旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

2025年を迎える

2024-12-31 14:03:51 | 時局雑感

 2025年元旦を迎える
 平凡であるが祝杯を挙げ、ニューイヤー駅伝による旭化成の健闘を祈っている
 脳梗塞(失語症)による「聞く力」を失っているが、クヨクヨしないで、新しい年に生きていこうと思っている
 90歳時代に栄えあれ!

  
        
      

90歳までの「人生の記録」⑤…資本論の研究

2024-12-22 15:38:15 | 政治経済


 私が『資本論』 を読み始めたのは、大分大学にいたマル系教師ご三方に教わったのが始まりであった。重光教授に価値論(資本論第一巻)、竹村助教授(当時)に金融論(同第三巻)、山本講師(当時)に地代論(同第三巻)と『家族、私有財産および国家の起原』、『空想より科学へ』など小論文を含め教えてもらった。
 しかし、銀行業務の労働密度、組合活動の多忙に負われ、腰を据えて、じっくりとやる資本論研究など出来なかった。銀行退職後となり第二の人生となったが、それはそれとして(旅や酒など)、十分な研究など出来なかった。(資本論もそれなりにやってきたつもりであったが)
 資本論の研究については、ようやく全三巻の構想を取りまとめ、やっと腰を据えて研究を始めたのであった。全生涯を70年(20~90歳)かけたが、それはやっと80歳になって出来たことであった。組合の後輩たちで、10~20名を集めて勉強した。その約10年間(2015~2024年年)の成果が主な記録であった。
 ・2015年 『資本論』全⒑回講義(10か月)
 ・2016年 労働運動と『資本論』全6回講義(6か月)
 ・2017年 発刊150年を経た『資本論』に学ぶ
 ・2018年 マルクス生誕200年に因んで
 ・2018年 マルクスに残した「家族、人脈、遺稿」
 ・2023年 『銀行のための資本論』(含む未来社会論)
   ~24年
 さて、これでもって90歳までを閉じようとしている。加えて脳梗塞(失語症)と弱視を負って、書く能力はすべて失った。
 ただ、頭は未だ動いている。生きている限り「人生の記録」は続いているのではないか?
                       おわり

  
  資本論研究の主要なものを並べて置いた

90歳までの「人生の記録」④…旅(海外旅行と日本の全県)

2024-12-20 16:06:00 | 


 私たちの銀行生活は、全く多忙に追いかけられ、旅という思いすら何もなかった。52歳になってようやく銀行に退職し、いわゆる第二の人生を初めて、三井ホームの中で「自ら計画をもって生きる」というゆとりを持ってきた。
「そうだ。旅に行こう」
「せめて一年に一度は海外旅行をやろう」
と動き始め、先ずアメリカに出かけた。53歳、1988年6月、北米はシカゴ、ナイヤガラ、ニューヨーク、ニューオーリンズを出かけた。そして最後は、76歳、2011年、オーストラリア(シドニー、メルボルン)までが海外旅行の記録であった。
  23年間、北米・中米、西欧・中欧・北欧、アジア一帯(含む豪州など)に及び、海外旅行数としては、22回、25か国、75か都市を回った。
出版物としては『旅のプラズマ~心に残る街・人・言葉』と『旅のプラズマパートⅡ~世界の酒と日本酒の未来』である。

日本の各地を回った旅は、県別の最後となったのは青森県であった。1999年6月19日、私は秋田県側から発荷峠を超えて十和田湖畔に降り立った。奥入瀬渓谷を下って、蔦温泉に宿泊。これをもって一道一都二府四三県のすべての県に「その地に行った」ことになった。(その地に宿泊、酒食をもって旅とする定義)
 もちろん、その旅も数多く重ねてきたが、また膨大な記録と書き物を抱えてはいるがそれはさておき、コロナに出会い、旅も終末を向かえてしまった。2020年、実弟の七回忌もあって、ささやかな旅に出かけた。「臼杵(フグを食べる)…九重高原(ブナの山小屋)…杵築(坂の道を歩く)…日出(カレイを食べる)」という旅であって、正に「ささやかな風情」を味わったものであった。
 旅もこれでオシマイ。

   

