連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

血液疾患を合併していると

2019-01-22 11:11:14 | 日記・エッセイ・コラム

最も長い病歴は糖尿病

胸腺腫由来の赤芽球癆(赤血球造血が高度に障害されている疾患)は、手術直後は免疫抑制剤で治癒状態となった。

しかし、十数年経過後から、腎機能障害が認められ、薬剤投与量の減少のやむなきにいたり、

進行性に赤血球減少を認めるようになり、滴々輸血が必要となって、数年経過。

筋力の低下、歩行時疼痛がひどいらしく、整形外科にも通院中とのこと。

疼痛は投薬により、改善もせず、悪化しているとのことで整形外科医に訴えたとのこと。

帰ってきた言葉は、≪貧血があるからね!≫とのこと。

血液疾患を診療している私は、≪輸血後、痛みが和らぐとよいねと≫

心の中で私は、【血液疾患のせいにしないで、真摯に専門分野の視点から検討してほしい。相変わらず、東北地区の患者は、血液疾患に罹患していると、診療敬遠が続いているのか!!!!1】

他の患者も、≪インフルエンザと思ったら、先生のところに来たほうが良いですか?以前受診したときに、血液疾患の病名を告げたら、診られないと言われた≫とのこと。

 

仙台血液疾患開設のきっかけは、血液疾患が診療対象として敬遠されているのが一つとしてあった。

30年近く経過し、教授を要する口座が開設されて20年。

他の医療機関を受診して、いまだに、疎外感を受けるような対応の診療をうけているのかと。

主たる基礎疾患に配慮しつつ診療を勧めていかなければならないのは、血液疾患以外でも同じこと。

血液疾患患者が敬遠されるのは、頻度が少なく、知識量の違い、情報発信量の少なさのせいかな。

 

 


講演会に参加して疎外感を感じての雑感、

2019-01-19 14:17:44 | 日記・エッセイ・コラム

臓器別診療科に再編されるまで、

東北大学は、得意不得手の分野はあるとはいえ、第1内科、第2内科、第3内科はすべての疾患を診療対象としていた。

血液疾患は、第2内科、第3内科で、覇を競うというより、

第2内科は、腎臓疾患を合併する血液疾患、

第3内科は、悪性腫瘍から派生した白血病などを得意な疾患としていた。

臓器別再編成で、独立した診療科として存在している大学も多いが、他の分野との複合科として血液疾患は吸収された。

教授を擁立せず、複数の科に存在していた疾患を専門として医師は、複雑な立場に直面した。

秤量攻めよろしい事態も発生したし。

時間が経てば淘汰され、何事も知らない若い人だけになる。

引き続き診療を継続している患者関連の講演会に参加して、

3K的で敬遠されていた血液疾患を目指す若手が増えた。臨床に向かう姿勢は?などの感慨を覚えたが、

同世代の雰囲気が、社交性皆無。むしろ……。

世界中で、無益とされた脾臓関連の方法を、知らないがゆえに平然と質問したりしていて。

学問も、継続なく断裂すると、

 

 

 


リハビリテーション

2019-01-18 09:09:13 | 日記・エッセイ・コラム

日本医師会雑誌2018年12月号を読み進めています。

今仕事している病院は、入院中の高度障害者のリハビリから、外来通院患者のリハビリまで行っている施設です。

短期間ではありましたが、初期研修先の今は消滅してしまった東北大学鳴子分院でも、温泉プールでの機能回復、脳梗塞後の言語障害者に対するスピーチセラピーなどにより回復を体験してきました。

AIによる身体機能回復。AIのdeep-leraningによる身体機能発現。意志の発現レベルに到達しようとしているように思える。:NHK、Eテレ 人間ってナンだ?視聴で。

人間は、電気を発している。

目を当てることなく、身体の動きも止まり、外見から静止していても、細胞すべてが”死”んでいなければ、電気的動きはある。

取り出して、外に伝えることは可能。静止している人の存在を確認したいという人がいればという前提があるとは思うが。

死者を求めてさまよっている人に対してAIは、救いを与えられるのか?

