【亨吾視点】
「オレ達、しばらく会わない方がいいと思う」
哲成がそういって、オレの前からいなくなったのは、2015年の冬のことだった。
原因は……オレの不注意だ。オレがあんなことを言わなければ、オレ達はこの21年と同様に一緒にいられたはずだったのに……
それから3年2ヶ月。哲成からは一切連絡はない。
でも、Facebookに定期的に風景写真をあげてくれるので、無事の確認はできている。それが無かったら、オレは気がおかしくなっていただろう。
いや……おかしくはなっている、か。
いや……おかしくはなっている、か。
哲成がいなくなってからは、ずっと仕事で気を紛らせていて、そのまま繁忙期に入り怒涛の連日深夜残業で、本当に頭の中を仕事でいっぱいにしていたのだけれども……
一段落ついた夏のはじまりの朝、突然、足が動かなくなった。鉛にでもなったかのように重くて、重くて……手で足を押して、なんとかベッドに腰かけた時に、ふと、中学一年生の時の、兄の部屋での出来事を思い出した。
兄が起床時間を過ぎても部屋から出てこないので、母に頼まれて呼びにいったところ、兄はぼんやりとベッドに腰掛けていたのだ。
『お兄ちゃん?』
声をかけたオレに、兄はゆっくりとこちらを向いて、困ったように言った。
『享吾……お兄ちゃん、足が動かないんだよ。何でかな……』
苦笑した兄の青白い顔……。オレも今、あんな顔をしているのだろうか……
あの時、弟であるオレは途方に暮れて兄を見返すことしかできなかった。
でも、同じ状況にも関わらず、オレの妻の歌子は、オレのような役立たずとはまったく違った。
『享吾君は今までたくさん働いてきたから、ちょっと休みなさいって神様が言ってるのよ。しばらく遊んで暮らせるだけの貯金もあるんだし、ゆっくりしたら?』
そう言って、退職することを勧めてくれ、手続きもすべて行ってくれた。オレはただぼんやりと、天井をみていただけだ。
歌子は、自宅でピアノ教室の先生をしている。1階リビングには、グランドピアノとアップライドピアノとシンセサイザーと簡易ドラムのセットがある。個人の教室ではあるけれど、根気強く丁寧に教えてくれる歌子の人柄と、年に一度の発表会が盛大であることが評判で、今や生徒数も40を超えている。学校の一クラス分だ。
(ああ、これ……哲成の好きな曲だ)
二階のベッドで寝ていても、下のピアノ教室の音が聴こえてくるので、退屈はしない。哲成のFacebookの写真をみながら、この風景にいる哲成の姿を想像して……
(哲成……)
もうずっと見ていない哲成の笑顔を瞼の裏に浮かべながら、眠りにつく。そんな日々を送っていた。
それから半年……哲成がいなくなって、ちょうど一年がたったころ、ようやく日常生活に支障がない程度には回復した。一切弾いていなかったピアノも、少しずつ、弾けるようになった。特に何をしたとか何があったとかではない。ただ、穏やかに、時間が過ぎただけだ。
そんなオレを見定めたかのように、
「ステージ復帰しない?」
歌子が提案してきた。「うん」と、すぐに肯いたのは、さすがに無職で家に居続けるのが申し訳なくなったからだ。
歌子との結婚と同時に、歌子の父親がオーナー兼シェフをしていたレストランを引き継いでオーナーになり、レストランをワインバーにリニューアルしたのは2000年のことだ。ワインバーになっても、ピアノの生演奏のサービスは続けている。
名ばかりのオーナーで、業務は全て歌子に委ねているけれど、哲成のために毎月ステージに上がることだけは続けていた。いなくなってからは、一度もステージでは弾いていない……
「でも、こんなんで弾いていいのかな……」
「大丈夫よ。みんな、享吾君のステージ復帰、心待ちにしてるわよ?」
「………そう言われても」
おれは「みんな」のためにピアノを弾いたことなんて一度もない。
おれの愛は哲成にしかない。狭い狭い愛だ。
「大丈夫。その狭い愛にみんな心揺すぶられるんだから」
にっこりとした歌子。歌子はあらゆるものに愛情が深い。オレとは正反対だ。
それからというものの、ワインバーで定期的に演奏をすることになった。オレがステージに上がる時には、いつも哲成が座っていた席をリザーブしておいてくれる歌子の気遣いが有り難い。
オレはひたすら、この場にいない哲成に向かってピアノを弾く。それだけがオレを地上に繋ぎ止める。哲成のいない世界で生きていくために、哲成の影を追い続ける…
そうして緩やかに月日が流れ……その日はやってきた。
***
2019年2月。哲成と最後に会ってから、3年2ヶ月が過ぎた。
年末から、哲成のFacebookの更新が滞っていて、ずっとモヤモヤとしていた。今までは少なくとも2週間に一度は更新していたのに……
