旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

6月も終わる

2008-06-30 17:45:18 | 時局雑感

 

 今日で6月も終わる。早いもので今年の暦も、半分が行ってしまった。

 年をとると、時の経過は寂しいもので、あれをやればよかった、これもしておけばよかった、とうつろな気持ちで過ぎ去った日々を振り返る。
 振り返ってみるとこの半年も、4月にはフランスからセルジュ一家がやってきて「嵐のような数日」を体験し、その準備に、3月から「久しぶりの部屋の模様替え」をやったし、4月下旬には「父の50回忌」で臼杵へ出かけ、4代にわたる身内が一堂に会した。
 旅行の方も、5月には台湾に、6月には裏磐梯・五色沼と、けっこう出歩いてはいる。しかし年寄りには、この程度では充足感が無く、先を急いであれもこれもやりたいとなっているのであろうか? われながら浅ましいかぎりだと思う。

 後半は、すこしゆっくり過ごすことにしたいものだ。昨日は、郷里の集い「臼杵人会」に出かけ、久しぶりに懐かしい顔に出会った。「ふるさとの記」も、今のうちに思いのままを書き残しておきたいのだが・・・・・・。
                             


裏磐梯・五色沼の旅(6)--野口英世の求め続けたものは?

2008-06-28 16:11:27 | 

 

 磐梯山を訪ねて、野口英世に触れないわけにはいくまい。私たちが、この地で最初に車を降りたのは、猪苗代湖の湖畔であり、その広々とした湖の空気を吸って、次に訪ねたのは野口英世記念館であった。
 そこで、改めてこの偉大な人物の生涯に触れた。ちょうど『「人類のため命をかけてのアフリカ遠征」~黄熱病研究の軌跡』という特別展(08
年4.28~11.30間)が催されていて、膨大な資料が展示されていた。この偉大な先人については、それなりに知っているつもりでいたが、知らないことばかりであった。
 ただ、今更それらについて書き記しても仕方あるまい。多くの教訓の中から、心に残った一点だけを書き残しておく。
 それは、自らの研究対象であった黄熱病に自分自身が罹り、遠くアフリカの地で死に至る時の最後の言葉である。彼が最後に残した言葉は

  
  「・・・私にはわからない・・・」


というつぶやきであったという。そこには、研究者としての執念を感じさせるものがある。

 
 それにしても、彼は何がわからなかったのであろうか?
 自らの命を奪おうとする黄熱病の正体のことであろうか?
 それとも、人間として背負ってきた哲学的課題の何かであ
 ろうか?
 それこそ、私など凡人には到底わからないことである。
                                                      
                                              


裏磐梯・五色沼の旅(5)--福島の酒

2008-06-27 18:22:53 | 

 

 福島県はまた酒どころである。銘酒の多い東北の中でも、酒蔵の数は一番多い。私が『蔵元のすすめる飲み屋』を書いた時(1996年)の調査では、蔵の数は92を数え、山形の57、秋田の53をはるかにしのぎ、東北ではトップであった。現在はどのくらいになっているのだろう。
 大手では「栄川」、「花春」、「会津ほまれ」、「奥の松」など、東京でもたくさん出回っており、「大七」などは生もと造りが有名で、すばらしい酒だ。
 中でも会津には、いい蔵がひしめき合っている。前記した大手(栄川、花春、会津ほまれ)のほか、「末廣」や「奈良萬」は名酒を造って確固たる地位をを築いており、最近では、小さい蔵で、広木酒造の「飛露喜」(会津坂下町)、喜多の華酒造の「星自慢」(喜多方市)、曙酒造の「天明」(会津坂下町)などが、たまらない名酒を醸している。会津ではないが田村市の玄葉本店の「あぶくま」などとともに、500石以下の小さい蔵でありながら、(いや、ちいさい蔵だからこそ、と言うべきか)純米酒を中心に素晴らしい酒を造っている。(広木酒造は今や千数百石の蔵になったが)

 今度の旅で嬉しかったことの一つに、宿泊した国民休暇村に、「会津の地酒」として、広木酒造の「泉川」、曙酒造の「天明」、東山酒造の「会津娘」はじめ、蔵元を忘れたが「春高桜」、「ゆり」、「写楽」などが揃えられ、いずれも純米酒、純米吟醸、大吟醸であったことだ。そして燗酒は「末廣」であり、すべて立派なものであった。しかも枡の中に据えられたコップには、枡にあふれんばかりに注がれ、量的にも充足感があった。
 われわれは二泊したが、義兄と二人で上記の酒を10杯飲んで、帰る日の朝ウェイトレスに「地酒をたくさん飲んでいただきありがとう」と御礼を言われた。