至近な自分自身のリハビリについて。

五体満足、欠損部分無し。日常生活に支障のない身体活動可能ではあるが!

全身に起きた炎症後の変化のばらつきは、固縮を解きほぐそうとしているストレッチの成果にも差があって、

ストレッチ前にはできた動きにぎごちなさが出たりと、協調的動きにいたるまでの道のりは遠い。

くより直立に近くい姿勢が取った後、今まで働いていなかった筋肉が、体重を支えたり、動いたりで、筋肉痛、筋肉がつるのは、数時間後の就寝中だったり、翌日だったりで。筋肉が悲鳴を上げている、どうすれば治まるんだろうと、痛くて、つらい時間を耐えながら、矯正はやめようかなという思いがよぎるのですが、やらなかったとして、次に保証されるのは?と思うと平均的な荷重負担を獲得するまでと思い直して続ける。

リハビリ中の患者も、順調な回復の壁にぶつかり、もういいと思う人と、回復した自分をイメージをして耐えるかで、先が変わるのだろう。

壁もあるが、壁の先の回復の自分をイメージは、継続の力となると思う。

ゆったりしたお茶の手前をイメージして、姿勢の矯正のための筋トレ、ストレッチ、その後の睡眠障害をきたす痛みに耐えています。


愛おしい時間との際遇

2019-01-11 08:48:18 | 日記・エッセイ・コラム

記憶にある

笛の音色、集まって歌ったこと、お茶の香り、墨の香り、季節の花々を生けていたことなど、

愛おしい日々。

暇、閑な、拘束されない時間がなもてるようになり、時間の過ごし方を考え、

はやりの”終活”はしない(バッタ屋という仕事を患者からおしえてもらったから)ので、

下り坂の心身を考慮して、親しかったけれど、やらなかった、やれなかったことで始めたのが、

親元ですがした日々に、身近にありながら、親しまなかった

お茶。居まいで苦戦していますが、楽しい。

お茶の縁で、座禅会に参加し、東日本大震災チャリティー品を購入した縁で、

京都紫野大徳寺の塔頭、龍光院機関誌の”南游行”をいただいた。

さらには、龍光院の至宝の展覧会が3月にMIHO museumで、開催されるにあたり、ツアー参加を呼び掛けていただいた。

というわけで、積読してあった、”南游行”を発刊号から読み始めた。

漢字を紐解いての記載が満載!

”游”jは、遊ならず………。南と北は、南面、北面、方角に始まることから、拡がりが書いてある。

父との、漢字に関するやり取りを思い出しました。”淑子や、その字には……”活気にあふれていた子供時代ですから、長くなるともぞもぞ、心の底でお父さんはくどいからなど思ったりしたものでしたが、字の広がり、歴史を知る時間を過ごしたのでした。

出会いの中で、楽しい、愛おしい時間のよみがえりの中ですごせてる時間が増えてきました。


慰められたのか?

2018-12-27 10:36:41 | 日記・エッセイ・コラム

年末年始は、家族が集う感が漂う季節。

”子供がいても、頼りになるわけでもなく、良いことなどないから、先生は、一人で自由に充実した楽しい時間を過ごせるんだから” と私と同じ年頃の子供を育て上げた高齢の患者が話し出した。

慰めとして、独身の私にかけてくれた言葉かもしれないが、

子供から、長生きしすぎと言われたことがあったらしく、度々”長生きしすぎ。子供に飽きられている”と、受診の度に言う。

内心は、長生きしてほしいと、常に子供からは言い続けてほしいのだなと、察しては、診療のみとは言え、30年ほどの付き合い、しかも生死の境をさ迷ったことがある患者なので、家族の人となりもそれなりには知っているので、たまたま親に言ってしまってから、繰り返し周辺に喧伝されることとなり、ばつが悪そうな時を経て、最近はまたかとあきらめの顔つきを子供がしている。

