連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

お盆

2018-08-13 16:14:43 | 日記・エッセイ・コラム

お盆のお迎え前に墓参り。

墓は、自分の永遠の棲家となる所なのだ!と今年は強く実感しました。

どうしてなんでしょうか。

歳を重ねしなければならないことから解放され、期待もされなくなり、死ぬべき時が近づいたという、漠然とした実感というものかもしれません。

仏教、神道、キリスト教それぞれの聖職者が身近に存在していたので、宗教の選択を幼少期から意識しました。

神の存在を信じ、近づく道としての宗教として、

水豊か、気温は過酷ではない日本になじめる宗教、日々の生活に、先祖も、父母も共にいる所で抱かれたいと仏教を拠り所とくしましたが、家の墓を永遠の棲家と、心に沁み渡ったのは今回が初めて!

突然降って沸いたような心の変化で、明日から変わることがあるだろうか?

2回は、意識もなく死に限りなく近づくも、❰まだ早い。やることがある。❱と大きな手で戻された記憶がある。

今度は、大きな手を差しのべ手くださる時まで、出来ることをやりながら、死ぬ迄生きていこう。

 

 

 

 

仏教では、新紀元として戒名を授かる。


東京医科大学が女子受験者の点数を一律減点

2018-08-12 09:05:55 | 日記・エッセイ・コラム


医師46.9%「あり得る」 と、某医療系サイトのアンケート結果です。

女医の一人として、

入試段階での差別は、許せない。

卒後の進路については、

体力、ライフスタイルを考えずして、好きだからというだけでは、専門を決定するほど、愚かではないはず。

今回の東京医科大学の女性差別という視点には、”愚かなやつら”という、人格否定意識に根差していると思う。

医師の特権意識と、差別は、表裏一体ではと思う。

 

50年前の私の大学受験でも、偏差値、学校優劣判定などがあり、

合格直後ぐらいですね、合格という1点のみで評価していただいたのは。

親に対する、【女子なのに、よく医学部を受験させましたね!】という避難交じりの感嘆に始まり………という具合でした。

在学中、卒後の進路決定段階までで、

医学部内の女性差別の事情を呑み込めるような,機会は多くはなかったですが、

自身を見つめて専門進路を決定していったかと思います。

臨床と研究を並行する大学病院勤務は、

世界との競争を視野に、研究者として日々過ごす、

男女の差を超えた競争社会です。

だからと言って、門前払いは、根底に潜む感情を考えると、許せない。


そこまでやっているのか!東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制

2018-08-03 08:37:30 | 日記・エッセイ・コラム

東京医大の合格水増し入学に端を発して、東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制 までも、表面化してきた。

私立大学の、裏口入学は、寄付金額の要請などから、必要悪として知る人ぞ知る事実。

文部科学省職員、国家公務員が、権力と、公金を盾に、子息の入学便宜となると……。

派生して出てきた、東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制 の根底意識は、長らく大学病院に在籍していた身としては、さもありなんと納得してしまう現実を経験済みです。

個人的な体験として、卒業間近の身近な人からの恐怖と人格否定の体験は、50年近い年月が経てもPTSDとなっているのですが、その原因となっている人は、医学会の権威者として君臨しているという世界でもあります。

助手任用については、恩師が、学外に問題提起をすると、学部長に直訴し、当時の教授に認めさせて、やっと助手になれたいきさつも経験してきました。

その後も、パワハラを受けましたが、今は、女子大学でのびのびとしています。

男尊女卑の背景は、男女機会均等という錦の御旗が掲げられても、権威社会での一掃困難な日本。世界の比較での数値で、下から何番目というデーターが物語っている思います。

 

医師は、労働者としてではなく求められ、美辞麗句の果ての、都合の良い労働時間の規制がなく働くことが当然という風潮。

研究分野では、トップをきることに駆り立てられる。

女性医師は、自分にあった生活スタイルを数倍の努力で要求し続け、

その先に、将来の女性医師が、男性医師と同等の立場が望めるようになることを望みます


体と脳のずれ

2018-07-28 13:53:41 | 日記・エッセイ・コラム

姿勢が良くなり始めたころから、歩き始めるとフラフラ感が。長年の姿勢と違うので、適応できないせいkな?!とは思っていたのですが、

7月4日の又吉直樹のヘウレーカの中で、

【理性とは違うところで,  私たちの脳ははんだんしている】と

コンピュータビジョンの権威である杉原厚吉氏の、発言を聞いて、視覚の錯覚とは違うが、

フラフラ感に対して、私見ながら納得した次第。

 

