったプロジェクトで、6歳から16歳の子供達のアカデミーがあるんだ。
Q:あなたのキャリアについて話しましょう。どのような形でセルタに加入したのでしょうか。
A:私は13歳だったよ。コジャ(Coya)の近所の貧しい家庭の出身だった。セルタのレジェンドでペペ・ビジャールという人がいて、ビクトリアというチームでプレイしていた私に連絡してくれたんだ。彼はいろいろ尽くしてくれた。いつも居酒屋にやって来て、私の父に私を信頼するようにさせたんだ。
Q:プリメーラでのデビュー戦を覚えていますか?
A:マドリーとの試合だったよ。1995年1月22日、サンチアゴ・ベルナベウ。19歳だった…。
Q:それは大変な…
A:それで、3-0のデビューだよ! イエロとブージョは私に対してヒートアップしていたね。私は15分間出場して、右のインテリオールでプレイした。私はただ走っているだけだったよ。遅れていって(タックルが?)ブージョと衝突し、それからイエロともぶつかった。それで最後には彼らと喧嘩になった。「俺たちはここで3-0なのに、お前はそんなプレイをして…失せろ!」(って感じのことを言われたようです。ちょっとここ、全然違うかも。すいません)
Q:マドリーへの移籍がどうだったか覚えていますか?
A:あれはセルタにとって素晴らしいシーズンだった。驚異的なチームだったよ。私は代表デビューもしたし、11月からは欧州中からオファーが集まってきた。でも私はマドリーに行きたいと思っていた。待って…待って…でも何もなし。違約金は20億ペセタで、ディフェンダーにしては高すぎる金額だった。それが、私がバカンスに出かける日、バカンスに行く飛行機のステップに足をかけたところで、代理人のカルバハル(おなじみの)から電話がかかってきた。「彼らは支払ったぞ!」とね。
Q:マケレレと一緒でしたか? (マケレレもセルタにいました)
A:いや、彼は1年後だ。義理の父に尋ねられて、私は彼を推薦した。
(サルガドの奥さんは、サンス元会長の娘)
Q:そう、あなたの義理の父親になるのに、そう長くはかからなかった。違いますか?
A:3ヶ月で、もう今の妻と一緒になっていたね。
Q:人々は、あなたを「賢い」と言っていたでしょう。
A:私にとっては良いことではなかった。その夏に(翌夏?)、義理の父は選挙で敗れた。さらに悪いことに、誰も私を信じてくれなかった。それで、フロレンティーノ(ペレス)と個人的に話をしなければならなかった。
Q:何と言ったんですか?
A:会長、あなたは私のことを知らないし、私もそうです。でも周囲が何と言っていても、私はマドリーを出て行きません。私は誰に所属しているのでもない、ただマドリーに所属しているのです、と。それで、契約延長にまで至った。
Q:ローゼンボリ戦でトリビュートを受けるまでに至りました(マドリーからの移籍が決まり、ベルナベウ杯ローゼンボリ戦でお別れセレモニー)。ラウルがそうした扱いを受けていないのをどう考えますか?
A:それは、その人、その時期、物事がどう動いているかの問題でもある。いつかは彼に相応しいものがあると確信しているよ。
Q:なぜ移籍したのでしょうか?
A:移籍を決める前にはずいぶんと泣いたものだ。決断を下す2日前には、夜中ずっと。マドリーは私にプレッシャーをかけなかった。相互に決めたことだ。マドリーを離れるというステップを取るのは、辛いものだ。このチームは私の血の中に流れている。
Q:モウリーニョによるセルタの経営はどうですか?(このモウリーニョはセルタの現会長)
A:最も難しい部分は既に過ぎた。経済的な面を安定させることだ。セグンダでの厳しいシーズンが合って、経済面の努力がなされた。今は、他のスポーツクラブに比べると、その状況はずっと良くなっているし健全だ。
Q:ではスポーツ面では?
A:パコ・エレーラ監督とは、この夏にたくさん話をした。指揮している選手のうち14人は、初めてのプリメーラだ。これはハンディキャップになる。しかしそれが、ファンが自分達のチームのアイデンティティとして捉える部分だ。セルタは再び手本となっている。イアゴ・アスパス、オウビーニャ、アレックス、その他の選手達も多くのものをもたらすだろう。そして、常にボールタッチをしていく、セルタの歴史的なフットボールスタイルを維持していく。セグンダでもそのスタイルをしていたんだ。
Q:セルタの一部を購入するというオファーを受けていた、あるいはそう望んだというのは本当ですか?
A:そういうのはちょっとプライベートなことだから…
Q:ではイエス?
A:セルタは、第一にはパコ・エレーラだが、昇格した後、彼らと共にプレイするという図を描いてくれた。フットボールをするという考えに私は誘惑された。ファンにとってもすばらしいことだろうと。しかし私は別の難しい決断をしなければならなかった。
Q:では、マドリーの話をしましょう。モウリーニョの下でアイデンティティが失われているのでしょうか?(このモウリーニョはモウリーニョ)
A:モウリーニョは難しい時に素晴らしい仕事をしている。しかしこのシーズンが終われば、マドリディスタのアイデンティティと共に、将来のプロジェクトについて考えなければならないだろう。モウリーニョがマドリーと契約した時、彼は誰にも嘘をついていなかった。誰もが彼のアイデンティティや彼の仕事のやり方を知っていたんだ。私はモウリーニョへの不満はゼロパーセントだ。彼は、バルセロナが優勢になっている難しい時期にやって来て、グアルディオラの時代を終わらせることができた。リーガも獲った。それが求められたことだ。それから、フットボールのやり方、スタイルがある。
Q:イメージの話を。「ギャラクティコ」という言葉が、マドリーに害となったのでしょうか?
