ブログのリアルタイムアクセスを見ていたら、芦塚忠右衛門で検索をかけてこられている人がいた。
吃驚。
あんた誰? なんでそんなこと調べてんの???
芦塚忠右衛門は我が家の祖先の一人。(一人って言うのは、その前も当然いるから)
もっと吃驚は天草軍記が歌舞伎になっていて、芦塚忠右衛門の役者絵まででているらしい。(役者は坂東彦三郎という人らしい) その絵が早稲田大学の演劇博物館に所蔵されているらしいけど。
基になった天草軍記は国会図書館にあるらしい。芦塚忠右衛門討ち死にのことなんてのが公開されている。
気になって、芦塚忠右衛門で調べてみるとウィキペディアにも諫早市史を基にした記述があるんですね。
でもね~、私としては、天下に反乱を起こした一族が、支藩だけども堂々とどっかの藩で仕えていることが果たして可能だったのか、疑問なんだけどね~
諫早の我が家はもう取り壊されてなくなってしまっているけど、今もお墓は存在するし、、、
諫早市史は見たことがないので何も言えないけど、、、
祖母の話では小西家の家来ってことだったけど、鹿児島には別な(?)芦塚の流れがあるみたいで、検索をかけるとけっこうそちらの話もヒットするんですよ。関が原で敗れて逃げ延びた、こちらは真田幸村の子孫だって。こっちのことを書いた記事はこちら。
前にも一度書いたことがあるけど、神戸の市博の学芸員のお嬢さんが仕事場に訪ねてきて、目的のオランダ絵画の話、、、オランダ絵画の書籍が輸入され日本に影響を与えたという企画展の話だったのだけど、話が終わると、おもむろに、貴方の家に織物の資料がないだろうかって聞かれて、、、???、何を言っているのかって思ったら、長崎奉行所で反物目利きをやった人に我が家の祖先がいて、その目利き帖が国会図書館に所蔵されているのだけど、それ以外にも何か残っていないかってことだったんですね。そのこと自体が初耳だったので、調べてみますって逃げちゃったけど。。。。
ちょうど、今朝もリアルタイムアクセスで見ていたら、一宮の骨董屋さんの名前で検索をかけて私のところに来られた方がいて、そこにもこの目利き帖(端切れ帖)の話を書いていたので思い出していたところ。
今日一日の中で、二件も我が家の祖先のことを検索かけて(あぁ、一件は骨董屋さんだから違うか)、私のブログに来られている人たちがいるなんて、
妙な偶然ですね~
相変わらずのネット音痴でして。
芦塚さんって、最近、「幼獣マメシバ」というテレビドラマの監督さんが芦塚さんだったので、風者さんのご親戚?と思ってました。
私も最近、ご先祖様の写真をネットで見つけたんですが(江戸時代末期のイケメンというもの)伯父に似ていてビックリしました。
凄い誤字ばかりで投稿してしまいました。
失礼いたしました。
えぇ~、監督さんが芦塚ですか?
吃驚してググってみましたが、助監督でいましたね。
でも、少なくとも私の世代の家の家族ではないですね。子供の世代だと、だれが何人子供を持っているのかすら分からないので、???です。
それにしても、江戸時代末期の肖像写真が残っているってけっこうセレブだったんですね。一部のドキュメンタリー写真家以外は市井の人は撮ってないので。
普通の人が出てくるのは江戸末期から明治期くらいからですよね。
当時は肖像写真を撮るのってすごく大変だったんです。
さすがおいちゃん、ご先祖さまに「目利き」がおられたなんて。おいちゃんも充分その血を引いているのではないですか。
いままでちっとも気がつかなかったので、
自分の目を試してみようかと思いましたが、
なんせ、近視、老眼、霞眼になっちゃっていて、テストもできませんでした。
芦塚忠右衛門の事で調べていたのですが、もしかしたらこちらも閲覧させて頂いたのかもしれません。
同じ姓で、天草四郎繋がりでもありまして、色々とご先祖様かと思って調べていたのですが‥管理人様にお聞きしたいのですが、そちら様の家紋はどの様なものでしょうか?
たまたま数年前に木製で出来た立派な家紋を頂くことになりまして、それから興味が出て調べる様になりました。今も少しづつ調べてはいるのですが、なかなか珍しい家紋らしく、3000種類ほどは見たのですが同じのはありませんでした。
もし、お返事頂けたらコメント待っております。失礼しました。
珍しい家紋ということで、小西家のは中結祇園守紋、キリシタンとの関係を言われていますけど、立花氏のは祇園守紋。小西家はもともとが商人ですから別として、立花家のは南北朝以来のもののアレンジですから、その辺のことも興味深いです。小西家の中結も、立花家の門もアレンジで中結び状態になってますし。
立花家は大友家との関係を言われていますが、こちらもキリシタンとの関係があったんでしょうか。
ちなみに久留米には芦塚の地名が残っておりますね。これはどこから来たのかなって考えております。
私の家は江戸時代の初め以前から長崎の諫早にありまして、お墓も一番古いのはもう文字も判読不能になりましたけど、忠右衛門の名前が刻まれたものが残っておりましたが、家系図は菩提寺にあったのが洪水で流れてしまったそうです。