(何かあったんだろうか)
でも、直接連絡することは考えられなかった。拒否されるのが怖い……
会社に問い合わせてみようか。それもおかしな話か……
そう悶々としていたところ、
「享吾君、ヘルプ!お願い!」
土曜日の朝、めずらしく歌子に拝まれた。
「今日、来週の発表会のリハーサルなんだけど、フミちゃんの娘さんがインフルインザで、フミちゃんが来られなくなっちゃったの!」
フミちゃん、というのは、歌子の音大時代の友人で、発表会の時にはいつも手伝ってくれる人だ。
「私がステージのリハーサルしてる間に、フミちゃんとヒカルちゃんにはリハ室で幼稚園以下の子の親子合奏の練習をみてもらうことにしてて……」
ヒカルちゃん、というのは、歌子の昔からの生徒で、今は幼稚園の先生をしている。ここ数年、親子合奏の仕切りはヒカルちゃんに任せることが多いらしい。
「フミちゃん担当のピアノ譜、これ。享吾君なら初見でいけるでしょ?」
「ああ……」
有名なアニメの主題歌だ。楽器の演奏を引き立たせるためなのか、ピアノはあくまでシンプルな楽譜だ。
「本番はフミちゃん来られるはずだから、リハーサルの今日だけ。お願い!」
「分かった」
こういうことも気が紛れていいのかもしれない。
そんな軽い気持ちで引き受けたのだけれども……
リハーサル室前のテーブルで、出欠のチェックをする係も必然的にやることになってしまった。ピアノを弾くだけだと聞いていたのに騙された。でも、ヒカルちゃんは早めにきた親子の相手をしているので、そちらを任されるよりはマシと思うことにする。
出席簿には、15人の生徒の名前が並んでいる。
今時の名前は難読なものが多く、ふりがなを振ってくれているのが有り難い。でも、読み方は分かっても、絶対男の子だろう、と思っていた名前の子が女の子だったり、その逆もあったりする。
もともと子供は苦手なので、あまり関わりたくないのに、歌子の指導なのか、あきらかに未就園児と思われる子まで、自分で名前を言いに来るので、正直面倒くさい……
(あと2人か……)
げんなりしながら待っていたところ……一人の髪の長い女の子が入ってきた。なかなか可愛い子だ。ふわふわのピンクの衣装が良く似合っている。今日は本番と同じ衣装で練習とリハーサルをすることになっているのだ。
その子はオレの目の前までくると、勢いよく、名乗りをあげた。
「むらかみかりんです!かりんです!むーらーかーみーです!」
「……はい」
オレも「むらかみ」だよ。と言いそうになり、自分でもちょっと可笑しくなる。オレも「むらかみ」だし、オレの大好きな人も偶然同じ「むらかみ」という名字だ……
「かりんちゃん、おうちの人は?」
「おうちの人?」
「お父さんとかお母さんとかおじいちゃんとかおばあちゃんとか。まさか一人できたわけじゃないよね?」
「うん」
かりんは大きな目をクルクルしながら大きくうなずいた。
「今日はテックンと一緒。発表会もテックンと出てってママが言ってるの」
「テックン……?」
ドキリとする。ふいに脳内に蘇る哲成の声。
(あと2人か……)
げんなりしながら待っていたところ……一人の髪の長い女の子が入ってきた。なかなか可愛い子だ。ふわふわのピンクの衣装が良く似合っている。今日は本番と同じ衣装で練習とリハーサルをすることになっているのだ。
その子はオレの目の前までくると、勢いよく、名乗りをあげた。
「むらかみかりんです!かりんです!むーらーかーみーです!」
「……はい」
オレも「むらかみ」だよ。と言いそうになり、自分でもちょっと可笑しくなる。オレも「むらかみ」だし、オレの大好きな人も偶然同じ「むらかみ」という名字だ……
「かりんちゃん、おうちの人は?」
「おうちの人?」
「お父さんとかお母さんとかおじいちゃんとかおばあちゃんとか。まさか一人できたわけじゃないよね?」
「うん」
かりんは大きな目をクルクルしながら大きくうなずいた。
「今日はテックンと一緒。発表会もテックンと出てってママが言ってるの」
「テックン……?」
ドキリとする。ふいに脳内に蘇る哲成の声。
『オレのこと「テックン」って呼ぶんだよ!超可愛い! 』
哲成が昔、年の離れた妹にそう呼ばれている、と嬉しそうに話していたことがある。オレ達はお互いの家族についてはあまり話さないので、今もそうかどうかは知らないけれど……
(まさか……まさか、な)
同じ『村上』で同じ『テックン』。そんな偶然が……
でも、妹の梨華ちゃんはおれ達より18歳年下のはずだ。今年27歳。このくらいの娘がいてもおかしくはない……
「あ! テックン、遅い!」
「!」
