六月三十日(土)晴れ。沖縄にて。
朝七時起床。遮光カーテンを開けると、がぁーっと真夏の太陽が部屋に飛び込んできた。眩しすぎる。まだ七時を少し過ぎたばかりである。八時に朝食。巡拝団に参加した何組かの人たちと一緒になり朝の挨拶。
九時半にホテル前に集合して出発。現地集合組の金森了脩住職や南大東島のサトウキビ畑で働いている静岡の杉山君も真っ黒に日焼けした顔で参加してくれた。五十人乗りのバスはほぼ満席である。今日は、沖縄の最後の激戦地となった南部戦跡を巡る。
まず海軍司令部壕へ。ここへは幾度も訪れているが、何度来ても厳粛な気持ちになる。海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されている。司令官であった太田実中将が自決の直前に海軍次官に宛てた「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報は日本人の胸を打つ。
昭和28年3月、戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様であった。壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された。昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立された。昭和45年3月1日、壕内の内の長さ300mの区域が復元され、旧海軍司令部壕として一般に公開されるようになった。そして、昭和47年には周辺の6.5haが海軍壕公園として整備されている。
※海軍司令部壕を参拝の後で。志村馨、梶浦直樹、横山孝平の諸氏。
その後、我々は、「健児の塔」や野村先生のお孫さんの出身地である宮崎県の慰霊碑などを参拝してから「ひめゆりの塔」へ。沖縄の慰霊や観光の象徴的な場所であるが、静かに慰霊をするという雰囲気ではない。資料館も自虐的なものが多く、参加者にはそう言ったことを踏まえて見学するようにと話した。
※ガイドさんに代わって私が説明をしています。
ここで昼食。まるで修学旅行のような食事であったが、運動の一環として来ているのだから文句も言えない。まして予算は限られている。
そして今回の慰霊巡拝の最大の目的地である摩文仁の丘へと向かった。この場所は、沖縄戦の戦跡と自然景観を有する国定公園である。そして戦跡としては唯一の国定公園である。
公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。日本軍による組織的抵抗は、同年6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了した。
沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」として例年この日には、摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。
炎天下の下、誰もが流れる汗を拭おうともせずに慰霊祭を挙行。まず国民儀礼の後に塚越、金森両ご住職の読経。その後、隠岐康団長による追悼文朗読、「海ゆかば」斉唱と慰霊祭を約一時間にわたって行った。なぜ国立墓苑で追悼式を行わなかったのか。それは、この「黎明の塔」から見える群青の海を参加者に見てほしかったからである。野村先生の遺志を再確認するためにも。終了後は、各自、出身県の慰霊碑に参拝してバスに戻った。偶然に森本防衛大臣の乗った車とすれ違う。何処に手を合わしたのか。大先輩が沢山眠っていると言うのに。
※慰霊祭を挙行。
※沖縄の守備隊である陸軍第32軍の司令官、牛島満、参謀長、長 勇両閣下の自決の場所で群青の海を眺める、野村先生のお孫さんのはるかさん。彼女の脳裏に去来するものは・・・。