ゆがんだ姿勢が普通で過ごした期間が長かったので、

まっすぐに立つことができ、顔の向き、両肩、骨盤、足指の位置がほぼ平行で、

頭の位置が、一歩ごとにぶれずに、交互にリズミカルに足を出すことに慣れていず、

全体の適応ができないからフラフラ感を伴ったのだ!

フラフラ感に対して、小脳に何らかの病変が出現したのかと、神経学的検査を自ら行ったり、

無症状の脳血栓の後遺症かなど、CT検査まで頭に浮かべたのでしたが、

ヘウレーカ後、納得したのと、姿勢が良くなって歩けるようになった期間も長くなり、

脳の判断も、修正してきたようで。 

 

48年前に、両手の腱鞘炎から始まり、全身に拡大した結合組織の炎症は、

10年ぐらい前、太極拳の誘いを受けた数年後から新たな激痛、発熱を伴う炎症は治まったようだ。

炎症後の治癒過程で周辺組織との癒着で、姿勢のゆがみが生じていたのは、

2002年、太極拳を始めて先生に指摘されるまで、全く認識していなかった。

いただいた万歩計をつけて歩いても、歩数がカウントされない不思議は、振動は痛みを伴うので、滑るように歩を刻んでいたのだろうと推測をしたりしていた。

”こんなに姿勢が悪い人に初めて出会った!!!”と先生に驚愕されて、

改めて自分の立位を見回し、

顔が正面を向くための、肩、腰の位置は、右回転前方に、

右股関節は、炎症後の癒着著明で、後方進展不可で、

回転姿勢を保つために、右下腿の内側の筋肉はないというに近い萎縮状態。

背中の背筋は、背骨の左側は、これまた認められず、

車いす生活を覚悟はしてたのですが。

先生の協力の下で、姿勢の矯正を始め15年目にして、

意識すれば、顔正面、両肩正面、骨盤ほぼ正面で立つこと可能になりましたが、持続するにはいたりませんでした。

今年になり、各段に姿勢が良くなるに伴い、別の経験したことのない感覚が出現。

良くなったからと言って、全体が良くなるものではないと、日々実感しているところです。

 

 


公的年金の支払いと受け取り

2018-07-21 08:50:00 | 日記・エッセイ・コラム

60歳を超えて、年金を受け取り始めても、収入があれば、70歳までは年金を納める!!!

 

加入してきた年金は、

日立製作所付属病院の勤務は、1年8カ月という短いものでしたが、”企業年金…”から通知、支払いがあります。

東北大学在職中は、非常勤医師時代の厚生年金を経て、

         国家公務員に昇格後は、国家公務員共済年に加入。

宮城学院に転職してからは、私学共済に加入。転職時、60歳まじかでもあり、

事務職員の懇切丁寧な協力のもと、受給年齢60歳に達して年金を受け取る手続きをしました。

当時は、学生時代からの罹病で、長生きできそうもないから60歳になったら受け取ろう!納めるだけで、一銭も受けとらないで死ぬのもな!?と、手続きをしました。今は、仕事があり、年金受け取り繰り下げできる健康事態にあるのは幸せと考えられるようになっています。

手続き直後は、確定年金の支給がありましたが、まもなく、一定の収入がありますので、支給できません。繰り下げ手続きをしてください。という連絡が、年金機構から度々送られてきますので、繰り下げ手続きをしています。満額受け取りは、自らしないと受け取れないという添え書きに、認知機能が低下したら面倒な手続きしないのではと内心心配しています。

今年になり、宮城学院以外に勤務している病院の移転に伴い、職員の年金加入状況などの調べがあったようで、

経理の職員から、【国側から、相応の時間勤務、収入があるので加入していないのは、病院側の負担を避けるためではないかとの指摘がありました。さかのぼって、罰金などの措置を受けたくはないので、病院に加入するべく変更していただけませんか?】と、お願いがあり、宮城学院は、近々退職となるし、これから先も長く勤務するのは病院の方だからと、承諾しました。その後は、