今年94歳で亡くなった叔母は、「子供がいると、孫のことも心配ばかりしなくてはいけなくて。一人でいのよ」と度々言われた。

結婚、家族がいることをうらやましくも思っていないので、慰めてくれなくてもな………と思いながら、

常識的価値観の年代ギャップを感じたものでした。

結婚している夫婦は、それぞれの所有物としての認識に則た行動が粛々と実行されていないと破たんが生じそう。

日々、出会うこともなく過ごしている知り合いからは、年末を共に時間を過ごそうとの誘いも多く、

整理整頓に回す時間は、減り減りで、年越しをしそう。

気遣ってくれる人がいて、会えて、話せるのは幸せを感じて。

 


Vivisection:生体解剖

2018-12-14 08:55:37 | 日記・エッセイ・コラム

NHK Eテレ番組”人間ってナンだ?超AI入門” 老いる 編で、ニューロインパルスの画像を思い出して、思い浮かんだのがVivisecton,生体解剖です。戦中、感染させ生きているまま解剖した事例などが思い浮かび不快な響きを伴っていますが、

人体について深く知りたいという気持ちには、抗らえなかった、神さえも抑えられず、死体損壊遺棄罪の背景の一つなどと考えてしまいました。

エジプトのミイラ作成で、肉体については知り得た人々が古代からそんざいしていましたが、裸眼でしか見ることができなかった時代から、

病の基の変化を見極めるための観察手段としてより細かいことが見ることを可能にしてきた顕微鏡開発、光学顕微鏡、電子顕微鏡、位相差電顕、まだまだ。

人体深部を、超音波、CT,MRIによって可視化。

人体は通電体なので、電流を可視化。

生きたまま、生きた心の動きまで可視化。

肉体には、過去の履歴は刻まれている。分析はでき、未来への対策指針にはなる。

未来予測は、遺伝子を背景とした、血縁者、環境分析から。

完全予測は、不確定要素が多く確定不可能。確定できないから楽しいのでしょうね。


深く知ると楽しくなる;フロイデ、羽箒

2018-12-08 19:44:50 | 日記・エッセイ・コラム

楽しい1週間だったな!

サントリー1万人の第9合唱団の一人として参加2年目。

12月2日公演参加に向けて、今年は、佐渡錬に参加できた甲斐もあって、

歌詞のストーリーが、マエストロの指揮、オーケストラの調べに乗せられて歌えるほどに、理解が深まった。

世界中の人と、目的を同じうして道を進む、

道の先にある、神の扉を開けてもらえ達成感にみちての入場。

単に歌詞をなぞられえて歌った昨年との違いの満足感。

大阪城ホールに向かう途上の交通機関内で読み始めた

【茶の湯の羽箒 知られざる鳥の文化誌】下坂玉起著 

話題になってはいたのですが、本を持参し、お師匠様にお見せしたところ、

手持ちの羽箒を出していただいて、しげしげと拝見し、

炉開き後の炭手前で、羽箒捌きの練習が始まっていたのですが、

羽根3枚が重なっていることさえき気づかず(お茶を稽古している人に、会うたびに話して、炭手前の練習を繰り返ししてくれる社中が少ないこと、羽根が3枚になっていることなどもちろん知らず!)

柄の部分の竹皮仕様が、時代環境の変化により移ろってきたこと、

おもてなしの心に則った浄めの道具としての羽箒、道具に対する美意識など、

歴史的背景、環境変化などが交錯した、希求心の先の解明は、さながら探偵小説。

楽しい。

 

研究分野からは退くことを余儀なくされても、

気になっていた不分明が明らかになったときも、もやもやが晴れスッキリ楽しさには、携われなくなった自分の口惜しさも少し伴ったりするけれど、専門領域外は、新しい知識に出会えると素直にうれしい。

歳を加えて、次第に身体能力は衰えるが、

神経細胞が機能している限り楽しい毎日が続くのを実感しました。

 


