コリン・モーガンがルパート・エヴィレットと出演するというので楽しみにしているオスカー・ワイルドの映画もあるところ、そのワイルドの代表作の一つ「ウィンダミア夫人の扇」ルビッチ監督/1925年の映画化が東京で見られるというので見てきました。
英国では「サロメ」と並んでワイルドの戯曲の代表作・・・とのことで、英国ドラマに引用が出てきたりするのでその内容を知りたい、と思いながらもなぜか今まで手を出せないでいたので、これは自分に強制着手させるのにいいチャンスだったわけです。
渋谷はシネマヴェーラというインディ映画館での上映で、BUNKAMURAのすぐ近くでした。ゴールデンウィークのせいなのか客席は同時上映の「ニノチカ」の段階で8割は埋まっていたという盛況ぶり。そして幕間に客層を見ると年配男性客が多いのにもびっくり。ガルボとかサイレント白黒映画とかワイルドとかのキーワードにひかれるのは女性という先入観がありましたので。そういえば古い洋画ファンという中年以上の男性の文章をネットで見かけるけれど、その3Dの方たちなのか・・・?!
中年男性を見直したところで、「ウィンダミア夫人の扇」が始まると間も無く、「ゴオォオお」というイビキも聞こえてきました。
・・・んだよー、おっさんにはやっぱり文化的なものは無理なんだよー
と心の中で悪態をついてみましたが、そう言う私も「ニノチカ」は途中から入場したこともあり、2、3度意識が飛んでいたのでした・・・その間に私が「ゴーーーッ」とやってなかったという証拠はない、と思った瞬間おっさんに同情せざるを得ない立場に。
そうだ、本題の「ウィンダミア夫人の扇」です。
戯曲を無声映画にー という段階でどんなことになるのかと思いましたが、時折出る字幕みたいな解説文だけでちゃんと話はわかりました。
ストーリー:夫の浮気を誤解したウィンダミア夫人が、かねてから愛を迫られていた紳士のところへ走ろうと家に行ってその男の帰宅を待っていると、なんと彼は自分の夫を含む大勢とともに紳士クラブから帰ってきた。その窮地を夫の浮気相手だと思っていた女性に助けられ、夫や社交界から捨てられるのを間逃れる。その女性はウィンダミア夫人の実の母だったが、昔愛人と駆け落ちして全てを失い夫人は母が死んだと聞かされて育ったのだった。
ワイルドが戯曲を書いた頃はヴィクトリア時代でしたが、映画は1920年代、当時の現代に時代が変えられていていました。とはいえ舞台はロンドンの社交界の中だけなので違和感はありません。
逆に、現代の映画/ドラマが20年代を再現するのではない、本物のアールデコファッションが見られてとても興味深かったです。ウィンダミア夫人は純粋な少女のような容姿でヒロインらしい清楚ながらもプリンセスのような衣装。アーリン夫人の方は、母ですから妙齢の怪しさとゴージャスさを羽のついた帽子や、足首の出る丈のドレスの時代に床に後ろが垂れる目立つドレスで表していました。
でも私がもっとドキドキしたのは、母=アーリン夫人のメイドです。あ、使用人ですが、ウィンダミア家は旦那さんがロードと呼ばれていたので侯爵か伯爵あたりなので、年配の男性が接客担当をしていました。彼らは執事やその上の家督など地位の高い使用人で、それに比べアーリン夫人の家を訪ねるとメイドが取次に出てきましたので、それも彼女がお金に困っていることがわかります。余裕のない中上流の家では家の仕事全般を1人のメイドがやっているからです。
