連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

「私はこの、レイピストである俳優(高畑祐太)の母の涙は理解できません」 ジェーンさんからの電話  記事を目にして

2016-08-30 10:30:41 | 日記・エッセイ・コラム
「私はこの、レイピストである俳優(高畑祐太)の母の涙は理解できません」 ジェーンさんからの電話
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ogawatamaka/20160829-00061632/
を目にして。

高畑祐太性犯罪者の事件報道が、
ふつふつと思い出した、親子二人で出演していた番組の、高畑淳子氏の態度から、今回の高畑祐太加害者の行動規範は、母親の一因あると思う。
ピッタンコカンカンでの、高畑淳子さんが、安住アナウンサーに、からまってゆく態度です。

思春期からの男性は、異性への行動は、ホルモンの影響を強く受ける。
体力的優位性を持つ男性の、性的要求に赴くままのの行動は、自由で、平等な社会では最も嫌悪すべき、恥ずべき行為である!との教育を欠如した人物。
人間関係は、家庭、学校、の在り方から、本人が身につけていく。
今回の、高畑祐太の行動は、家の責任、高畑淳子氏の責任を問わないまでも、擁護、責任免罪風潮はもってのほかと思う。

異常時の心理:台風9号最接近時

2016-08-23 09:24:33 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、午後6時半から午後8時半までは太極拳の練習日
台風9号は、仙台には、午後8時ごろが最接近という予報がある中での練習日。
まず、いつも同乗させてくれる友人は、台風が来るからと練習参加は中止。
次第に雨脚が強まる気配の中、自転車を駆って向かう。
先生は、いつもはバイクだが、駐車していないのでバスでの参加と悟る。
いつも、先に到達している男性二人はいないので、
”今日は、先生一人に生徒一人かもしれませんね!”と言葉を交わしているうちに、一人到着。
”道路の渋滞で遅れました”とかなり遅れて男性二人が到着。
ひとしきり練習後、水分補給休暇中に
8時に次第に近くなるにつれ、外の気配は次第に音が激しく、室内のほこりがまいあがり、風の強さを思い知らされた。
いよいよますます、うちたたく音。
”ひどくなってきた!帰ろうかな?”
予報通りの時間に、激しくなった。今が一番台風が接近している時間だから、通り過ぎるのを待ったほうが良い。今帰るのは危険! と、引き留めた。
先生は、一向に練習を再開する気配無く、
しょうがないので、ストレッチを始める。
結局は、練習を再開することなく、もう8時45分になりました!と声をかけて、やっとクールダウンの体操を始める仕儀であった。

それぞれ、帰宅途中の不安に駆られているようであったが、
台風は留まっていずに、移動するのが常で、雨脚、風も収まってきたからと、皆にはっぱをかけて帰宅となった。

パニック状況発生時の、心理変化を目の当たりにして、
いずれも、60歳以上であるに関わらずの対応で、
心配する人たちが、他所にいた場合は、危険を顧みず飛び出す可能性は高いということを確認。
今回は、必ず間もなく、過ぎるという状況であったから、引き留める言葉をかけたが、
危険が終焉する見込みがないとき、どのように対応するかは覚悟をきめて、”カタルシス”的会話の中で、相手の気持ちを落ち着け、判断できるようにさせることが必要かと考えた。

アスリートが輝く要素は、研究者にも通じる。

2016-08-20 13:22:31 | 日記・エッセイ・コラム
リオ五輪も明日閉幕。

メダリストの言葉、”練習は裏切らない””練習すれば夢はかなうんだ””心の強さで金メダルに届いた”などなど。
わずかに目標の届かなかった時の言葉は、より深い。一瞬の躊躇、守りの姿勢、希求心の弱さ……など、”心”
体。もって生まれた素質もあるだろうし、サポートしてくれる環境、好きこそ物の上手なれ。
心技体