A:それが害であった時期はあったね。間違った判断がなされた…
Q:例えば?
A:そう…デル・ボスケの前か後かということだ。彼が出て行った後の最初の年、出て行ったことがチームにとって厳しいことであった上、我々には本当に運もなかった。3月までは、こんなに順調なシーズンは経験がないと思っていた。3冠すら容易に達成できそうだった。
Q:何が起きたのでしょうか?
A:私から言えば、フィジカルよりもメンタルの問題だった。すべてに勝たねばならなかったのに、国王杯では延長の末サラゴサに敗れた。それに続いて、チャンピオンズでの敗退。4-2で勝ってからモナコに行ったのにだ。それが我々を殺した。そこから、我々は勝てなくなった。
Q:デル・ボスケの何がそうスペシャルなんでしょうか?
A:彼は、最も難しいマドリーのロッカールームに、うまく対処していた。それは彼がロッカールームを放任していたからというのではなくて、彼のおかげで素晴らしいロッカールームになっていたんだ。彼は決してロープで締め付けるようなことはしなかった。デル・ボスケのロッカールーム内外での行動から、彼に対して敬意が払われていた。お互いに敬意があった。取締るルールなどなしに、何をするべきで何をしないかがわかっていたんだ。そして、それぞれの個人的な生活の状況も理解していた。ロナウド、ジズー、フィーゴ、ラウル。それぞれに変わった個性があったけれど、彼はすべてをノーマルなこととして捉えていた。
Q:彼が去って、マドリーが崩壊するのに何が変わったのでしょうか?
A:いいかい、デル・ボスケがいる時は、悪い結果でも選手達に影響はなかった。プレスカンファレンスでも何も起こらなかったからだ。そこからは、誰もが静かに出て行った、マスコミでさえだ。誰もがすっかり落ち着いていた。ファンまでも、ベルナベウにいって話すのはフットボールのことだけだった。
Q:教えてください、時には怒り狂っていたように見えましたが。
A:おい、デル・ボスケだって興奮するよ。ユーモアもあった、本当にもうめちゃくちゃな…
Q:教えてください…
A:だめだめ…できないね。でも彼は本当に良いユーモアを持っていたよ。
Q:彼がいなくなって何が変わったのでしょう?
A:クラブは、イメージのレベルで、急激な変化を求めたんだ。最も要求されたのはロッカールームだ。そして新しい監督がやってくると、彼らは急激な変化を、厳しいやり方で実行しようとした。それはロッカールームとの衝突につながった。それにビセンテは、違いを作り出すやり方をわかっていた。彼は、ロナウドには何をして、私にはそうしないということをわかっていた。同時に私もそれを理解していた。彼は、私たちに同じように敬意を持って扱ってくれたけれど、異なる種類の貢献をする他の選手達には、もう少し自由を与えていたんだ。
Q:フロレンティーノが、すべての力を1人の人間に集めていこうとしていると思っていましたか?
A:それは違うように思う。フロレンティーノは、すべてをコントロールすることができる人間だ。そして、彼は非常にすばらしいことをしてきたし、人間である以上、過ちも犯してきた。そしてその過ちを正そうとしていた。フロレンティーノは、厳しい時期を終わらせるための切り札として、モウリーニョを選んだんだ。彼はそのことに責任があるし、それだけの力がある。ただ、スペインにおけるフットボール、特にマドリーでは、そのとおりには行かない。イングランドではそうでも、ここではそういかない。別の文化、構造があるんだ。それが、マドリーで衝突になっている。大きな力が、モウリーニョに与えられた。そして今、それを正すのが難しい。流れを変えるのは難しいものだ。私には驚きだったよ。モウリーニョが、マドリーで一番の力を持つ監督であるということが。
Q:今モウリーニョは、彼の助けになる人物を探していて、イエロのことを検討しているそうです。あなたは志願を申し出ますか?
A:(笑って)私はいつでも正面きって言うよ。私は、マドリーが望むものすべてに対して、私を必要とするならいつでも、申し出るよ。
Q:これはまた、はっきりした申し出ですね!
A:私から申し出たんじゃなく、あなたが聞いたからだよ。私の電話は、いつでもマドリーのために開けてある。モウリーニョにでも、レアル・マドリーの誰からであってもね。私は誰かに属しているのではなく、マドリーに属しているんだ。何のためであれ電話してくれば、私はここにいるよ。
Q:将来の候補(会長?)にと乞われたことは?
A:まったくない。
Q:マドリーにはイエロやラウルのような人がくることになると思いますか?
A:そう思う。そうだろう? マドリーには、以前在籍していた重要な選手たちによって動かされる将来がある。それが誰なのか、いつそうなるのかは知らない。長年にわたって在籍した人たちは、重要なことができるだろう。
Q:会長になることを夢見たりしましたか?
A:会長はないよ。でも確実に何かごちゃごちゃしたところに首を突っ込むだろう。ロッカールームかピッチに関連した仕事でね。フロントにいて、でもピッチに近いところにいられるような役目とか。私はフットボールが好きだから。
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また増えた