私学共済の退会。これに関しては、なんとかスムーズに進行中ではありますが、提出書類に戸惑いつつ、書類を引っ張り出しています。

病院側からの給与支給明細を今月詳細に眺め(東北大学病院勤務中から、多忙で、月給日、内容に全く無関心といいますか、見たいという気が起きないほど疲弊していたのかもしれませんが!)、厚生年金が引かれていました。減額されたとは、わずかですが厚生年金の支給を既に受けています。はてな?はてな?で、経理の方に質問し、70歳になるまでは、厚生年金は納める義務があるとのことで、これまたびっくりでした。

支給されながら納付する!受給年金額が。増えるのでしょうか?

受給年金は、企業年金、国家公務員共済年金、私学共済年金、厚生年金となるのでしょうか。

厚生年金と、厚生老齢年金は別物?

65歳超になり、いろいろな部門から締め出されているので、費やさなくて済むようになった時間で、目先の仕事の質を高めるための学習以外に、システムについても知識習得して、人任せ、言われるままに手続きをする姿勢から、内容把握の上行動していこうと思った次第。

お金を使わせよう、巻き上げようとする、誘い、呼び込みに溢れていますから。

 

 

 

 


時間が止まる

2018-07-15 10:30:19 | 日記・エッセイ・コラム

西日本豪雨災害発生から、何日経過したのだろう。

北海道でも、中部地方でも豪雨に見舞われたことから、気象庁は”平成30年7月豪雨”と命名したという。

大雨特別警報が、6日に出されたときは、災害はすでに発生していたのか?

行政側、住民ともに、常とは異なる状況認識の遅れ、

かねてから危険は、察していても、対策に膨大な資金調達が必要だと、

災害発生後に。後で、後でで災害発生。

災害後の現実に直面した方々は、

日々時間は過ぎていっても、止まってしまった時間と同居しているのではないでしょうか。

あまりにも急で、ゆめか幻か、災害以前の日常の喪失は受け入れ難い中で生きているのでは。

これから引き続く長い困難に、頑張りすぎず、時の流れに任せ、心、体を病まれずに、打ち克たれますように。

 

 

 

 


多発性骨髄腫(MM)の個人表を取り出して

2018-06-22 11:34:30 | 日記・エッセイ・コラム

多発性骨髄腫の治療は、2010年に入り、治癒が論じられる時代がきましたが、

仙台血液疾患センターの化学療法のみの結果を投稿しようと、

2017年12月病院取り壊し時に何とか持ち出した個人データーを抜き書きした個票を眺めています。

仙台近郊の方のみならず、口伝で評判を聞いた方が、首都圏などからも治療希望で来院されたました。

知り得た情報から、なんとか家族のために生きていたい、家族も一緒にという必死さが、個票を見ながら思い出されました。

化学療法のみが唯一根治を望める時代に、さんざん治療し、見放された状態になり頼られても、難治、薬剤耐性になってしまった状態は、打破できない!もう少し前に来院してくださればと臍を噛む思いを抱いた人も……。

1970年前半に、ギブスベッドに入ったっ患者が整形外科から転科した患者が、化学療法後、自力歩行可能となってから、多発性骨髄腫は内科疾患と、整形外科の一人の先生が認識してから、骨折し、MMと診断がつくとすぐに紹介してくるようになったんだと宇塚先生は、話していました。

東北大学第3内科、仙台血液疾患センターでは、多発性骨髄腫患者の入院は、急性白血病とは異なり、合併症も少ない,手のかからない疾患、患者との認識でした。

臨床成績も、信頼に応えてきたと自負しています。

個票を見ながら、2010年代以降、新機序の薬剤が開発され、市場に投入されています。

化学療法をベースとして腫瘍療法減少後という治療スタンスは1970年代以降と変わりませんので、

我々のサイメリン(MCNU)、エンドキサン(MCNU)、メルファラン、プレドニンによる化学療法は、ほとんど合併症が起きず、輸血例も極めて少なく、抗生物質の使用もほとんどなかった。