90歳までの「人生の記録」③…酒2「酒純米酒フェスティバル」

2024-12-18 10:35:24 | 


 酒について、その酒1「酒造と酒食」について書いたが、その後半である2000年から2018年(コロナの始まり)まで、約20年間、純米酒フェスティバル運動について書いてきた。
  これは、戦後の酒界に飲まれたニセモノ酒「アル添三増酒」に対し、ホンモノ酒である純米酒を宣伝し、拡大する運動を目指しできた。これは、高瀬斉委員長、中野繁事務局長を中心にして、堀江修二、橋本毅、首藤和弘と3氏を加え「純米酒普及推進委員会」を設立した。
 2001年4月、東京椿山荘で第1回を開催し、1200名(昼と午後、各600名)参加した。酒造蔵は50蔵に及び、約300銘柄の50ブースが広かれ、壮大な催しが続いた。
 約20年間、総開催数は東京で36回、大阪で11回、名古屋で3回、合計50回を開催した。純米酒普及推進という力も果たしてきたと思っている。戦後の酒も増大したが、ほとんどアル添三増酒であり、純米酒の影もなかった。1960年後の計数を掲げておく。(酒総数と純米酒量の千ℓ単位)

         酒送料 純米酒亮 純米酒比
 1985昭和60年  1417   20   1.4%
 2003平成15年  844   84   9.9%
 2021令和3年  316   111   34.8%
 
  
   
     

90歳までの「人生の記録」②…酒1(酒造と酒食)

2024-12-16 13:35:24 | Weblog
 
 私は、学生のころから既に酒を飲んでいた。しかし、意識的に酒の研究をしようとして取り組んだのは、1980(昭和55)年の45歳ころから始めたことであった。そしてコロナが始まった2020(令和2)年まで続けてきた。(85歳まで40年間)
 最初に酒に接したのは広島時代(三井銀行広島支店)で、賀茂鶴酒造との銀行取引を契機に酒の道に入った。K副社長をはじめ杜氏や蔵人の方々にじっくりと指導してくれた。なにを聞いても「酒とは何か?」という疑問ばかりを続けていた。
  次に向かったのが、新潟県和島村の久須美酒造。1990年4月に蔵を訪ね、1年4か月間も宿泊を通いながら「亀の翁」造りを学び、『酒は風~「亀の翁」をつくる人びと』を発行した。写真家英伸三夫妻の素晴らしい写真を共著して、1991年11月出版した。

 以降、酒を学びながら日本全国を回りながら、その酒と共にその地を食べた。文字通り北海道から沖縄まで歩いた。この記録をまとめながら、出版したのが『蔵元がすすめる飲み屋』(1996年)であった。

  

90歳までの「人生の記録」①…銀行と組合活動

2024-12-14 15:09:58 | Weblog


 1958(昭和33)年、学生生活を終えて社会人をスタートした。同
年4月1日、21歳、三井銀行に入行した。(4月23日で22歳)
 まもなく迎えた1960年代は、発展時代として猛烈な忙しい時代に襲われていた。しかし、その銀行生活はともかく措いて、組合活動は楽しかった。楽しい、と言っては申し訳なかったが、とにかく「生活向上」に向かい、「賃上げ」、「長時間短縮」、「福利厚生の要求」を向けた戦いを続けていた。併せて、民主主義と人権擁護も戦ってきた。
 もちろん、経営側からも攻撃されていた。また、それだけに若者組合たちも戦い続け、銀行退職後も続け、「心友会」などを組織して、長く折衝を続けてきた。その数十名の方々は、既に80歳代を超えている。
 銀行生活自体は、22歳から52歳まで30年間を超えていたが、その充実した生活は遥かに長い。

  

今年もカキを食べました

2024-12-09 14:30:13 | 時局雑感

 今年もSさんに、恒例の広島カキ(牡蠣)を頂きました。
 早速、殻付きカキ、カキフライ、クリーム煮、をたくさん食べました。加えて呉の銘酒『雨後の月』純米吟醸がありましたので、酒食最高の味を味わいました。嬉しかった! いうことナシ!!

  
  カキ身が大き過ぎて、カメラがぼけた
     
            食べ散らしてゴメンナサイ
        
       食べ散らした後、きれいに並べ直しました

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