ネトフリが最近あまり見れてないのでちょっと契約を休んだのですが、その前に見逃しがないかとざっと作品リストを眺めていて見つけたのがこちらでした。
原作はスイス出身のデビッド・ゾペティの小説で、90年代に話題になったらしいし、当時の人気女優鈴木保奈美がヒロインなのだけど、私は小説も映画も全く知りませんでした。
「異文化」というブログのカテゴリーを持つうちとしては、これは見て感想を書かねばいけないような使命感に襲われたので頑張ります!(笑)
物語:
舞台は1989~90年の京都。スイス人の主人公は、日本の古都で常にガイジン扱いを受けるフラストレーションを抱えながら大学で日本文学を専攻していた。対面朗読のボランティアで知り合った盲目の若い女性/京子と恋に落ちたり、夏の暑さに耐えかねヒッチハイクで北海道に行ったり、通訳でヤクザと刺青の世界を見たりと日本の表裏を日本人よりも見る機会に恵まれつつも、大学では教授からトンチンカンな評価しかもらえず・・・
感想:
日本文学専攻の学生が朗読をするということで、森鴎外、安部公房、それにドフォルジュの背徳の手帖などが出てきて、それが違和感のない1990年代と言うよりも50年代までの日本文学や映画が持っていたような美しい日本語のセリフが主人公の口から語られる。
しかも、それがイギリス人俳優エドワード・アタートンによって。
まずここから私は混乱しました。映画の冒頭で主人公はスイス育ちで、家の外ではフランス語、家では英語とドイツ語を話していた、とありました。
すると3ヶ国語を話す人の耳は子音の聞き分けが自分の操る言語にある数だけできるはず。エドワード・アタートンはすごーく頑張ったと思う。だって一人称「僕」で綴られる話なので日本語のセリフの量がハンパない。
頑張ったけど、やっぱり英語訛りが入ってしまいました。もしフランス語ネイティブのキャスティングだったら違ってたと思うんです。フランス語の人の日本語発音の自然なことと言ったら、少しの間なら外国人だとわからないくらいの発音ですもの。
だけど本当に頑張りも評価します。よくある英語ネイティブの日本語アクセントやイントネーションは出さないように随分訓練されたと思われます。
スタッフにも、撮影は非日本人、それ以外にも日本以外で仕事をしたことのある人を入れて、客観的な(つまり主人公の)視点で日本を映像化するのに頑張ったのだな、と思う。
それで淡々と木々や桜などの日本の自然や家屋、銭湯、ヤクザの世界を絵のように切り取った映像が印象に残るように作れたのですね。絵と絵の間に真っ暗になる1秒の間をとったのもいい演出でした。
実際には狭い畳のアパート、ラーメン屋さん、カラオケ、一緒に写真を撮りたがる日本人、フィリピンパブ、大学の学生や教授(全員が敵のように見えた)などのごちゃごちゃした日常も出てくるのですが、美しい方の映像は見ている人も引き込んで共有できるように見せているのに比べ、ごちゃごちゃの方は外国人の目で見た世界という感じで出てくるので私にはあまり印象に残りませんでした。
原作は外国人による日本語の文学作品ですので、フラストレーションは感じながらも基本的に日本への大きな愛があるので、映画もそういう風に作ったのだと想像します。
脚本も原作に忠実にしたのだな、とは「1匹の兎、そして5人の学生と」という独白でも感じます。日本語ネイティブだと「兎1匹、そして学生5人と」という語順になりがちだからです。もっとも明治の日本文学だと翻訳調という文体もあるしその両方の雰囲気が感じられるかも。
さてさて、ではそろそろ内容へツッコミたいと思います(笑)。
美しい物語で映画なので、その分リアリティがありません。
だってね、ヒロイン京子は盲目、しかも電気が消えたりついたりしても反応がない全盲らしき。その彼女はどうも母一人娘一人で、お母さんも美人で綺麗に髪をまとめて着物を着ているんです。このお母さんは何者?!職業もお父さんはどうなったとかの説明はありません。
この母娘は東京から引っ越してきたとのことですが、古い一軒家に住んでいます。お母さんはお金持ちの内縁の妻なのかしら?着物の着こなしが自然だし高級芸者だったのかしら?
