旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

臼杵人物記 中根貞彦

2025-03-20 11:01:51 | 時局雑感



 中根貞彦は、明治11年2月、臼杵の二王座旧片切屋敷で、父八三郎と母マツエの三男として生まれた。父は西南戦争で死亡(10年6月)、母も早死して養子となる。叔キクが14歳まで貞彦を育てた。
 貞彦は、臼杵高等小学校(旧東中学校)、大分中学校(旧上野丘高校。一番最優秀の成績)、熊本第五高校(現熊本大学)と学び上がり、次に東京帝国大学法科(現東京大学法学部政治学科)を卒業、明治38年卒業し日本銀行へ入社した(27歳)。
 日銀の実力を認められ、ロンドン代理店監査役、帰国後国庫局長、大阪支店長(昭和2年)と昇進。以降、困難を続ける大阪業界を切り開き、「貞彦で出来ない仕事」と請われて、大阪の金融業を続けた。貞彦は、日銀総裁、大蔵大臣の職を2度も断り、三銀行(三十四、山口、鴻池銀行)を合併し、三和銀行を創業し、三井、三菱、住友にも勝る大銀行を生み、四大銀行を設立した。昭和8年(貞彦54歳)のことであり、「人格、手腕、力量、貫禄の兼ね備わった人物」と各首脳が認めた。
 昭和39年、貞彦は86歳の生涯を閉じたが、その葬儀では、導師10名による読経のなか、焼香者は数千人の列をなし、弔電は7千通にも及んだと言われた。
 また貞彦は、養女キクの大往生の中を何度も臼杵を訪ね、また知人にも「歌集」なども送っている。その「誠実、潔癖、純粋で、恩義の深い、感謝の念の厚い人」と臼杵公園の歌碑が建立された。


    

90歳の境目

2025-03-12 11:22:43 | 時局雑感



 0歳に向かっていると、どんどん90歳代に近づいている感じがしていたが、2,3ヶ月前になると90歳の当日(2025年4月23日)を迎えようとすると、当該日の来る日のことを遠く感じている。
 80代には90歳に対して「上向」していたが、いざ90歳代は人生の始末をやらねばならないので仕事の性質上「下降」するのであろう。
 90歳の境目とは、「下降」へ向かう線のことなのか?
 いざ下降が始まれば、残る時間など何も在りはしないであろう

春と聞かねば

2025-02-27 16:41:09 | 時局雑感



 2月26日。暦の日繰りピッタリに合った暖かさ。前日までテレビが猛吹雪を知らせてあったが、決まったように春のニュ―スだ。

「春と聞かねば 知らでありしを
   聞けば急(せ)かるる 胸の思いを
 いかにせよとの この頃か」(早春賦)

 うれしい反面、90歳(4月23日)の年齢が近づくにつれて、「おやっ…?」という音が聞こえている。体調は確実に弱っているが、まあ、特に異常はないが、いいだろう。

臼杵人物記 山本達雄

2025-02-20 10:13:11 | 政治経済



 山本達雄は、安政三(1856)年、臼杵の海沿鉄砲町に父確、母シマの次男、7人の4番目として生まれた。家族の暮らしは苦しく裕福ではなかった。
 色男であったが、ガキ大将で喧嘩は強かった。勉強は頑張り、藩校学古館に学び、書道に励み達筆屋であった。金がなくなってもどこにも出かけ働いた。いよいよ上京して金稼ぎをやるため慶應義塾に入るも月謝が続けず、大阪に行き教員養成学校、岡山県立商業講習所、大阪府商業講習所などに行く。
以降、ようやく方向が定まったのであった。
 ・三菱汽船会社への入社。28歳。荘田平五郎の紹介。
 ・同、横浜支店副支配人、東京副支配人。(三菱へ)
 ・営業局仕事の外国出張も、ロンドン、オクスフォー
  ド、ケンブリッジでも働いた。
 ・日本銀行へ入社。 
 ・明治31(1899)年、日銀第五代総裁、43歳。
 ・明治36(1904)年貴族院議員、のち大蔵大臣。
 ・大正9(1921)年爵位拝命男爵、65歳。

 山本達雄は、長く荒仕事、力仕事を遂げた。そして幕府(1856)から明治、大正より、昭和23(1948)年という第二次大戦後までを生きた。92歳。

 臼杵人を代表する山本と吉丸の会話があった。力仕事の上に日銀総裁(明治31年)になった山本は、これも猛勉強を経て東京帝大卒業した(明治34年)吉丸が珍しく、大酒呑みという噂を知っていた。
早速、吉丸が大学卒業のため山本に挨拶すると、
「それは良かった早速に俺の処へ来い」
「私は文科出の者で使いものにならないでしょう」
「何だお前文科出か。大酒を呑む、苦学生の面倒を見てると聞いていたのでテッキリ法科出身の暴れん坊と思っていたヨ」
と笑っていた。(吉田稔氏記)
 山本達雄も、吉丸一昌の美しい歌の調べ(「故郷を離るる歌」など)を聞くことも無かっただろう。

臼杵人物記 吉丸一昌

2025-02-08 14:07:26 | 文化(音楽、絵画、映画)



 既に、早くも春分を過ぎて陽気を迎えようとするが、風は冷たく、冷気は厳しい。そして、この時節を迎えると必ず小鳥たちがこの歌を唄う。

  春は名のみの 風の寒さや。
    谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず。
   時にあらずと 声も立てず。 (以降略)
          吉丸一昌 作詞
          中田 章 作曲 