老後

2018-11-29 09:45:48 | 日記・エッセイ・コラム

区の医師会で、互いに診療している高齢夫婦患者の話題から、

“認知症になる前に、やるべきことをやっておかないと!”、私より10歳も若!”いのに。

さらにもっと若いどうもの医師が、さらに若い同門医師が、悪性腫瘍で治療中との話も出てから、、老後の話にもりあがっていきました。

それぞれ、老後資金の計算、借金が無くて、自宅所有なら、年金に(大学病院で無給期間が長いと、年金が安いので)月20万円、あれば、十分では?10年だったら2千400万、20年だったら、30年だったらと。

人生の盛りで年数を重ねるのではなく、体力、知力を喪失しながらなので、………。

高齢になったら、適応力落ちるるので、慣れたことを続けるのが、認知症レベル低下に良いので、続けられる限り医師の仕事をしているつもりと私。

若手も、医師の仕事以外の時間の過ごし方、やりたくてやりたくてというほどのこともないし、などなど、よもやまばなし。

矛先が、私に向けられたので、老後について、

やっておこうと思うのは、死後直後の葬式関連で、戸惑いを生じさせてはいけないので、仏門帰依生前戒名のみで、一括して後始末してくれる業者がいるので、心向くままに生活し、整理整頓、掃除は日常レベルのみでと思っていますが、

縁戚関連には、価値ある大事にしていたリストぐらいは、わかるようにしておこうかなとは思っています。

家族による介護困難との判断から、突然見知らない老人ホーム入居となることに、違和感のある私は、

独身、独居あり長年住み慣れた自宅に、どちらかというと、生身の人間のお手伝いさんよりは、AIがいいな。

など、加齢に伴うよもやま話に盛り上がるうちに、

90歳を超えた先輩(老健施設の施設長現役バリバリ)から、お茶の稽古、お家元の名前の由来などについての蘊蓄を聴いているうちに、残り二人となり場の雰囲気を感じ退場。

 

12月2日大阪城ホールでの第9合唱に向けて、27日の事前レッスンの、マエストロ佐渡さんの言葉のイメージを反芻しながらそこそこ練習中。年末には、今年もTBSで放送するとのことで。

 

 

 


慌ただしくもない年末を向かえるにあたり

2018-11-27 09:28:47 | 日記・エッセイ・コラム

思いもかけず、長生きをした。しかし、

平均寿命まで、誕生から高校卒業までの年月があるのか!

現実の暦日に、思いを馳せると、体力は日々喪失という現実を念頭に、

意志を実現できる体力、意思を伝達できる知力を維持し、

現世から消滅出来たら。

父も、恩師も最期を看取ることになると思いながら、

不安な心身(外見は静穏そのものでしたよ)に接してくれていたが、

両親より、恩師より先に死ななくてよかった。

しばらくは、薬師如来さまのご加護の下で、仕事に励み、

これから先、釈迦如来さまの下で共に過ごしたいのはと自問自答して、

両親と恩師。

ときどきは、心ならずも先に逝かしてしまった患者と。

曼荼羅には、動物も描かれているが、共にはダメなのかな?

tora

 


学生時代は楽しかったか?

2018-11-24 10:54:39 | 日記・エッセイ・コラム

還暦を過ぎ、古希を迎える年になると、同級生だった人の訃報もあり、

同級会を開こうという声も出ますが、なつかしい?会いたい?と自問自答。

大学時代の記憶、婚約時代以後共に過ごした時間(父の反対で学生結婚にはいたらなかったのですが、感謝両親の心配は杞憂ではなかったことに感謝)の記憶が飛んでしまった日の恐怖の映像が残像として浮かび上がり………。

当人以外にも、恐怖を呼び覚まされる心理状況分析を繰り返しつつ、

婚約破棄、結納返却を申し出た、私の事情を理解せず、勝手なやつと思ってただろうし。

40年以上の時間が過ぎ、PTSDに伴う恐怖を引きずるのもと思い、年齢による忘却に身をゆだねることとして、

”友達って良いものだ”、””同級生は、懐かしみの中で愛おしく”思えるようになりたいもの。

仕事を始めてからは、多忙ではありましたが、楽しい思い出に満ち溢れ、

患者とは、恩師の思い出話に事欠かず、

子供時代も楽しく、

ほんのわずかな数年の学生時代のある一時に、引きずられない過去の出来事にしたいものです。

独身で過ごしてきた今のほうが、

自分を押し殺すことなく、自分の尺度の倫理観で生き抜いて来れたなと。


”共生する” 言うは易く、現実は厳しいかな?