強くそう思ったのは、臨床研究のまとめ第2段に入り、
仙台血液疾患センター時代の、遺伝子関連の研究員の仕事を確認する必要を感じて、データーを始めてまじまじと凝視。
落胆、失望。
大学院卒業で、この程度の仕事、まとめ方しかできないのか!
大学院とはいえ、理学部、農学部なので、医療系に対する目的意識もなければ、責任感もないからかとも思う。
大学院卒業した自分のプライドを満足させる”研究職”就職願望、生活の糧としての賃金要求のみで、毎日を過ごしていたのかもしれないとしか思えない、手元に残されたデーター。
初代研究員が残した、データーは、患者状況の把握がしやすい。
その後は、データー数も少なく、散漫。

大学院課程修了のプライドのみで、患者の命に直結するデーターとなる研究という、ヒューマニティの希薄、仕事に対する責任感、問題意識の欠落がわかり、
日々の臨床診療で多忙で、指導力が欠如していたのだと、いまさらながら、研究員から刃をつきつけられた思いにかられた。

定年退職

2016-03-29 15:48:56 | 日記・エッセイ・コラム
28日、定年退職の辞令交付式が執り行われ辞令を、にぎにぎしく受け取ってきました。

自力で生活を続けられ、定年退職を迎えられるという安堵感から、
度々、脳裏をかすめててきた、”あしでまとい!”という言葉と共に現れる、恐ろしい形相の人と共に湧き上がる、恐怖と悲しみから解放され、穏やかな気分でいられる作今。
年齢もありますが、もう46年間も付き合ってきた慢性疾患がありますので、余力はないので、
定年退職後も、慣れた環境で、収入を得られる幸せに恵まれていることを実感し、サポートしていただいた方々に感謝せずにはいられません。

定年を迎えた随筆で、心に残っているのは、
梅棹忠夫氏の学士会法に掲載されていたというおぼろげな記憶にある、
国立民族学博物館長の定年に当たり、”定年は、アフリカ族長時代になぞらえて”近代社会での、聖なる弑逆”と表現した言葉で、館長として助力してくれた職員がもぎ取られることをなげいておられたので、視力低下に伴う不自由がいかに大きいものであったのかと驚き、それにもかかわらず多くの研究を推し進め、継続を望まれていることに、仕事は終わりなく、社会の一助になれる間はし続けようと思ったのでした。
望んでも、”弑逆”の立場に追い詰められる人も少なくなく、持てる力をいたずらに無駄にして過ごしていられる方を慮るに

社会人への旅立ち前に、発病し、しかも女性であるのに、国家資格たる医師免許証を取得し、病休を取る暇はない専門分野で間断なく仕事を続けてこられた環境にも恵まれていました。


医学部学生時代の1970年早期に発病し、当時の医学レベルでは、診断は曖昧なままで、
身体活動の制限が加わり、絶望的な状況の中での学生生活であり、
卒業間際の、同級生からの一言(?)で、気を失い、学生時代の記憶のほとんどは消え、
しかし、医師国家試験は、無事合格し、
当時としては、珍しい、週休2日が確保されているという触れ込みの”日立総合病院”に内科医として入社。
自分では、病気もちの女性というハンディを強く認識して、社会人としての第一歩を踏み出した。
医師免許証を持っていることで、収入を得られる職業についていられる幸せは、社会の有様から強く認識してきた。学生結婚を、申し出た、結納先に、”学生ですから親の責任で卒業させ、卒業後に結婚をお願いします。”と、きっぱりと申し出てくれた亡き父に感謝のひとことにつきます。

慣例により、教員のすべてといっても過言ではなく、専門分野の人材補充がかなわずということで、”特任”という名称変更、報酬の大幅ダウンを伴っていながらも、再雇用されます。
特に、2015年度は、大学の体制変更のため、あわただしく、文部科学省への書類審査に間に合わせるということが、最重要課題で、あれよあれよという間に、”定年退職”は、関係の先生方の念頭にあっても、新人材の発掘という行動を起こす余地はないままに、”特任”の道に邁進させられた(やめるという一言をはさむ余地なし!)。
 早期退職の道を選択した、同僚は、適任人材確保が出来ず、給与報酬の大幅ダウンを伴った”特任”で、教員生活継続のやむなきに至った。人材確保が出来ないと判明した時期は、秋なので、専任への変更がなぜできないのか、よく理解できない宮城学院規定であった。
ダウン幅は、その前の5分の一より少し多い程度であることが、昨日の辞令交付式後の、特任教員の雇用契約で判明。
とはいえ、収入には無関心だったし、研修時代の極貧生活から、さほど変わらない感覚の毎日、仕事で自由になる時間も少ないし、消費する活動力にも乏しく、
これから先、親と同じ墓に埋葬してもらえる状況で死を迎えられたらばこれ以上の幸せはないかなと。

