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白雲去来

蜷川正大の日々是口実

夕涼みの一杯

2012-07-07 08:12:12 | インポート

七月四日(水)晴れ。

戯れに愚妻が、実家から送って貰ったジャガイモを大き目の鉢を買ってきて植えてみたら、あっという間に葉が出てきた。それならばと思って、キュウリとピーマン、そして先日、伊勢原にお墓参りに行った際に和尚に断わって「ミョウガ」を株分けしてもらった。ピーマンはやっと小さなものが出来た。キュウリは小さい物が二本出来ている。そうそう、北海道の谷口さんから「山わさび」を頂いたので、上の方を水栽培したら葉っぱが出てきた。それを土に植え替えたら、どんどん葉っぱが立派になって、ひょっとするといずれ食べられるかもしれないと言う期待が出てきた。ささやかな楽しみが増えた。

仕事が一段落したので、カメちゃんに連絡をして藤棚商店街の縁日に出かけた。何を買うでもないのだが、夏の風物詩であるこの縁日が好きだ。しかし最近は子供たちも大きくなって、一緒に行ってはくれないのが残念。その後、「やまと」にて夕涼みの一杯。

人の生にたのしみ多し然れども酒なしにして何のたのしみ とは好きな牧水の歌である。

コメント (1)
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原稿にOKが出た。

2012-07-07 07:59:05 | インポート

七月三日(火)曇り。

 沖縄から帰ってきて、今日から頭を日常モードに戻して仕事。と言っても原稿は山ほど書かなければならないし、沖縄でお世話になった方へのお礼状や、お中元を送って頂いた人たちへのお礼状など何にも手を付けていない。申し訳ないが、とりあえず締め切りのあるものから順番にやっていこうと思っている。今月の十五日までが修羅場となりそうだ。

 山平重樹さんが以前上梓された「新宿ヤクザ伝・阿形充規とその時代」がこの度、幻冬舎アウトロー文庫から新たに文庫本として出版される。山平さんからその本の「解説」を依頼されたことを以前書いたが、ミリ単位の脳みそを駆使してようやく脱稿して沖縄に行く前に入稿した。それがようやくOKとなったと出版社の担当から連絡があった。正直言ってほっとした。

いつも私のような者にそういった仕事の場とチャンスを与えてくれる山平さんに感謝している。私は、かなりずぼらな方で、何たって左右の目ではない座右の銘は、「果報は寝て待て」と「棚からぼた餅」という二つだ。出来たらアンコウのように、口を開けてじっとしていて獲物が前を通るのを待っているという生き方が理想だが、そんなことは世間どころかお天道様が許してはくれない。

そういった私の自堕落な正確に喝を入れてくれる人の中に山平さんがいる。本来は、私などよりも解説文を書くにふさわしい人がいるに違いあるまい。まして私には文才のカケラもない。ただ日々の生活の中に緊張感と「書く」という努力を持って貰いたいと思って、いつも山平さんは、仕事を与えてくれる。感謝しています。阿形先生のことを書いた本が発売になりましたなら是非ご購読のほどをお願いいたします。

51p1g5rotpl_sl500_aa300_1※この本が幻冬舎より文庫本として発売になります。野村先生との出会いなども描かれています。


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沖縄から帰宅。

2012-07-05 10:43:23 | インポート

七月二日(月)晴れ。沖縄から帰宅。

 愚妻と子供たちは、学校があるので昨日の夜の便で一足早く帰宅した。今まで皆がいた部屋に目を覚ますと一人では、少々気が抜ける。レストランに降りて、お粥とコーヒーで朝食を済ませて帰り支度。大き目な旅行鞄を持ってきたので、あっという間に片付いてしまう。九時半にロビーへ集合。

 今回の巡拝団の一行は、ほとんどが羽田便だが、関空便の人が三名いる。羽田行きは三時三十五分発。関空は、申し訳ないが飛行機の都合で五時となってしまう。最も、千歳行きの人たちは、直行便が取れなくて羽田で乗継である。皆さん大変な思いをして今回参加してくれた。感謝するのみである。

 とりあえず、二時に空港に集合することにして後は自由行動とした。私は、沖縄に来る必ずと言ってよいほど寄る所が三か所ある。まずは、那覇港の「嶺吉食堂」。ここは「テビチ」と「煮つけ」が絶品で、ホテルにチェックインする前にここで「安着祝い」をする。もう一軒は、以前ブログに紹介したことのある、ソーキそばの名店「すーまぬめー」である。沖縄に来て、様々な店で様々なソーキそばを食べたが、この店を超える物を知らない。二軒とも沖縄の怪人、林さんに紹介された店だ。残念ながら今回は、「嶺吉食堂」と「すーまぬめー」にはスケジュールの都合で行けなかった。残念。

 最後は、国際通りの公設市場の二階の料理屋。地元の人や沖縄通の人たちは、この公設市場や観光客目当ての二階の食堂を、「俗っぽい」と言うが、私は、この混沌、雑然、市場が好きなのである。高いと言っても百円程度で、気にする値段ではない。一階の市場で好きな魚を買ってきて二階で料理して食べる。私は、ここに行かないと沖縄に来た気がしない。