2018-11-13 09:22:04 | 日記・エッセイ・コラム

7日のNHK番組ヘウレーカ―で、人インフルエンザ、鳥インフルエンザに感染するブタが、パンデミックにはなりにくい、インフルエンザと共存共栄関係にあると理解記憶してしまった(間違っていたらご容赦を!)。

本日、CareNetの記事、”本庶 佑氏が語るがんと共生する未来

 

国際社会では、自国第一主義を超え高に叫ぶ米国大統領が人気を博し、

ヨーロッパでは、難民入国拒否へと潮流は変わってきて、

社会での、入る者拒まず、共に栄える社会は壊れつつある。

人体では、外的勢力の侵入、棲息による利害はどうか?

長い歴史的時間の中で、微生物は、皮膚、消化管などに棲みついて、

人体を守ってくれている感さえある。

しかし、バランスが崩れる事態が発生すると、微生物個々の能力を発揮して襲撃、戦中は、発熱などの症状を人間は経験し、微生物は増殖中どうなっているかわからないが、微生物処理をしなければいけない人間には負担となりつつも、宿主(人間)は、対抗策を弄して、時に生を維持、時には死にまで至る。

無限の平穏な共生時間を維持は、双方の均衡維持があってこそでしょう。

外来異生物と、

人間細胞の分裂過程での変異から生じる悪性腫瘍とに対しては、

効率化、省エネ対策で、同じシステムで共生を図るのでしょうか?

自分は生きていない時代の、今ある知識での想像ですが、

胎盤の出現は、ウィルス感染をきっかけに突然生じたということもあり、何が起きるのでしょうか?

 


アートクリニック

2018-10-18 11:18:15 | 日記・エッセイ・コラム

通勤中の、エスカレーターで目にする”アートクリニック””。

何年前ぐらい前に、初めて目にしたときは、アートクリニックの生業は、絵画関連の施設かしらとの認識で、仔細に広告内容を確認し、産科、人工授精を主にした、産婦人科ということを認識するのにしばしの時が必要だった。

人生は短く、芸術は長いという、アートは、芸術という誤解に満ちた認識があり、

Art is long, life is shirt,

Vita brevis,ars longaという、ヒポクラテス(医術者)の箴言に出てくる一節からの引用なので、

arsは医術の習得には長くかかるなどと訂正されたりした。

その言葉理解の流れもあって、”アートクリニック”という、診療科の標ぼうの変化に、

”子は授かる”のではなく、意識的に子を創る時代になったのだとの思いを抱いた。

生命誕生、進化について科学的解析が進み、

人の意志で、生命誕生、体の改造を意識的に行える現実に、

自然の流れに身を任せたいなと、

古希という高齢に突入した自らの身体能力を鑑みて思うのです。


国技

2018-09-25 16:10:32 | 日記・エッセイ・コラム

刷り込みで、国技=相撲となっているのですが、

国技という字から、日本国を代表する”技”は、相撲でなくてもよいのではないかと思い、調べてみました。

日本国では国技を定めていない。

相撲=国技ではない。

所属する人たちが、声を大にして、国技だからと色々と格式、云々を言って、価値を維持しようとしているからにすぎない、相撲=国技は刷り込み!!!

公的には「相撲は国技ではないことがはっきりしてすっきりした。

 

日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件以後の相撲協会と貴乃花親方の”バトル”は、

相撲協会の、わからないではないが、スター温存など傾向、権力をかさに着た無言の圧力、問題の質の掘り下げ不足など、

再認識させていただきました。

スター性からいえば、現役時代から貴乃花のほうが、現理事たちより上だったように私は思い、理事たちの嫉妬感による、相撲協会の驕逸てき取り決め、締め出し画策のはての、貴乃花親方の引退、退職となったか。

貴乃花親方の夏場所での、アタックは、ストレスによるでしょうから、

命を大切に、捲土重来を期待したい。

 

 

 

 

 


看護師が患者を切れさせるのか?