両親、恩師の死亡診断書を書ける立場で、日々の生活、診療を行えたことは医師冥利につきます。

チェルノブイリの祈り;スベトラーナ・アレクシエービッチ2015年ノーベル文学賞受賞者著作

2016-03-06 10:51:49 | 日記・エッセイ・コラム
3月1日待ち合わせには間があり、立ち寄った本屋で購入。

何も知らされず、事故処理作業に当たった消防署員の肉体の変化は、
素人の家族が、死に至るまでの肉体の変化を直視し、ありのままに述べた状況の記述に、
過酷な、過酷なとしかいいようがない時間が日常だった。
この本の中で、”あなたの前にいるのは……高濃度に汚染された放射性物体なのですよ。”
”棺はポリ袋にくるまれ、  亜鉛の棺に納め、ハンダ付けをし、上にコンンクリート板のせられます”
”遺体はお渡しできない。国家のものである”
その後は、過酷な現実がもたらした生活の変化が日常となり迫ってきているのだなと、

放射能被ばく患者治療に直接携わった経験はないが、
膨大なエネルギーを浴びた後の肉体変化は、細胞分裂が活発な臓器から障害が起き、生体変化なども、知識として、医療現場では経験していたので、健康体からの日々変化する乖離をリュードミラ・イグナチェンコは愛する人の傍らでという強い心ゆえに見つめ続けられた。
多くの家族は、離され、”死”のみの告知をやむを得ず受け入れさせられた。

サマショールは、退去を迫られても、出ていかなかった。私とネコだけといって住んでいる。
”私の悲しみがわかってもらえてくれただろうかね?”
原発事故で、放射能のために、故郷には永遠に戻れない人たちの現在の環境、心


2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故と重ね合う。
直後の、状況を知らされず(知らせる余裕もないパニック状態であったかもしれないが)、
避難の強制的呼びかけは、共通。
放射能は目に見えない。人がいない、美しい自然が残る7万院の住民の強制退去地に、野生動物があふれているという。
被ばく動物は、拡散するだろう。

1999年 本橋成一監督による”ナージャの村”に自主上映に携わったことがあった。
放射能は、見えず、感じずなので、その後のベラルーシでの、美しいありふれた日常が映像にあふれていた。
でも、被爆している。そこにいるということの影響は、健康障害。いろいろなレベルの健康被害。、

企業広告の「死ぬときぐらい好きにさせてよ」 が 独り歩きしたら、どうなる?

2016-02-27 16:41:54 | 日記・エッセイ・コラム
宝島社の企業広告 「死ぬときぐらい好きにさせてよ」
http://news.goo.ne.jp/article/withnews/trend/withnews-9016022700001.html
キャッチコピーの下の文面は、
最終的に『“塵”になりたい』樹木希林さんと相談して、決まりました」
今の日本に、いかに死ぬかという視点が抜け落ちていると感じ、今回のテーマとしました。とある。

死と向き合わざるを得ない老若男女といつも向き合う職業を生業としている自分としては、
一人で生き抜いていくことなんてできない。(ルバング島で戦後29年後に日本に帰還した小野田寛郎氏は、”一人では生き延びられない。住民がつくった食料品を奪って生きられたのだ”趣旨の話が鮮烈に記憶に残っている。

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とは、どういうことだろう?
他人の死に無関心でいろ!というようにもとれる。
どこで死んでも、さがすな!ともとれる。
死亡診断書、戸籍からの抹消はどうする!