情報発信力が弱かったので、流布しなかったのですが、私たちの臨床成績以上の成績をあげなければ、現在実施され、検討されている高額の医療費に、見合わないという気持ちを込めて、目下、データと格闘しながら投稿に向けて蝸牛の歩みを続けています。

 

 


ジェンダー

2018-06-10 08:47:42 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、東北大学第3内科開校00周年記念式典が、同窓会尚仁会総会で執り行われました。

日頃は、女子大学で教鞭、臨床医としての日は、ほとんど女性の看護師という生活環境のなかで、

会員はほとんど男性であることに、ジェンダーを思い出しました。

セクハラ、パワハラ、アカハラ満載であった東北大学附属病院時代でした。

今は、医学部入学女性比率は40%に達しようとしていますが、厚生労働省の女性医師の年次推移からは7%ほどで、http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000069214.pdf#search=%27%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E5%85%A5%E5%AD%A6%E7%94%B7%E5%A5%B3%E6%AF%94%27

数の少なさは、大勢を占める力に押しまくられる、パワハラも加わってきます。

久方ぶりの女性医師を迎え入れた医局では、”女性”という珍獣扱いで、恩師の言葉”女性が居にくい雰囲気は無視して!”を、思い出すことしばしでしたし、また、検査部への結果問い合わせでは、当初はぞんざいな言葉遣い、やり取りで看護師ではなく医師であると気づいた途端に言葉遣いが変わるという看護婦(当時は看護師ではありませんでした)蔑視を言葉遣いで表現していましたし、作業着は、聴診器をポケットに入れた診察衣名の一見して区別可能なので、患者からは ”女医さん!珍しい” シャワーを浴びせられました。

グループの長は、研究費の獲得が断トツに多く、教授が変わった直後で、研究費の配分を巡っての争いに巻き込まれ、”教授は大名だ。従わないものは、辞めるしかないな” と、教授自らの言葉に驚愕。この後の長い、血液グループへの嫌がらせの始まりでした。しかし、瀕死の患者の前では、圧力に屈しない力を得られるもので、また看護婦は、患者優先でしたので、診療多忙が、医局に留まる力を与えてくれました。

セクハラ、満載の時代で、しばし後に、同じ専門領域を志す後輩女性医師が入局し、講座内の実験区域外の居住スペースに留まる留まる時間ができ始めました。

血液グループに対する教授パワハラは、世間にも知られるようになり、恩師宇塚善郎先生の下で、白血病の研究、臨床と考えた若き医師が入局を断念し、他の大学に入局しました。

講座の改変時も大変でした。

ナンバー内科、外科時代は、同じ研究分野を複数の講座、科していましたが、

講座改変、臓器疾患別の移行時も大変でした。病床数の分配にあたり、1実績から第3内科血液に対して15床の割り当となり、

駆け引きがありました。

今では、病床利用は、空床を減らし、稼働率を上げるために、流動的で、各科の使用が当たり前となっている現在では考え難いのですが、

予算配分に絡むことだったので、大変でした。

第3内科系列で診療を継続し、私の退職と共に第3内科血液は消滅という道を選択しました。

今日は、時の日で、河北新報の【うたの泉】の 佐々木幸綱 師の一首

火も人も時間を抱くとわれはおもう  消ゆるまで抱く切なきものを 

気持ちを代弁してくれる一首です。



お終い。しまう。

2018-05-26 16:02:31 | 日記・エッセイ・コラム

5月23日、仙台血液疾患センターとして建てられた建物は無くなりました。

起工、開院された恩師宇塚善郎先生の、祥月命日5回忌の朝にあった非常階段も夕方には取り払われました。

昨年末の12月14日昼に、患者の移送が終了後は、おしまいとしての人が出入りするだけでした。

建物を利用したいという人がいるらしいというのは噂だけで終わり、

市街化調整区域内で建設が許された医療機関としての引き取りては無かったのでした。

仙台血液疾患センターは、1991年5月1日開院、2013年2月28日閉院しましたが、医療法人としての廃業は、いまだ、宮城県の医務課から許可されていません。廃業に向けての種々の手続きは、弁護士に一任しているので、法人消滅を止められているのは、県からの通達だということを知るのみです。