そしてなぜ京子がいくら小さい頃から盲目で慣れているとはいえ、「今まで娘が外国人と会ったこともないから留学生によるボランティアは友達を作る機会にもなる」と年ごろの一人娘を外国人の男とわざわざ友達になるよう仕向けたのか?
お母さんが2泊3日もひとり娘を残して外出するなんて放置しすぎじゃないでしょうか?
しかも娘とその男がテーブルを挟んでキスしそうになっているところに西瓜持って現れるんですね、絶対その状況に気づかないわけないですよ~!
とにかくそのお母さんの存在が私は気になって気になって、主人公にとっては目の見えない美しい京子が妖精のような存在だったかもしれないけれど、私にはお母さんの方がよっぽど妖精のように見えました。シェイクスピアの、恋のいたずらをするような。
そして私なりの本題です。
「王様の為のホログラム」だ。
西洋人の男が人生で壁にぶち当たり、異文化圏で異邦人として、現地の人にもとざされてるような世界も外国人だという特権で興味深い体験をする。しかし所詮は異文化圏に一体化はできない。そこへ異文化を受け入れる強さと賢さのある美女が現れ恋愛をする。
その彼女たちは好奇心旺盛だから異文化を受け入れるのだけれど、恋愛にもとても積極的。西洋人の男は美女を受け入れるだけでいいんです。これならば彼女と別れて自分の国に帰ってしまっても「蝶々夫人」にはならないでしょう?って声が聞こえちゃう。
男の美しいロマンだよね~と思いました。
あと、物語が1989年、明治の純文学の空気をギリギリ出せた最後の時代だったのじゃないでしょうか。
独白にも出てくるように、「まだドイツが二つ、ソ連も存在し、ネルソン・マンデラがまだ投獄されてた時」なんですね。(主人公はテレビでベルリンの壁が崩されるのをソワソワと見ていました。スイス近いもんね。ちなみに私はその頃ロンドンにいました)あの時代はまだPCもインターネットもなくて、大学の卒論が手書きです。(でもワープロはあったよね?あれは学生は使わなかったのかしら?私は卒論を書いたことがないのでわかりませんが)
あれから30年近く経って、この物語も古典のような香りがすでにするのです。鴎外のロンドンみたいな。
原作はスイス出身のデビッド・ゾペティの小説で、90年代に話題になったらしいし、当時の人気女優鈴木保奈美がヒロインなのだけど、私は小説も映画も全く知りませんでした。
「異文化」というブログのカテゴリーを持つうちとしては、これは見て感想を書かねばいけないような使命感に襲われたので頑張ります!(笑)
物語:
舞台は1989~90年の京都。スイス人の主人公は、日本の古都で常にガイジン扱いを受けるフラストレーションを抱えながら大学で日本文学を専攻していた。対面朗読のボランティアで知り合った盲目の若い女性/京子と恋に落ちたり、夏の暑さに耐えかねヒッチハイクで北海道に行ったり、通訳でヤクザと刺青の世界を見たりと日本の表裏を日本人よりも見る機会に恵まれつつも、大学では教授からトンチンカンな評価しかもらえず・・・
感想:
日本文学専攻の学生が朗読をするということで、森鴎外、安部公房、それにドフォルジュの背徳の手帖などが出てきて、それが違和感のない1990年代と言うよりも50年代までの日本文学や映画が持っていたような美しい日本語のセリフが主人公の口から語られる。
しかも、それがイギリス人俳優エドワード・アタートンによって。
まずここから私は混乱しました。映画の冒頭で主人公はスイス育ちで、家の外ではフランス語、家では英語とドイツ語を話していた、とありました。
すると3ヶ国語を話す人の耳は子音の聞き分けが自分の操る言語にある数だけできるはず。エドワード・アタートンはすごーく頑張ったと思う。だって一人称「僕」で綴られる話なので日本語のセリフの量がハンパない。
頑張ったけど、やっぱり英語訛りが入ってしまいました。もしフランス語ネイティブのキャスティングだったら違ってたと思うんです。フランス語の人の日本語発音の自然なことと言ったら、少しの間なら外国人だとわからないくらいの発音ですもの。
だけど本当に頑張りも評価します。よくある英語ネイティブの日本語アクセントやイントネーションは出さないように随分訓練されたと思われます。