極めて現実的に死と直面していると、死からまだまだ遠い、実感していない人の戯言のようで、現実味がないキャッチコピー。

人は必ず死ぬ。
明日の保証無く生きている。明日も生きていると、確診がないながらもそう思っているだけで、
明日の生の保証は無い。

大なり小なり人の手を煩わして生きている。
好きに死ねるはずがない。


「死ぬときぐらい好きにさせてよ」、
なにをねらってのフレーズなんだろう?
葬式のわずらわしさを解消したいから?
戒名、墓は宗教的な寄合助け合いコミュニティの最後の居場所。
無縁の人が、宗教的、コミュニティ的寄与もしたくなければ、戒名、墓を希望しなければ良いだけのこと。寺も、求められているから、応じているだけでしょう。

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」 何を期待しているフレーズなのだ!?

桃の節句:雛飾り

2016-02-23 09:00:28 | 日記・エッセイ・コラム
季節の行事に彩られて育てられたなかでも、
3月3日、ひな祭りは、ことのほか沢山の思い出が詰まっています。
お雛様は、父と二人でお出まし願い、それぞれの場所にお連れします。
お内裏様とお姫様をまず最上段に出したい私を、父は、お迎えの準備ができていないと制し、
重臣、お道具、おかご、牛車をしつらえてから、”ようこそおいでくださいました。しばし、御逗留ください。”と飾り、段飾りの前に正座して、一例します。
母が、準備してくれていた、菱餅、雛あられなどもそれぞれのお飾りにのせます。
60年以上前は、今とは違って、保存のきく包装はありませんでしたので、母が、もい日見繕ってあるお雛様のおさがりをいただけるのが楽しみで学校から帰宅しました。
節句当日は、近隣の子供たちにもきていただき、母得意のチラシズシをいただき、がやがや言いながら騒いだ名残が、お雛様のお顔のいたみ、お道具の損傷に伺えます。

お雛様がいらっしてくださった経緯を、箱から出しながら話して聞かせてくれたのも、今は楽しい思い出となってしまいました。

終戦間もない、食料も十分でない時期の誕生でしたが、初節句には、おばたちが藤娘を、小さい小さい3段飾りを父がかってきて祝ったそうです。
父は、経済的にも厳しい中で、数年後には、段飾りのひな人形をそろえてくれました。
桃は邪気を払うから、桃の節句で子供の健康を願ってかざるのだよと言われながら、
3月3日は、5節句のひとつで、三月初めの巳の日で、上巳の節句とも呼ばれるなどの話も
縁遠くなるといけないなどといいながら、最後の日は、しばしのお別れだからと、おそばを備えていました。

雨水に飾ると良縁に恵まれると最近は耳にしますが、両親はどういう日に飾っていたのでしょうか?
母は、4女だったので、立派な雛飾りではなく、自分用の、かわいらしい大事にしていた土のお雛様を一緒に飾っています。話からしか知らない、子煩悩だったという祖父。

大学に入学するために、家を離れてからも毎年飾ってくれていた両親を思い出し、父の死後、母の同居をきっかけに、持ち主のわたくしの家で、手元危うく、出し入れも不自由になるまであと何年ぐらいあるのかしらと思いながら、大事にし育ててくれていたのだなと思いながら、母の躾とは程遠い毎日の所作だったと反省しながらお雛様と対面しました。
雛飾りにひし形のお台が1対あるので、雛飾り後、難渋するのが菱餅です。幼いころには、家で、変わり餅もつき、ひし形にするのがこれまた大騒ぎでした。以前は、お菓子屋さんに売っていましたが、最近はひし形を探すのが大変で、何件か売り場を巡ってやっと調達です。今年は、餅ではなかったのですが、ゼリーの菱餅が手ごろな大きさだったのでお供えさせていただきました。


1年の計は元旦に

2016-01-01 15:42:17 | 日記・エッセイ・コラム
年を取ると、縛られていたものが次々となくなり、
昨年に、恩師が逝去した今年は、行動はすべて自分で起こさなければ、淡々と時間が過ぎるのみ。

年頭にあたっての初詣。
1991年開院以来、名取川をはさんで目の前に飛び込んでくるうっそうとした檜にかこまれた、熊野神社本宮、新宮へ。
2年前はわたくしの両肩につかまりながら、参道を歩き参拝したが、
昨年は、車の中で待機され、私に参拝を託され
今年は、一人で自転車を利用しての初詣。
これからは、ずっと一人。