かりんの甲高い声に思考を破られた。ハッとして顔をあげる。と、両手いっぱいに荷物を持った、小柄な男性が中に入ろうとしている姿が、ドアのガラス越しにみえて、ドキンと心臓が跳ね上がった。
「………!」
反射的に立ち上がり、ドアを開けるのを手伝ってやり……
「ああ、すみません……、って、あ」
「………」
「あ」という口をしたまま、こちらを見上げた、クルクルした瞳。3年前と変わらない姿が、目の前にある……
「哲成……」
心臓が激しく波打ち続ける。こんなに、触れるくらい近くに、いる。会いたくて会いたくて、たまらなかった哲成が、ここに……
「哲……」
「おお!久しぶりー!」
「!」
ぱあっと顔を明るくした哲成。
「やっぱり、村上歌子先生って、歌子さんのことだったんだなー。昨日、梨華にプリント見せられた時に、もしかしてって思ったんだよー……って、かりん!」
「…………」
言いながら、哲成はすいっとオレの前をすり抜けた。
「かりん、自分の荷物くらい自分で持って」
「えー荷物は男に持たせればいいってママいつも言ってるよー」
「それは大人になってからの話!」
「かりん、もうすぐ年中さんだもん。もう大きいもん。あ、ヒカルせんせーい!」
「わわ、かりん!」
わあっと言いながら、ヒカルちゃんにかけよっていくかりんを、慌てて追いかけていく哲成……
(……………)
哲成がいる、という信じられない夢のような光景。
でも……
(…………遠い)
なんだか、とても、遠い。
目の前にいるのに、なんでこんなに遠いんだ。
同じ『村上』で同じ『テックン』。そんな偶然が……
でも、妹の梨華ちゃんはおれ達より18歳年下のはずだ。今年27歳。このくらいの娘がいてもおかしくはない……
「あ! テックン、遅い!」
「!」
かりんの甲高い声に思考を破られた。ハッとして顔をあげる。と、両手いっぱいに荷物を持った、小柄な男性が中に入ろうとしている姿が、ドアのガラス越しにみえて、ドキンと心臓が跳ね上がった。
「………!」
反射的に立ち上がり、ドアを開けるのを手伝ってやり……
「ああ、すみません……、って、あ」
「………」
「あ」という口をしたまま、こちらを見上げた、クルクルした瞳。3年前と変わらない姿が、目の前にある……
「哲成……」
心臓が激しく波打ち続ける。こんなに、触れるくらい近くに、いる。会いたくて会いたくて、たまらなかった哲成が、ここに……
「哲……」
「おお!久しぶりー!」
「!」
ぱあっと顔を明るくした哲成。
「やっぱり、村上歌子先生って、歌子さんのことだったんだなー。昨日、梨華にプリント見せられた時に、もしかしてって思ったんだよー……って、かりん!」
「…………」
言いながら、哲成はすいっとオレの前をすり抜けた。
「かりん、自分の荷物くらい自分で持って」
「えー荷物は男に持たせればいいってママいつも言ってるよー」
「それは大人になってからの話!」
「かりん、もうすぐ年中さんだもん。もう大きいもん。あ、ヒカルせんせーい!」
「わわ、かりん!」
わあっと言いながら、ヒカルちゃんにかけよっていくかりんを、慌てて追いかけていく哲成……
(……………)
哲成がいる、という信じられない夢のような光景。
でも……
(…………遠い)
なんだか、とても、遠い。
目の前にいるのに、なんでこんなに遠いんだ。
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お読みくださりありがとうございました!
享吾君、何を言っちゃったの?とか、なんで歌子と結婚してんの?とか、そういうことを今後書いていければと……
先に結論を書いて、あとから理由を書く。って、前回の「続・2つの円の…」と同じ構成ですね…
でも、21年の間に起きたことを順々に書いていくのは、せっかちな私には耐えられなくて💦
そんなわけで、過去話を織り交ぜながら、現在話も進行していければな、と思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
次回は火曜日更新予定です。
お読みくださりありがとうございました!
享吾君、何を言っちゃったの?とか、なんで歌子と結婚してんの?とか、そういうことを今後書いていければと……
先に結論を書いて、あとから理由を書く。って、前回の「続・2つの円の…」と同じ構成ですね…
でも、21年の間に起きたことを順々に書いていくのは、せっかちな私には耐えられなくて💦
そんなわけで、過去話を織り交ぜながら、現在話も進行していければな、と思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
次回は火曜日更新予定です。