   
  わが庭には、鶯(うぐいす)ではなくメジロが…


 吉丸一昌(明治6年9月15日生、臼杵町海沿、のち市浜住)は、特に語学、漢文、文学に優れ、臼杵をも超えて大分中学(元上野丘)、第五高等学校(熊本大学)を学んで、明治30年には東京帝国大学(東京大学)に上りつめた。加えて音楽に優れ、『新作唱歌』全十集など作成、自らの名歌も多く編集していた。
  吉丸一昌は、その時(明治30年)東京に行くため臼杵を発った。交通機関もなく大分に向かうため、豊後の六ヶ迫峠を歩いた。その峠から臼杵の町をふり返えり、この美しい歌を詠ったと言われている。

  園の小百合、撫子、垣根の千草。
   今日は汝を眺むる最終の日なり。
    思えば涙、膝をひたす、さらば故郷。
  さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。  
                 (以降略)
             吉丸一昌 作詞
             ドイツ民謡
 
 吉丸一昌は大正5年3月7日急逝、44歳。

      

素晴らしきイチロー、残念な大相撲初場所

2025-01-27 11:55:34 | Weblog


 大相撲初場所の14日目まで、王鵬は素晴らしかった。金峰山の12勝2敗を追って、王鵬と豊昇龍の11勝3敗を競っていた。そして千秋楽の取り組みは、王鵬と金峰山になった。
 私ほある感想を抱いていた。「王鵬には金峰山への勝利を譲ってほしい。相手への優勝を祝いたいのだ。もし負けていれば、巴戦の勝利に絡まり、豊昇龍が勝つかもしれない」という嫌な予想を感じていた。予想通りとなった。全て終わった。思い出すのもイヤであった。
 もちろん、スポーツ精神を追求しなければならない。しかし、ダメな私にはセンチメンタルにも勝てはしない。

 一方、イチローは素晴らしい!。さわやかな米局野球殿堂入りだ。シーズン最多安打数62をはじめ、数多くの成績にもっている。言うべきことは何もない。

 
 

正月三が日の酒と駅伝

2025-01-04 13:27:39 | 時局雑感

 酒 元旦 『亀の翁』純米大吟醸(新潟)
      朝7勺、晩酌1合2勺
   2日 『鍋島』 純米吟醸(佐賀)
      朝6勺、晩酌1合(やや控えめに)
   3日 『姿』  初すがた純米吟醸無濾過生原酒(栃木)
      朝5勺、晩酌1合3勺(控えと盛り返し)
 
 駅伝 元旦 ニューイヤー実業団(群馬)
       旭化成優勝 5年ぶり26回目
    2日 箱根学生駅団 往路青山学大優勝
    3日 帰路の青山学大の連覇 やや陳腐の思い

  
    
      
    なかなかのご立派なお酒でした

  
    
    (初日 旭化成)

 
  
    (2~3日目連覇)

  
      


2025年を迎える

2024-12-31 14:03:51 | 時局雑感

 2025年元旦を迎える
 平凡であるが祝杯を挙げ、ニューイヤー駅伝による旭化成の健闘を祈っている
 脳梗塞(失語症)による「聞く力」を失っているが、クヨクヨしないで、新しい年に生きていこうと思っている
 90歳時代に栄えあれ!

  
        
      

90歳を迎えて何が変わるか

2024-12-28 14:02:07 | 時局雑感

 89歳を閉じようとしている
 …何も変わっていない
。90歳を迎えようとしている
 …何が変わるであろうか?

  去年今年 貫く棒の如きもの   高浜虚子


90歳までの「人生の記録」⑤…資本論の研究

2024-12-22 15:38:15 | 政治経済


 私が『資本論』 を読み始めたのは、大分大学にいたマル系教師ご三方に教わったのが始まりであった。重光教授に価値論(資本論第一巻)、竹村助教授(当時)に金融論(同第三巻)、山本講師(当時)に地代論(同第三巻)と『家族、私有財産および国家の起原』、『空想より科学へ』など小論文を含め教えてもらった。
 しかし、銀行業務の労働密度、組合活動の多忙に負われ、腰を据えて、じっくりとやる資本論研究など出来なかった。銀行退職後となり第二の人生となったが、それはそれとして(旅や酒など)、十分な研究など出来なかった。(資本論もそれなりにやってきたつもりであったが)
 資本論の研究については、ようやく全三巻の構想を取りまとめ、やっと腰を据えて研究を始めたのであった。全生涯を70年(20~90歳)かけたが、それはやっと80歳になって出来たことであった。組合の後輩たちで、10~20名を集めて勉強した。その約10年間(2015~2024年年)の成果が主な記録であった。
 ・2015年 『資本論』全⒑回講義(10か月)
 ・2016年 労働運動と『資本論』全6回講義(6か月)
 ・2017年 発刊150年を経た『資本論』に学ぶ
 ・2018年 マルクス生誕200年に因んで
 ・2018年 マルクスに残した「家族、人脈、遺稿」
 ・2023年 『銀行のための資本論』(含む未来社会論)
   ~24年
 さて、これでもって90歳までを閉じようとしている。加えて脳梗塞(失語症)と弱視を負って、書く能力はすべて失った。
 ただ、頭は未だ動いている。生きている限り「人生の記録」は続いているのではないか?
                       おわり

  
  資本論研究の主要なものを並べて置いた

投票ボタン

blogram投票ボタン