紀州熊野三宮を信仰する名取老女により分社が許された”熊野三宮”
以前は、体調不良の時は、水に浮かせて飲むと回復すると八咫烏を分けていただいたりもしましたが。
サッカー人気で、三宮が整備され、参詣者が増えてからは、
時代が変わってきたのを実感した今年でした。
今年は、東日本大震災の復興祈念の能<名取ノ老女>の上演があります。
3月25日、26日。前売りは2月9日(PC),10日から。http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2015/3982.html?lan=j
仙台には、能楽堂が無い。

大震災後、東京は遠いところと思えるようになって。
帰りを待ちわびている先生を思うと出かけられないであったが、今年はふらふら出歩けそうです。

相も変わらぬ、希少血液疾患患者への対応

2015-12-12 09:33:19 | 日記・エッセイ・コラム
立て続けに、○○大学医学部付属病院、○○大学附属病院に勤務中の、
不快な記憶の再来というべき、場面に遭遇した。


血液疾患に、感染症を合併し、高血圧などのかかりつけ医から紹介されて、某病院を受診。
40度に達する高熱で、入院となったが、
感染巣が確認出来ないということと、
基礎疾患に慢性骨髄増殖性疾患(白血病関連)があるということで、高熱にもかかわらず退院方向にするという電話を受け、現在の血液の状態では発熱が出る状態ではなく、感染症関連なのでという説明にもかかわらず、強硬に退院を主張された。貧血も合併していたが、血液製剤を供給機関に属する病院であるにかかわらず、輸血はできないと拒否
事務的諸事情のためか、受診、入院当日の退院は強行されず、
入院直後に投与された抗生物質が効果を示し、解熱したので、退院の方針は撤回され、解熱を確認後、それなりの全身精査を受けて退院。
基礎に血液疾患があると判明すると、診療拒否となり、嘆く患者が多かった。その背景を深く憂慮された宇塚先生が、大学退官後、仙台血液疾患センター設立を決意された原動力

受診、入院患者の血液異常に関するアドバイサー的役割で、某大病院で血液外来を担当していた。
従来は、重症血液疾患患者を受け入れる仙台血液疾患センターという、入院ベッドの後ろ盾があった。
平成12年10月末をもって、入院病棟閉鎖したので、入院が必要な高齢(60歳以上)などの血液疾患患者の入院ベッド探しは難渋していた。特に、研究優先の大学病院は、受診さえ拒否、という背景もあった。
ベッドを所有している後ろ盾がないので、非常勤医としての継続契約は打ち切り宣告を受けた。大学病院側の事情も垣間見えたという点で、巨大組織、力で押しつぶし、排除してくる、過去の記憶の想起となった。

もう一点、某病院に非常勤医を依頼されてから30年ほど、院長と面談することはまったくなかったので、内容には、予測をもって、院長の要請に応じて赴いたのだが、話を切り出すまでの過程が、狭い医師の世界なので、面識はあったのですが、単なる面識以上の接触があった過去を懐かしむためなどというこじつけ後という点が、人物に思いを馳せ……。

自然災害を軽微に!信頼できる屋敷林、防風林

2015-10-16 10:26:33 | 日記・エッセイ・コラム
関東・東北大豪雨後の復旧のために、
恩師の鹿沼市深程の屋敷。
家の、仏間からなだれ込んできた土砂。
年以上を経た、代々”ご神木”とあがめ、大事にしてきた木は、
維持に、心を砕いたことのない人の指示で、無残にも伐り倒されたが、
根は大地に深く張り、しっかりと土をつかむ、
土砂崩れによる災害を軽微なものとして、守ってくれたと実感した。

根は残し、再生を待ちたい。

東日本大震災後の検証が進み、太平洋に面した防風林はほぼ根こそぎなぎ倒されはしたが、その意義の大きさは明らかになってきている。
屋敷林、居久根(仙台)も、自然災害を軽減していると実感している。