それでそのメイドが、今でいうファッションショーのモデル並みに10頭身で、断髪ストレートの黒髪で、スカート丈も膝下くらいに短くて、ダウントン・アビーでも見たことのないモダンな装いの美女だったのです。アールデコのメイドという、メイドのヴィクトリアンなイメージからは離れる、別の萌え要素を知りました。
映画を見ている最中は、若いウィンダミア夫人の可愛らしさがスクリーンの華として楽しめました。
しかし後で考えると、浮かんでくるのはアーリン夫人の不思議な存在ばかりです。
まず映画を見てる時は、顔が好みでないし、その仕草が男性も女性も惹きつける魅力には溢れているのですが、その如才なさがひねくれ者の私には鼻について不愉快でした。
彼女は愛人のものに走ったはいいがその男に捨てられ社交界にはいられなくなり(映画ではそこまでわからなかったけどそういう設定らしい)経済的に困窮して、自分が過去に捨てた娘の夫にたかるというとんでもない女性ですし。
まあ当時の上流の人は働くなんて論外だったので、落ちぶれた時には人に頼るしかなかったのでしょうが、それにしても娘にはいい迷惑です。
しかもその娘に会いたい、と自分の評判はあまりよろしくないのに娘の誕生日パーティーに押しかけてしまう。
で、娘が過去の自分と同じ過ちを犯さないように救い、自分のことは娘に明かさずに去ったのは最後に彼女の印象を良くして映画が終わるのです。
が後で考えれば考えるほど、その娘の窮地は自分が招いたんじゃないかよぅ、というとことに戻ってしまうのです。
まあ、人生が人に恥じないことだけで済めばいいのですが、そうもいかないものですので、罪や間違いを犯しながらも、アーリン夫人のように商才と機知を活かして生き延びるのもありだと思うし、可憐なウィンダミア夫人が夫の愛を失わずによかったね、とは思いました。
100年近くも前の映画を見るいいきっかけになりましたが、競馬場のシーンなどは、今の豪華なロケに見慣れた目にはちょっと迫力不足に感じました。
何度も舞台上映と映画化されている作品ですが、これは是非好きな俳優でやってもらいたいなあ~とも思いました。キャスティング、ウィンダミア夫人に心を寄せるいい男のバーリントン卿を誰にやってもらおうかと考えるとしばらく楽しめます❤️
いつも目を丸くしてびっくりしてる夫人と、左は夫ではなくバーリントン卿。
英国では「サロメ」と並んでワイルドの戯曲の代表作・・・とのことで、英国ドラマに引用が出てきたりするのでその内容を知りたい、と思いながらもなぜか今まで手を出せないでいたので、これは自分に強制着手させるのにいいチャンスだったわけです。
渋谷はシネマヴェーラというインディ映画館での上映で、BUNKAMURAのすぐ近くでした。ゴールデンウィークのせいなのか客席は同時上映の「ニノチカ」の段階で8割は埋まっていたという盛況ぶり。そして幕間に客層を見ると年配男性客が多いのにもびっくり。ガルボとかサイレント白黒映画とかワイルドとかのキーワードにひかれるのは女性という先入観がありましたので。そういえば古い洋画ファンという中年以上の男性の文章をネットで見かけるけれど、その3Dの方たちなのか・・・?!