廃院後5年の経過中、法人廃止手続きについて弁護士に問い合わせていたのですが、虚しくなり、問い合わせをしなくなったので、”未だしているし存続している”のを知るのは、税務署からの確定申告用紙が送付してくるからです。

終わることの大変さを、実感しています。

映画の予告で、館ひろし主役の”終わった人”で、退職は生前葬だなという大きな字は、

入院患者引き受け中止後、患者の急変待機で、年中、四六時中拘束から解放されたことによる、よるべなさ、いかに自主的に時間をやる過ごすかという現実に直面し、戸惑ったのを思い出してしまいました。

書き残した、医療データーを整理しては、投稿し、

幼き頃から上達を夢見ていた、笛、お茶の稽古を始め

専門分野での研究とか、医療業務に従事の道は締め出されている現状はあるものの、

臨床医としては、外来のみで対応可能な血液疾患患者の診療も、高齢患者対応分野の医療業務も、自らリタイアしなければ従事していられる、幸運な環境にあります。

始めの仕事は、次はとかとか執着した行動をとることが多かったような気がしますが、

古希まじかの今、毎日の過ごし方の気持ちが我ながら不思議です。

 

SBDC 解体顛末

6月5日 かきねなく つちあらわれて がれきのみ うえこみきぎの ねかぶもともに

6月13日 すいでんと ついじのさきは かわむこう くまののやまが ひろがるのみ


アメフト悪質タックル日大対応

2018-05-24 09:25:52 | 日記・エッセイ・コラム

スポーツは、勝負をかける戦いの場ではあるが、

選手の安全性を担保してこそ、日常の中での戦いを維持でき、次の戦いの予定を設定できる。

今回の件での、監督、コーチの態度は、勝つためだけの指導のみにたけた、日大という高等教育機関に序属しているが、教育者としての片りんもうかがえない態度に終始している。

指導者、教育者は、教え子のでる行為が、趣旨と反する行為であった場合、伝達能力の未熟さ指導者が自ら深く反省して、次にはどうしたら伝えられるかという態度がにじみでるが、内田監督は指示していません、井上コーチは、言葉の受け止め方が、宮川選手は異なり、今回の悪質タックルになったのだという言い方で、選手のせいにしている。そのような受け止め方をせざるを得ない環境にあったことへの反省が全くない。というか、自己弁護、言い逃れに終始し、潔くない。

悪質タックル発生後の、日大対応は、日大の教育機関のレベルとの判断根拠となるのは当然で、信頼回復は容易ではないでしょう。


年齢順に見送る幸せ

2018-05-18 09:31:55 | 日記・エッセイ・コラム

2017年の平均寿命は、過去最高で、男性は80.75歳、女性は86.99歳と厚労省の報告にある。

見送る側の悲しみ、寂しさは、逝去年齢に関わらないが、

止む無しと死を受け止めなければならない年齢での見送りはある。

残されたものより若く、次代を担う年齢での逝去に遭遇したときは、悲嘆にくれる。

急性白血病の治療を専門として臨床に従事してきて、治癒かなわずっ先立って行った患者。

今でもこの世に心残して逝っただろうと、日々の回診の中での患者の姿を思い出す。

塗炭の苦しみの末根治した患者には、白血病の再発はなくても、

年齢不相応な、一般疾患の罹患は、気にかかる。化学療法の影響ではないのか?

心筋症は、1960年代から因果関係を問われ、研究を進め、あるレベルで把握できている。

血管病変については、短期的な研究では、少ないという報告がったと記憶している。

治療に伴う、食思不振期間を考慮してはいなかったかもしれない。

悪性腫瘍から治癒した人は増加してきているので、血管病変との因果関係もデーターとして把握し、予防策につながるデータを期待したい。

 

人事を尽くした後、病脳期間短く、平均寿命で世を去った両親、恩師宇塚善郎先生にも最期の日まで寄り添うこと可能であったという年齢順の逝去を見守れた幸せで、次の自分の死を、心穏やかに受け入れられている気がする。