 今日も、私は、ここの二階に陣取って、土地に不慣れな人たちの連絡基地として二時近くまで昼酒を楽しんだ。「かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆうぐれ」とは若山牧水の歌。

 その後、空港に集合し、見送りに来て頂いた明鏡会沖縄の永吉氏や同志の方々、関空組の皆さんにご挨拶をして機上の人となった。

 

六時に羽田着。野村先生の奥様や塚越和尚を見送って、横浜へ。まっすぐ自宅には戻らずに有志らと「愛福楼」にて、安着祝い。九時過ぎに帰宅。


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トロピカル・ビーチでアグー豚の一頭焼。

2012-07-04 19:35:15 | インポート

七月一日(日)晴れ。沖縄にて。

 さすがに疲れたのか、目を覚ましたのは八時過ぎ。慌てて家族を起こして、朝食会場へ。今日も良い天気である。透き通るような真夏の空が広がっている。今日は、皆さん朝食の後は昼まで自由行動である。

 国際通りに観光へ行く者、のんびりと部屋で過ごす人、愚妻や友人たちは「ソーキそば」の名店「すーまぬめー」に行った。私は、サリー夫妻と先生の奥さんのお供をして買い物に同行する。

 昼に、宜野湾の「トロピカル・ビーチ」という所で、地元の新垣和彦氏や有志の主催によるBBQに招待されているので各自で向かう。このビーチは以前は米軍の専用だったそうだが、現在は市が管理して、BBQ施設などとても行き届いている。我々巡拝団や地元の有志を合わせると百人近い人たちが集まりとても壮観だった。

Dscf4880※プロムナードからビーチを遠望する。

Dscf4857※地元の有志から記念品を受け取る隠岐康団長。

Dscf4870※愚妻の誕生日のプレゼントと言うサプライズがありました。

Dscf4845_2※アグー豚の一頭焼をやって頂きました。

Cimg1641※社友の皆さんと。

 

 


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南部戦跡を慰霊巡拝

2012-07-04 10:33:42 | インポート

六月三十日(土)晴れ。沖縄にて。

 朝七時起床。遮光カーテンを開けると、がぁーっと真夏の太陽が部屋に飛び込んできた。眩しすぎる。まだ七時を少し過ぎたばかりである。八時に朝食。巡拝団に参加した何組かの人たちと一緒になり朝の挨拶。

 九時半にホテル前に集合して出発。現地集合組の金森了脩住職や南大東島のサトウキビ畑で働いている静岡の杉山君も真っ黒に日焼けした顔で参加してくれた。五十人乗りのバスはほぼ満席である。今日は、沖縄の最後の激戦地となった南部戦跡を巡る。

 まず海軍司令部壕へ。ここへは幾度も訪れているが、何度来ても厳粛な気持ちになる。海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されている。司令官であった太田実中将が自決の直前に海軍次官に宛てた「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報は日本人の胸を打つ。

昭和28年3月、戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様であった。壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された。昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立された。昭和45年3月1日、壕内の内の長さ300mの区域が復元され、旧海軍司令部壕として一般に公開されるようになった。そして、昭和47年には周辺の6.5haが海軍壕公園として整備されている。

Dsc_0516※海軍司令部壕を参拝の後で。志村馨、梶浦直樹、横山孝平の諸氏。

 その後、我々は、「健児の塔」や野村先生のお孫さんの出身地である宮崎県の慰霊碑などを参拝してから「ひめゆりの塔」へ。沖縄の慰霊や観光の象徴的な場所であるが、静かに慰霊をするという雰囲気ではない。資料館も自虐的なものが多く、参加者にはそう言ったことを踏まえて見学するようにと話した。

Dsc_0529※ガイドさんに代わって私が説明をしています。

 ここで昼食。まるで修学旅行のような食事であったが、運動の一環として来ているのだから文句も言えない。まして予算は限られている。

 そして今回の慰霊巡拝の最大の目的地である摩文仁の丘へと向かった。この場所は、沖縄戦の戦跡と自然景観を有する国定公園である。そして戦跡としては唯一の国定公園である。
公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。日本軍による組織的抵抗は、同年6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了した。
沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」として例年この日には、摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。

 炎天下の下、誰もが流れる汗を拭おうともせずに慰霊祭を挙行。まず国民儀礼の後に塚越、金森両ご住職の読経。その後、隠岐康団長による追悼文朗読、「海ゆかば」斉唱と慰霊祭を約一時間にわたって行った。なぜ国立墓苑で追悼式を行わなかったのか。それは、この「黎明の塔」から見える群青の海を参加者に見てほしかったからである。野村先生の遺志を再確認するためにも。終了後は、各自、出身県の慰霊碑に参拝してバスに戻った。偶然に森本防衛大臣の乗った車とすれ違う。何処に手を合わしたのか。大先輩が沢山眠っていると言うのに。

Dsc_0581※慰霊祭を挙行。  

Cimg1621※沖縄の守備隊である陸軍第32軍の司令官、牛島満、参謀長、長 勇両閣下の自決の場所で群青の海を眺める、野村先生のお孫さんのはるかさん。彼女の脳裏に去来するものは・・・。

 


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