宇塚先生の祥月命日が近いこともあり、友人は懐旧談で、研究真っ盛りにやっていたころは記憶にもないほどおもいだしたくないといっていた。
入局初日の血液外来、宇塚先生1人で外来診療にあたっていた。
当日の採血した血液を、Iさんが、血液像、網状赤血球、血小板の直接法計測用を塗抹標本にし、血球計数機で、白血球、赤血球関連を測定し、データが出ると、診察室に持って行き、そのデーターに基づき患者指示を出していた。
次々に骨髄穿刺の指示が出るようで、今までは、宇塚先生が穿刺していたようであったが、
”君骨髄穿刺できる?”と聞かれたので、私は”できます”と応じ、
当日から骨髄穿刺は、宇塚先生に変わり私が行うことになった。
初日の、骨髄穿刺は、16名の患者に実施。
今までの病院では、前日から準備にかかり、レントゲン撮影ができる手術場の実施であったのに、
外来で、流れ作業のように実施。看護師の手が空かないときには、私か、検査補助者Iさんが助け合って実施。
(のちに、第3内科で四面楚歌状態になったときは、私一人で、消毒、検査技師、医師役をやったときもあった)
外来終了後は、骨髄有核細胞数、網状赤血球のカウント、骨髄像の染色と続き、
定刻の退社時間になっても終了せず、超勤手当は出るはずもなく、
でも、薄給のIさんは、使命感に燃えてがんばってくれていました。
宇塚先生の名声は拡がり、新聞などでもとりあげられ、患者は増える一方。
しかし、急性白血病は診療は、
”絶壁の一本道を歩いている様なもので、踏み外したら、死にのみ来枯れてしまう。いつも、気を抜かず、見ていなければいけない!”を、実践していたので、休む暇、休日もないので、血液グループ人員は、リーダーの宇塚先生と私だけ。今でいうブラックで敬遠されていた!
急性白血病の治癒を目標に掲げ、意気軒高に邁進。
完全寛解に達成したときの、安堵感と高揚感はかえがたい。
毎日が、ゴールデンウィークみたいな毎日を過ごしていると、達成感のある、懐かしいときでした。
忙しくて、毎日の生活にぎゅうぎゅうとして体裁とか、人にどう思われるとか全く余裕がなく、目的にまい進できた時期でした。大学病院前に銀行があるのに、わずか3千円の、税金を振り込みに行けず、督促の赤紙も受け取りました。始めは青色の督促状が、差し押さえとか書かれた督促状は赤色で、その文面に驚愕、延滞料は、高額日歩で、あっという間に大金になるのも経験しました。
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