ライオンの詩 ~sing's word & diary 2

~永遠に生きるつもりで僕は生きる~by sing 1.26.2012

山伏、現る現る。その三。

2013-01-08 02:34:06 | Weblog

京都や奈良に都があったことは誰でもが知っている。
では、吉野に都があったことをご存知か?

我らがハチャメチャ天皇、後醍醐天皇。
父の遺言で自分の嫡流を後継にできない事に不満を持った後醍醐天皇。密かに鎌倉幕府打倒を目指すが、その度に仲間に裏切られ失敗。京都の外れ、テンペルとタットルの村にて捕らえられ、ついには隠岐の島へと流されてしまう。天皇なのに・・・。
その隠岐の島で新宮家が生まれたってのは、また別の話だからいいとして。
なんとか隠岐の島を脱出した後醍醐天皇、足利尊氏の助けを借りて、天皇に返り咲く。が、そのハチャメチャさゆえに尊氏にも見放され、攻められ逃げ、三種の神器を渡してしまう。
三種の神器を持つものが真の天皇。これはこの国の掟。
三種の神器を奪われた後醍醐天皇ではあるのだが、吉野の山に入り、朝廷を開いてしまう。そしてこう言った。
「尊氏に渡した三種の神器は贋物じゃぁ!本物はここにあるぞよ。わっはっは。」
完全な詐欺である。・・・天皇なのに。

そんなこんなで、吉野朝と京都朝が並立する南北朝時代が始まったと。

その吉野朝宮があったのが金峯山寺の敷地の中。
こんな山の中に朝廷を開いたってことが、南朝のジリ貧さを物語ってはいるのだが、圧倒的勢力の北朝に対して56年間も対抗し続けたといから、さすがだと言わざるをえない。
もしかしたら、超人的能力を持った修験者たちが、こぞって味方をしてくれたのかもしれないな。

後醍醐天皇の稜も、吉野、金峯山寺の近くにある。
いつか、御参りに行きたい。

おわり。

山伏現、現る現る。その二。

2013-01-08 01:53:26 | Weblog

金峰山修験本宗総本山、修験道場「金峯山寺」。

奈良桜井、三輪山を御神体にもつ大神神社から、一路吉野に向かった。
そもそも修験道とは何か?

日本には古来から山岳信仰がある。霊地と呼ばれる山林の中で修行を積む者を山伏、修験者と呼ぶ。
その山岳信仰が、神道、仏教、道教などと合わさって、日本独自の宗教として発展したのが修験道である。
修験者は験力と呼ばれる超人的能力を持っているとかいないとか・・・。

その修験道の総本山が、ここ金峯山寺。
本尊は、蔵王権現三躯。青の像として有名。

国宝の本堂に入り、手を合わせ、キョロキョロと見回してみた。青の像が無い。あれ?
あっちにいったりこっちにいったり・・・青の像が無い。あれ?
おばちゃんに聞いてみた。
「青の像はどこですか?」
おばちゃんは、優しくもあっさりとこう言った。
「今は見られません。御開帳は三月から六月です。」

ガビーン。・・・知らなかった。

まぁ、仕方がない。いつでも見られるわけじゃないってとこにこそ価値がある。また春に来よう。

本堂も仁王門も国宝である。すこわい迫力である。屋根屋だったから屋根に着目してしまう。凄まじい茅葺きだ。

しかし、あれだ。ここまで歩いて来るのも大変なのに、こわなところで修行をしたら、つくわな・・・超人的能力。

おれも、山伏を目指して、頑張っちゃうかな。

つづく。

山伏、現る現る。

2013-01-08 01:23:00 | Weblog

毎夜、寒い寒いネタで、申し訳ない。

夜に焚く薪が心許なくなってきた。薪を補充しなくては。
そんなわけで、今日の昼間は柴刈りである。

手製の薪背負い装置とゴムバンドを二本持って、裏山を登る。
麓近くのめぼしい薪はもう拾ってしまったので、結構上まで登る。息が切れる。

いいところで、薪背負い装置を地面に置き、そこら辺から手頃な長さと太さの丸太を集めては装置に乗せていく。乗せ過ぎはダメだ。立てなくなる。乗せな過ぎもダメだ。登り下りの回数が増える。いつだって、絶妙がよい。

頃合いかなというところで、丸太が装置から落ちないようにゴムバンドで固定する。この装置、なかなか良くできている。

ここからが大変なのだ。背負いバンドが地面近くに付いている。しゃがんでもまだ届かない。結局、ほぼ寝転ぶ形で肩に通す。
そこからがリアルに大変なのだ。寝転んだ体勢から、推定30キロの重荷を背負って立ち上がらなくてはならない。

いつも、うぉぉぉぉぉぉ!!!と、心の中で叫びながら立ち上がる。

そしてそこからは山道を下る。身体にずっしりとかかる丸太の重み。柔らかい地面に靴が沈む。滑らないよう慎重にいく。滑ったら死ぬ。だから慎重にいく。

時折、担いだ丸太が立ち木に当たる。当たるたびに、はぅ!っとなるので、所々は横向きになってカニ歩きでいく。

これを今日は四往復した。なかなかのトレーニングだ。

下りる途中で、いい感じの丸太を見つけると拾う。右手と左手の分、二本拾う。それを杖のようにして歩く。
三回目四回目になってくると、なんだか修行をしているような気分になる。荷物を担いで杖をつきながら・・・修験者。まるで山伏のようだ。

以前、薪を担いでいる時に、観光のおじさんとすれ違った。何しろ、ここは国指定の史跡の山なのだ。観光周遊コースなのだ。僕は一際大きな荷を背負っていた。
おじさんは・・・「え?お?・・・すごいな・・・」とつぶやきながら、伏せ目がちに通り過ぎていった。

以前、弟と弟の嫁さんがうちに遊びに来た。
来訪まで時間があるなと山に入った。薪を背負って山を下りてくると、下の方から「おにーちゃーん?」と嫁さんの声が聞こえる。
姿の見える所まで下りて、ここだよぉ!と叫ぶと、目をまん丸くしてこう言った。・・・え?・・・何してるんですか???

修験者でも山伏でもないのは当たり前のことなのだが、常人でもない。
まぁね、こんな人が常人であるはずがない。かな?

つづく。