生前戒名

2015-09-27 15:53:55 | 日記・エッセイ・コラム
独身。きょうだいのいない一人っ子で、両親は他界。
死後の身の始末を考えて、生前戒名を取得を決心し、
両親の菩提を弔っている菩提寺にお願いしたのは、2~3か月ほど前のこと。
平均寿命までは、まだ30年ほどある人。
禅宗では、生前戒名は、≪安名≫というらしい。
検索では”安名”とは、禅宗で、新しく得度受戒した僧に、戒師が法名(ほうみょう)を与えること。また、そのときの文書。 と書いてある。
参列した≪安名式≫で、
お寺では、得度としての扱いだと思った。
お釈迦様から、101代目の弟子という、累代の弟子の名前を書いたけ系図を添えて、
”安名”の証を渡されていたから。

受戒式には、遅刻し、
後継ぎがいないから”生前戒名”をいただこうという気持ちだけだったのでは?なので、
寺院の対応と受戒者の温度差に釈然としない気持ちが湧き上がってきた。
庫裏から外に出て、無縁さんをまつっている”三回万霊塔”には、沢山の赤字の名が刻まれていた。
赤字の主は、手軽な得度の主なのか、受戒後は、寺院の対応に沿うような生き方を日々勤め、得度にふさわしくあれといふるまっていくことになるのでしょうか。そのきっかけとなった”安名”であれば、釈然としない私の思いは狭量になるのですが。

独身、兄も独身であるので、縁戚の手を煩わせないためにも”生前戒名”と、時折考えていた私は、寺の丁寧な対応に躊躇を覚えてしまった。

敬老の日

2015-09-21 19:21:47 | 日記・エッセイ・コラム
敬老の日は、個人的、家族的ではなく、社会的に本当に”老”を”敬”う日だろうか?
始まりは、としよりが、人口比では5%ぐらいと、まだまだ少なかった昭和22年に兵庫県の村で始まり、その後全国に。昭和55年に人口比で10%を超え、その後右肩上がりに急増し、人口減、若年者人口減となり、今や、65歳以上は25%を超えてしまった。この数字は、老人は、年金をあてにした生活だけではなく、稼ぎ続ける体力、介護不要な生活を維持してくれなければ、やっていけないぞ、日本!という声に満ち溢れ、情報提供される日、と言い換えられる日?

後期高齢者の体力、筋力の低下は、生物学的にはやむを得ない。
知力は、新規知識の導入期待は、放棄してしかるべきと思うが、既に獲得し、習熟した知識の活用のレベルの低下は、軽度でしょう。若者の職場を占拠せず、仕事の継続の仕組みづくり。過去にはなかったか?過去に高齢者は活用されていた。知識を有用として。過去と違うのは、数の増加!
「船頭多くして船山に登る」の例もあるので、筋力提供者としての体の提供者とならなければ、需要に対応不可でしょう、今後は。

88歳まで支えた恩師は、77歳で脳幹部梗塞。不思議な後遺症で、じわりじわりともともとの視力障害が進行。
左右の下肢の感覚、運動傷害。それ以外の部位も感覚、運動障害。
手助けが必要になったのは、85歳の、酷暑の夏。
片側で支えてみたが、他の人が支えている状態を観察すると、
倒れないというだけで、よく歩いているとは表現できない状態。
前に立ち、両肩に先生の手を置いてもらい、先生の歩くリズムを感じ合わせると、
体調の良い日は、速歩。
「速かった!」と叫ぶ私に、晴れやかなうれしそうな顔で「速かったね!」
高齢者のペースに合わせて、達成できた時の喜び。代えがたい幸せな時間を生み出します。
二人三脚で、若者だけであれば、1倍の仕事を、1.5倍になれば良しと考える仕組みができると、
高齢者、若年者双方が、豊かな幸せな時間が流れるのではないでしょうか。
高齢化の流れは、当分は進行するのですから。

食事をつくる、食事を食べる。

2015-09-01 16:57:47 | 日記・エッセイ・コラム
大学卒業後、仕事に就いてから、
2013年夏まで、食事をつくるということが有りませんでした。
料理が好きな、母と兄が、食事をつくってくれたためでした。
一人暮らしになり、外食の習慣はないので、食べるためには、自分でつくらなくてならなくなり、木が付いたことがあります。

毎日、毎日の食事つくりは、食べさせる人に対する、愛情が詰まっているのだと、あらためて実感しています。

決して同じものはない、変化する自然を相手にして得られた食材。
手をかけて、美味しくあれ、美味しくなれと手をかけて得られた食材。
変化を含んだ食材を、毎日同じように、時には体調に合わせ工夫で、おいしくたべてもらおうという調理技術。