中年男性を見直したところで、「ウィンダミア夫人の扇」が始まると間も無く、「ゴオォオお」というイビキも聞こえてきました。
・・・んだよー、おっさんにはやっぱり文化的なものは無理なんだよー
と心の中で悪態をついてみましたが、そう言う私も「ニノチカ」は途中から入場したこともあり、2、3度意識が飛んでいたのでした・・・その間に私が「ゴーーーッ」とやってなかったという証拠はない、と思った瞬間おっさんに同情せざるを得ない立場に。
そうだ、本題の「ウィンダミア夫人の扇」です。
戯曲を無声映画にー という段階でどんなことになるのかと思いましたが、時折出る字幕みたいな解説文だけでちゃんと話はわかりました。
ストーリー:夫の浮気を誤解したウィンダミア夫人が、かねてから愛を迫られていた紳士のところへ走ろうと家に行ってその男の帰宅を待っていると、なんと彼は自分の夫を含む大勢とともに紳士クラブから帰ってきた。その窮地を夫の浮気相手だと思っていた女性に助けられ、夫や社交界から捨てられるのを間逃れる。その女性はウィンダミア夫人の実の母だったが、昔愛人と駆け落ちして全てを失い夫人は母が死んだと聞かされて育ったのだった。
ワイルドが戯曲を書いた頃はヴィクトリア時代でしたが、映画は1920年代、当時の現代に時代が変えられていていました。とはいえ舞台はロンドンの社交界の中だけなので違和感はありません。
逆に、現代の映画/ドラマが20年代を再現するのではない、本物のアールデコファッションが見られてとても興味深かったです。ウィンダミア夫人は純粋な少女のような容姿でヒロインらしい清楚ながらもプリンセスのような衣装。アーリン夫人の方は、母ですから妙齢の怪しさとゴージャスさを羽のついた帽子や、足首の出る丈のドレスの時代に床に後ろが垂れる目立つドレスで表していました。
でも私がもっとドキドキしたのは、母=アーリン夫人のメイドです。あ、使用人ですが、ウィンダミア家は旦那さんがロードと呼ばれていたので侯爵か伯爵あたりなので、年配の男性が接客担当をしていました。彼らは執事やその上の家督など地位の高い使用人で、それに比べアーリン夫人の家を訪ねるとメイドが取次に出てきましたので、それも彼女がお金に困っていることがわかります。余裕のない中上流の家では家の仕事全般を1人のメイドがやっているからです。
それでそのメイドが、今でいうファッションショーのモデル並みに10頭身で、断髪ストレートの黒髪で、スカート丈も膝下くらいに短くて、ダウントン・アビーでも見たことのないモダンな装いの美女だったのです。アールデコのメイドという、メイドのヴィクトリアンなイメージからは離れる、別の萌え要素を知りました。
映画を見ている最中は、若いウィンダミア夫人の可愛らしさがスクリーンの華として楽しめました。
しかし後で考えると、浮かんでくるのはアーリン夫人の不思議な存在ばかりです。
まず映画を見てる時は、顔が好みでないし、その仕草が男性も女性も惹きつける魅力には溢れているのですが、その如才なさがひねくれ者の私には鼻について不愉快でした。
彼女は愛人のものに走ったはいいがその男に捨てられ社交界にはいられなくなり(映画ではそこまでわからなかったけどそういう設定らしい)経済的に困窮して、自分が過去に捨てた娘の夫にたかるというとんでもない女性ですし。
まあ当時の上流の人は働くなんて論外だったので、落ちぶれた時には人に頼るしかなかったのでしょうが、それにしても娘にはいい迷惑です。
しかもその娘に会いたい、と自分の評判はあまりよろしくないのに娘の誕生日パーティーに押しかけてしまう。
で、娘が過去の自分と同じ過ちを犯さないように救い、自分のことは娘に明かさずに去ったのは最後に彼女の印象を良くして映画が終わるのです。
が後で考えれば考えるほど、その娘の窮地は自分が招いたんじゃないかよぅ、というとことに戻ってしまうのです。
まあ、人生が人に恥じないことだけで済めばいいのですが、そうもいかないものですので、罪や間違いを犯しながらも、アーリン夫人のように商才と機知を活かして生き延びるのもありだと思うし、可憐なウィンダミア夫人が夫の愛を失わずによかったね、とは思いました。
100年近くも前の映画を見るいいきっかけになりましたが、競馬場のシーンなどは、今の豪華なロケに見慣れた目にはちょっと迫力不足に感じました。
何度も舞台上映と映画化されている作品ですが、これは是非好きな俳優でやってもらいたいなあ~とも思いました。キャスティング、ウィンダミア夫人に心を寄せるいい男のバーリントン卿を誰にやってもらおうかと考えるとしばらく楽しめます❤️
いつも目を丸くしてびっくりしてる夫人と、左は夫ではなくバーリントン卿。