 私はこれらの蔵を回りたかったのであるが、いかんせん時間がなく、会津若松市の市中にある「末廣酒造」嘉永蔵だけを訪ねた。ちょうど蔵元は青森にご出張中であったが、奥様(専務取締役)にお目にかかり、蔵や建物の隅々から、建物内にある音楽ホール、クラシックカメラ博物館にいたるまで案内していただいた。
 創業1850年、徳川慶喜や野口英世の書をはじめ、幕末から現代に至る歴史を語る豊富な収集品に目を見張った。多くの蔵がそうであるように、地元の旧家として、単に酒を造るだけではなかったのだ。
                             


裏磐梯・五色沼の旅(4)--遠藤現夢の墓と碑

2008-06-25 13:06:12 | 

 

  裏磐梯高原は磐梯山の噴火により生じ、そこに榛(はん)の木などの自然林が自生して出来た、と書いた。しかし、すべてが自然のままに委ねられ、現在の美しく豊かな裏磐梯高原が生まれたわけではない。そこには、当然のことながら、先人たちの心血を注いだ努力の歴史も、また見ることが出来る。
 
裏磐梯国立公園の開祖といわれる遠藤現夢こと遠藤十次郎も、その先人の一人である。
 
この遠藤現夢の墓と碑が、五色沼自然探勝路の途中にある。途中と言っても、柳沼と青沼の間の、コースから350メートル左の山中に入ったところであるから、標識を見落とすこともあるだろうし、また往復700メートルの時間を惜しんで、訪ねない人も多いようだ。何といっても、華やかな五色の沼とは縁遠いほど、鬱蒼とした山中にひっそりとあるので、ルンルン気分には合わないかもしれない。私たちは、義兄の案内で当然のこととして訪ねた。
 
そこには、噴火岩と見られる巨大な岩石の洞に現夢の墓があり、その前の広場に功績を称える碑が立っていた。その碑には、

 現夢が、「資性剛直、物欲括淡、国家に奉ずる念篤き」人物であったこと「大噴火で荒廃した地に立ち、一念発起し数々の苦難を克服、先頭に立ちて鍬を執りて植林し、道路を開発し将来の大森林公園を期し、心血と私財を傾けた」こと

などが書かれてある。周囲は松ノ木に囲まれていたが、赤松の植林に力を注ぎ、五色沼の美しいコースの基礎を築いてくれたのであろう。
 
墓の右奥には「ながきよにみじかきいのち五十年ふんかおもえば夢の世の中」という、現夢の歌碑もあった。

 雄大な自然美とともに、先人たちによる並々ならぬ努力が、私たちに「心を癒す場所」を残してくれているのである。
                            


「ヴェルディの美しさに酔う」(補足)

2008-06-22 14:29:47 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨日の掲題ブログに対し、TNさんからコメントをいただいた。それにお答えする傍ら、ベルディの音楽について書き足りなかった点を補足する。

 私が「日本には、国民が一つの目標に向かって一体となって歌える歌がない。『君が代』は断じてそのような歌ではない」と書いたところ、TNさんから「何かに向かって一体となって歌う」なんて戦時中の軍歌を想起してイヤだ、と書いてきた。
 全くそのとおりで、「国民が一体となって歌う歌」で、軍歌しか思い浮かばないところに、日本の音楽の貧しさを感じていたところだ。しかもあの軍歌は、国民すべてが「一体となって歌った」とは思えない。かなりの国民が洗脳されてはいたが、それでも、心から歌って戦場に赴いたとは思えない。
 アメリカには「星条旗」があり、フランスには「ラ・マルセイエーズ」がある。確かにその背景には、前者は1812年の米英戦争があり、後者にはフランス革命があって、ともに血マナ臭さを伴う。しかし新しい国つくり、建国の精神が国民、特に民衆の中にあったので、いつまでも歌われ、ついに国歌となったのであろう。
 TNさんの言うように、日本は植民地支配をされたこともなく、平和できたので、そのような歌も生まれなかったのかもしれない。確かに、「一つの目標に向かって一体となって歌う」なんて、何か息苦しく、そんなこともないのが一番の平穏かもしれない。