『人間が、生きる基本は、食事』と教えている手前、人目が無いからと言って、食事作りをおろそかにするのは、私の信条としては、相容れません。
美味しいほうが良いけれど、料理が趣味でも、おいしいものが食べたいという欲はなく、
無計画に、食材を買い、
使いきれずに、かといって捨てるのも
”食べ物をを粗末にしてはいけません。罰が当たります”
自分で、野菜つくりをしてみると、生産者の苦労がしのばれ、
残り物を、いかにして使い切るかという思考で、食事をつくることになります。
似たような食事作りですが、
日々異なる、食材を使い切る工面するため、気分は新し実験をしているようで、似て非なる料理ばかりが出来上がります。食べさせなければいけに人がいなくて良かったと思う出来の連続です。

自分で作って、食べるというのは、期待感もなく楽しくないということにも気がつきました。

母の手作りで、市販品より数段勝っていた”いかの塩辛”。
塩がなれるまでねかした、うまみがしみでてくる、そしてねっとりした触感。
再び食べたいという意欲を持って努力中ですが、発酵食品の範疇に入るつくり方で、またいかの塩締めのタイミング、名により鮮度の良イカを手に入れなければいけないという、食材確保に対する不確かさ。

固定収入は確保されていない家庭での食事作り。
持続するモチベーションに敬意です。







戦後70年

2015-08-15 22:01:59 | 日記・エッセイ・コラム
言論統制、相互監視網で疑心暗鬼が終了した70年前の8月15日、正午。
多数決の論理をふりまわせる大量議席を国民が与えた与党による、安全保障関連法案。
戦争放棄を明言してある、憲法9条には違反していないというが………。
包囲網で、9条が骨抜きにされ、庇を貸して、母屋を乗っ取られなければよいが。
有史以来、男性論理の社会で営々と続けられなくならないのが、
戦争、売春。
エジプトを治めた女王の時代(ハトシェプスト、クレオパトラ)は、戦争はなく、交易で国を富み、栄えさせたが、王の時代になると戦争が復活。

今日の報道で
【国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)が、売買春の合法化を支持する方針を決定した。】
には、唖然。
【シェティ事務局長は「性労働者は世界で最も軽視された職業集団であり、差別と暴力、虐待の危険に常にさらされている」とし、合法化を目指す意義を強調した。】合法化すると、虐待は避けられると考える心理が理解出来ない。




七昔 ラジオの前で 正座して 陛下の声で 敗戦を知る

お盆;家族の有り様

2015-08-12 15:28:20 | 日記・エッセイ・コラム
お盆は、仏教行事。
お経にも、連綿と続く家族の大事さが唱えられているので、
住み込み奉公の時代から、家族のもとへの帰郷となる。
昨年は、まったく生らなかったハマナスの実、今年はお盆の数珠を蓮に供えられる実り、ミソハギで入口を浄め。

お盆の帰郷=先祖の墓参りではない時代に突入しているようで、
見捨てられる墓、共に過ごした大事な人をしのぶモニュメントとしての、独創的な墓などを報道されている。
日本という2000年ぐらいの民族の、葬られ方から、一族が一緒の墓の歴史はいつから?
名のある人は、一人、一人、墓碑銘で称えられ。とは言うものの、男尊女卑。
家族のしがらみから、婚家の墓に一緒に葬られたくないから、自分の墓を買ったので安心とか、嫁ぐ前の墓に入れてと願いしているとかの話を聞かされることが多い。
独身の身としては、結婚とは?と思い、
葬られる場所は、両親、先祖の墓にが、当然と思っていたが、
死後もともに過ごしたいのは?と考えると、すっきり。

一緒に過ごした時間を費やした仕事の成果を、残された私が、何とか受理してもらえるように、突き返されても、書き直し、投稿し続けるのみという結論に達し、
データー整理が完遂したのを、お盆期間中に投稿し、送り火とする。
まだまだ、次があるので、精神的糧があるという、ありがたさの中に生きさせていただきます。