中根貞彦は、明治11年2月、臼杵の二王座旧片切屋敷で、父八三郎と母マツエの三男として生まれた。父は西南戦争で死亡(10年6月)、母も早死して養子となる。叔キクが14歳まで貞彦を育てた。
貞彦は、臼杵高等小学校(旧東中学校)、大分中学校(旧上野丘高校。一番最優秀の成績)、熊本第五高校(現熊本大学)と学び上がり、次に東京帝国大学法科(現東京大学法学部政治学科)を卒業、明治38年卒業し日本銀行へ入社した(27歳)。
日銀の実力を認められ、ロンドン代理店監査役、帰国後国庫局長、大阪支店長(昭和2年)と昇進。以降、困難を続ける大阪業界を切り開き、「貞彦で出来ない仕事」と請われて、大阪の金融業を続けた。貞彦は、日銀総裁、大蔵大臣の職を2度も断り、三銀行(三十四、山口、鴻池銀行)を合併し、三和銀行を創業し、三井、三菱、住友にも勝る大銀行を生み、四大銀行を設立した。昭和8年(貞彦54歳)のことであり、「人格、手腕、力量、貫禄の兼ね備わった人物」と各首脳が認めた。
昭和39年、貞彦は86歳の生涯を閉じたが、その葬儀では、導師10名による読経のなか、焼香者は数千人の列をなし、弔電は7千通にも及んだと言われた。
また貞彦は、養女キクの大往生の中を何度も臼杵を訪ね、また知人にも「歌集」なども送っている。その「誠実、潔癖、純粋で、恩義の深い、感謝の念の厚い人」と臼杵公園の歌碑が建立された。