年齢相応、年齢順に見送るのは、心の平安にはとても大事。

 

 


セクハラ、パワハラ、アカハラ

2018-05-13 10:20:09 | 日記・エッセイ・コラム

今年古希を迎える、旧帝国大学の医学部に入学し、国立大学病院に長らく勤務してきた、女性です。

大学進学率は、15%ほど、女子は5%ほどでした。

意識すれば、セクハラ、アカハラ、セクハラ満載。近寄らない、避ける努力が欠かせませんでしたが、そうもいかない場面も多かったです。

入学早々から、

【女の子なのにどうして大学に入ったの?】【女の子なのに医学部?】

    進学競争のなかで、合格可能として高校から推奨され選択しただけなので、世間の”女の子なのに!”に、驚き、

    ≪おんなのこだから≫なんて考えもしなかったね、と女子学生同士話し合いました。嫌な感じでした。

 医師として働き始めてからも、【女医さん!】不快な響きで言われること多く、

 入局後は、秘書さんなどわずかに女性はいましたが、女性医師の入局は久しぶりで、肩身の狭い、居ずらい環境。

専門として専攻したのが、多忙、壮絶な敬遠される分野で、人手不足甚だしく、指導者一人に下働きの私だけという環境で、恩師は、姉妹、従姉妹も多いためと、人手不足のなかよくぞ加わってくれたという人力として接してくれたので居心地はわkるくありませんでした(忙しすぎて!)。

セクハラ、パワハラ、アカハラはそれなりに多々経験。

男性感覚がはびこってきた分野は、女性が増えることにより、不快を高らかに、力強く発現し、攻め続けないと変えられない。

男性にとっては、不快でもなく、攻められることもなければ、特権として享受し続けるのは確実と思う。

男女の違いを、優劣認識から脱却させるために、

次世代を生み出す女性が不利にならない社会環境、システム

深層に潜む優越意識、肉体的強者意識を変えるのは時間がかかるだろうが、

絶え間なく、着実な変化を求める意識あってこそ、理不尽な意識を根絶やしにできるだろう。

 

 


介護施設に笛を聴いていただく!

2018-05-01 09:12:04 | 日記・エッセイ・コラム

大型連休初日は、美里町にある介護施設【まりちゃん家】に、仙台NHK文化センター教室“定禅寺笛の会”のメンバーとお師匠様と連れ立って訪問してきました。

休日だったので、居宅している20名の方が、大広間で待っていてくれました。

番傘を左右に配置し、その間をステージとし、人数分の譜面台を設置し、5分ほどで終了。

こんな近くで、音楽聴くの初めてなど楽しみにしてくれている気配もあり、40分ほどの演奏時間だけど飽きないで、いてくれるかしらと、お師匠様の事前のコメントは、”下手の時の反応はすぐでるから!”のフレーズがちらっと頭に浮かびました。

年齢を想定し、知っている曲で、一生に歌える曲を主にという作戦勝ちでした。

しかも、施設側で歌詞を準備してくださっていて、全員ではありませんでしたが、曲に合わせて、手拍子してくれたり、歌ってくれました。

さすが、地元民だねと、上手!と感心したのが、”さんさ時雨”。

お師匠様は、祇園小唄とさんさ時雨では、三味線を弾いたので、興味シンシンの様子。

お家元が、季節の曲と言って、"こいのぼり、せいくらべ”を演奏したときの反応は、

歌詞の事前配布がないだけではなく、うまい、美しい笛と言って聞き入っていました。

施設からのお礼としてと、最高齢の96歳の方が、ミュジーックスタートとの掛け声で、カラオケボックスのスイッチを入れて”娘よ”を歌ってくれたのでした。

現在、臨床医としての対象は、外来通院可能なレベルの血液疾患の診療(かっての年中無休、患者の状態レベルに合わせて、病院滞在継続していた急性白血病とは様変わり、

高度障害者、リハビリ必要な疾病罹患者です。

病院での診療なので、高齢者の集団居住空間を訪問するのは初めてでした。

開設は、2016年秋。

施設入居後亡くなられた方の、遺影は、大広間入り口前の祭壇に飾られていました。

入居者の状態は様々で、自力で動き回れる人、車いすに乗っているは人、車いすの乗り方も様々でした。

この世との別れが近い人を感じながら、いずれはと思いながら、祭壇の前を通り、

毎日の、食事を大広間で食べていられるのだなと、

改めて、仏壇の遺影に見守られながらの、食卓の風景と重なりました。

デイサービスに通っていた高齢者が、”ピンピンコロリ”と繰り返しながら体操をするのに驚きましたが、避けて通れない状況を受け入れるてもらうという、考えが広く静かに広がりを見せていることの一環かなと思いました。