2018-09-08 09:48:24 | 日記・エッセイ・コラム

朝の回診のために、病棟に到着後、直ちに

言葉をぶつけられた。

【患者が騒いで、何もできません。心が折れそうです。先生がやってください!】

久方ぶりに聞いたフレーズ。先生がやれ!

研究的処置を診療に導入していた時期、1980年代の骨髄移植を始めた、手探りた状態の看護では、無菌室の掃除から、点滴準備まで、宇塚先生ともども、先生がやれという看護師の要望に、医療レベルが低下しては困ると思い、医師がやりました。

しかし、現在勤務の病院では、革新的な処置指示などは出しません。転院前の処置の継続です。

今回の症例は、転院前の書面では、また、家族の話からも、問題行動が多い人とは推測できません。

入院初日、患者が興奮状態になった看護師は、今回言葉をぶつけてきた看護師でした。

入院日の、医師である私にかけた言葉の雰囲気は、命令口調、切り捨てご免的な言葉で辟易しました。

入院当初の興奮状態は、収まり、看護師からも穏やかという表現が出ていたのです。

看護師は、患者も人を見ているので、先生にはおとなしいのよという言い方をされます。

この患者も、目下は、興奮後の困憊状態に回診時間がぶつかっているのか、穏やかな状態に遭遇しています。

命令する側であった患者に対して、命令口調で、せっついて、朝のお勤め(検温、食事)を言われると、カチンとしてその後の一連の行動になっているのだろうと思ったりしています。

この若いはきはき、パリパリ系の看護師が、対応力は低下している高齢者、認知症と診断されている患者に、気長に対応できるようになってもらうには如何にすべきか。

ネットサーフィンで、

精神科看護師の患者看護師関係における共感体験”をみつけました。

今回にかぎらず、この病棟では、入院初日に患者が興奮状態になる症例が多いので、

看護師の患者に対する共感では、解決策にはなりそうもありません。

共感しようという姿勢は無いようで、直ちに転院要請が、執拗にされますから。

どうしたらよいでしょうかね。

 

 

 


認知症患者リハビリテーション病棟主治医になって思うこと

2018-08-21 14:15:14 | 日記・エッセイ・コラム

血液疾患を専門分野としていますが、

年齢を重ね、否応なく第一線からの排除感は否めません。

変わって、高齢者医療に携わらずを得なくなってきています。

認知症リハビリテーション料が、保健医療として算定されるようになっています。

もちろん、算定には算定基準があるようで、

認知症リハビリテーションに関して、十分な経験を有する医師の指導監督の下】という項目があり、

十分な経験に至ると認定される基準は?

ア認知症患者の診療の経験を5年以上有する者; 市井で認知症の診療経験がなく過ごせることはないのではないでしょうか!

      判定はどうするのか?

イ 認知症患者のリハビリテーションに関し、適切な研修を修了した者なお、適切な研修とは、次の事項に該当する研修である。

      内容については、6時間以上の講習を受ければよさそう。

認知症リハビリ患者検討会での、リハビリ後の患者の変化に対する内容が、高齢者の身体変化に対応した基準で判定したらよいのにと感じています。高齢、認知症者の、身体、心理、行動に対する理解、認知度が、医療側に不足しているからではないかと思い始めました。

論語の中に、孔子自身の人生を振り返った、人生観ともいえる有名な一説があります。 「吾、…… 四十にして惑わず。五十にして天命を知る。 六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず。」

新70、古希を迎えたのですが、身体反射は暦日に従っているようでも、論語のようではないと自覚しつつ、行動面では、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、にならい、分野外の学問、老年医学の専門家レベルを目指そうかな。