スタッフにも、撮影は非日本人、それ以外にも日本以外で仕事をしたことのある人を入れて、客観的な(つまり主人公の)視点で日本を映像化するのに頑張ったのだな、と思う。
それで淡々と木々や桜などの日本の自然や家屋、銭湯、ヤクザの世界を絵のように切り取った映像が印象に残るように作れたのですね。絵と絵の間に真っ暗になる1秒の間をとったのもいい演出でした。
実際には狭い畳のアパート、ラーメン屋さん、カラオケ、一緒に写真を撮りたがる日本人、フィリピンパブ、大学の学生や教授(全員が敵のように見えた)などのごちゃごちゃした日常も出てくるのですが、美しい方の映像は見ている人も引き込んで共有できるように見せているのに比べ、ごちゃごちゃの方は外国人の目で見た世界という感じで出てくるので私にはあまり印象に残りませんでした。
原作は外国人による日本語の文学作品ですので、フラストレーションは感じながらも基本的に日本への大きな愛があるので、映画もそういう風に作ったのだと想像します。
脚本も原作に忠実にしたのだな、とは「1匹の兎、そして5人の学生と」という独白でも感じます。日本語ネイティブだと「兎1匹、そして学生5人と」という語順になりがちだからです。もっとも明治の日本文学だと翻訳調という文体もあるしその両方の雰囲気が感じられるかも。
さてさて、ではそろそろ内容へツッコミたいと思います(笑)。
美しい物語で映画なので、その分リアリティがありません。
だってね、ヒロイン京子は盲目、しかも電気が消えたりついたりしても反応がない全盲らしき。その彼女はどうも母一人娘一人で、お母さんも美人で綺麗に髪をまとめて着物を着ているんです。このお母さんは何者?!職業もお父さんはどうなったとかの説明はありません。
この母娘は東京から引っ越してきたとのことですが、古い一軒家に住んでいます。お母さんはお金持ちの内縁の妻なのかしら?着物の着こなしが自然だし高級芸者だったのかしら?
そしてなぜ京子がいくら小さい頃から盲目で慣れているとはいえ、「今まで娘が外国人と会ったこともないから留学生によるボランティアは友達を作る機会にもなる」と年ごろの一人娘を外国人の男とわざわざ友達になるよう仕向けたのか?
お母さんが2泊3日もひとり娘を残して外出するなんて放置しすぎじゃないでしょうか?
しかも娘とその男がテーブルを挟んでキスしそうになっているところに西瓜持って現れるんですね、絶対その状況に気づかないわけないですよ~!
とにかくそのお母さんの存在が私は気になって気になって、主人公にとっては目の見えない美しい京子が妖精のような存在だったかもしれないけれど、私にはお母さんの方がよっぽど妖精のように見えました。シェイクスピアの、恋のいたずらをするような。
そして私なりの本題です。
「王様の為のホログラム」だ。
西洋人の男が人生で壁にぶち当たり、異文化圏で異邦人として、現地の人にもとざされてるような世界も外国人だという特権で興味深い体験をする。しかし所詮は異文化圏に一体化はできない。そこへ異文化を受け入れる強さと賢さのある美女が現れ恋愛をする。
その彼女たちは好奇心旺盛だから異文化を受け入れるのだけれど、恋愛にもとても積極的。西洋人の男は美女を受け入れるだけでいいんです。これならば彼女と別れて自分の国に帰ってしまっても「蝶々夫人」にはならないでしょう?って声が聞こえちゃう。
男の美しいロマンだよね~と思いました。
あと、物語が1989年、明治の純文学の空気をギリギリ出せた最後の時代だったのじゃないでしょうか。
独白にも出てくるように、「まだドイツが二つ、ソ連も存在し、ネルソン・マンデラがまだ投獄されてた時」なんですね。(主人公はテレビでベルリンの壁が崩されるのをソワソワと見ていました。スイス近いもんね。ちなみに私はその頃ロンドンにいました)あの時代はまだPCもインターネットもなくて、大学の卒論が手書きです。(でもワープロはあったよね?あれは学生は使わなかったのかしら?私は卒論を書いたことがないのでわかりませんが)
あれから30年近く経って、この物語も古典のような香りがすでにするのです。鴎外のロンドンみたいな。