演奏したのは、

越天楽今様→朧月夜春のメドレー(早春賦、どじょっこふなっこ、春が来た、春の小川)最上川舟唄→さんさ時雨→祇園小唄→つむぎ歌→瀬戸の花嫁→浜辺の歌→山さくらの歌→あざみの歌→ゆうやけこやけ→花→ふるさと→荒城の月  鯉のぼり、せいくらべ

下線は、歌詞を配り、今回の聴衆、演奏しない出演者で合奏した曲目。


警察官射殺≪叱責されたから≫

2018-04-13 08:46:58 | 日記・エッセイ・コラム

派出所で、警察官が射殺。しかも、勤務中の新人とは言え警察官による射殺。

逮捕直後の供述として、”叱責された””、とか””罵倒された”との理由との報道に驚愕の思いと、

今の若者だったらありうるかなという思いです。

10年少し前から、大学の教員として勤務している(それ以前も、大学で教職をしていたのですが、医療現場という特殊環境、元気溌剌な学生と対応しているよりは、気息奄々とした患者に接していたので)なかで、

期末試験後、再試験に該当した学生が、部屋を訪問してて、

再試験は納得がいかない!(学生で、納得がいかない!はよく使っているようです)とのことなので、

本人の採点後の答案用紙と正解答案を確認させ、

その時は、100点満点中27点だったので、”点数悪かったから再試験になったのよ”と、話した直後に(この一言だけ発したのみ)、

【わたくしはできない学生じゃない。管理栄養士になりたいわけじゃない】と大声で、詰め寄ってきたというか、

きれたという表現が適切な状態になり、驚いたけけんがあります。

現在の、子供の発育環境で、注意されたり、叱責することに全く慣れていない。

ほめられ、おだてながら、夢を持ちましょう、夢に向かってすすみましょうなどと、言われて育てられてきているので、

出来ないことを指摘されるのに慣れていない。

その対応は、しょげて、泣く、ときには泣きわめく、またときには、暴力的になる。

その暴力は、肉体表現を伴うこともあれば、言葉巧みに、相手を非難する世論を盛り上げたりと、自分の防御を伴いながら相手を攻撃するなど。暴力の結果は、想定できないようで、そのつもりではなかったと言い張ることができる。

拳銃を持つ前に、警察では、拳銃を持つことの意味を教育後の勤務というが、

倫理道徳観を、1か月で獲得する困難さを露呈した事件。

増えてくるかもしれないという、空恐ろしさがあります。

 

 

 

 

 

 


職住接近が良いですね!

2018-02-20 13:39:36 | 日記・エッセイ・コラム
週5日は、徒歩圏の職場。あと2日が、通勤往復で3時間であったが、
12月中旬に、病院閉院、新規開院の病院に移動。
連日、通勤3時間。
最も混雑する、仙台駅で地下鉄の乗り換え。
1月23日の雪。
呼べども来ないタクシーに変わり、雪中歩行。いつもでも50分、雪で20分余計だっただけど。
その後も、寒く、雪は解けず、連日、雪、凍結通勤のストレス、大!

通勤は 長くなりたり 3時間 引っ越し雪で 疲労困憊
お点前も 着物着付けも 篠笛も 時間取れずや 日々の研鑽 
時間なく 頭の中で イメージす いぜお点前で 体動かず

期末試験の採点も終了し、ほっと一息で、目も、開けがたい、わが体の現実に愕然。
通勤時間が身近っかったらな!
東京都心では、当たり前なのかもしれないと考えると、
都会生活者の、体力に敬服するとともに、知らず知らずの蓄積疲労が気がかりとなった。