 イタリア人がヴェルディを愛するのは何か? 昨日書いたように、これも祖国統一戦争のなかで、想いをヴェルディの音楽が満たしてくれた背景があり、血マナ臭さと無縁ではないが、何と言っても「ヴェルディの美しさ」が根底にあると思う。そこに息苦しさはないようだ。
 娘は、「ヴェルディの音楽には美しさとともに人間臭さがある。そこがモーツアルトと違うところだ」と言う。
 なるほど、モーツアルトの曲は美しすぎて国歌にはなりにくいかもしれない。しかしヴェルディの「ナブッコの合唱」は、イタリア人が国歌のように慕い、歌い続けているのである。
 それにしても、この合唱は美しい。
                            

 


ヴェルディの美しさに酔うーー佐野成宏コンサート

2008-06-21 15:07:29 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨夜、娘の誘いを受けてワイフと3人で上野の東京文化会館に出かけ、テノール佐野成宏コンサートを聞いた。東京文化会館レクチャーコンサート「激動の時代と音楽」シリーズ第1回『イタリア・スペイン編』という長いテーマのコンサートだ。
 レクチャーコンサートと題するだけあって、佐野成宏が自ら解説をして歌っていくので、曲が生まれた時代背景や構成などが良くわかり、佐野の豊かな声量からなる美しいテノールと相まって、「音楽の美しさ」を堪能した。
 前半は、スペインの民謡や歌曲10数曲を聞き、スペインにはこんなに美しい歌がたくさんあるのかと感心したが、圧巻は何といっても後半、ヴェルディの四つのオペラのアリアであった。
 四つのオペラとアリアは、『仮面舞踏会』の「再びあの人に逢える」と「永遠に君を失えば」、『ロンバルディの十字軍』の「私の喜びは呼び覚ます」、『マクベス』の「あ、父の手は」、『ルイーザ・ミラーの』の「夜が静まったとき」。
 その素晴らしさを詳述する余裕はない。ただ私は、その美しさに酔うと同時に、解説を聞きながら、ヴェルディという作曲家がいかにイタリア人に愛されたか、また、これらの美しい曲を誇り高く自己のものにしていったイタリア人の豊かな音楽性をうらやましく思った。
 19世紀のイタリアはオーストリアの圧政に苦しみ、国民は自由と独立を渇望しイタリア統一闘争を進めていた。ヴェルディの曲はイタリア人に希望を与えるものであったと言われる。『仮面舞踏会』の初演はナポリを予定してたが、時の権力に妨害され、ようやくローマで公演されたとき、人々は町中で「ヴィヴァ! ヴェルディ!」と叫びあったという。そしてこの言葉は、ヴェルディの「ヴェ」が統一闘争の象徴「ヴィットリオ・エマヌエレ2世王」の頭文字と重なって、全国に広まったと言う。
 また、ミラノで初演された『ロンバルディの十字軍』は、ミラノ人の反骨精神に受けて大成功したそうだ。
 私の大好きな曲の一つである『ナブッコ』の中の合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」も解説されたが、これは今でもイタリア人は国歌のように愛し、歌い続けていると聞く。

 それにしても日本には、どうしてこのような曲がないのであろうか? もちろん美しい歌はたくさんある。しかし国民が一つの目標に向かって一体となって歌うような歌、しかもヴェルディのような美しい曲がない。
 少なくとも「君が代」は、断じてそのような曲ではない。
                            


裏磐梯・五色沼の旅(3)--五色沼自然探勝路を歩く

2008-06-20 10:15:46 | 

 

 旅の二日目、今回の目玉である五色沼を探勝した。
 裏磐梯には、既に書いたように磐梯山の大噴火によるせき止湖沼が300はあると言われている。五色沼と言うのは、桧原湖、小野川湖、秋元胡という大きい湖にはさまれた40あまりの湖沼群の総称。私たちの歩いたのは、その中の10程度の沼を結ぶ観光コース「五色沼探勝路」で、約3.7キロの遊歩道。ゆっくり歩いても1時間のコースとなっているが、私たちはそれを約2時間かけて歩いた。

 このコースは、一般的にはバス停の「五色沼入り口」から「磐梯高原駅」に向かって歩くようだが、前日の自然林を案内してくれたガイドが、「逆の方が標高差約30メートルの下り道となり楽だ」と教えてくれたので、そのコースをとった。
 確かに逆のコースから来る人が多く、たくさんの人々とすれ違いながら歩いたが、修学旅行と思われる生徒の群れをはじめ、周囲の景色を見るよりひたすら歩いているという感じだった。これなら1時間もかからないで歩くだろう、と思ったが、もっと自然の美しさを楽しめばよいのに・・・、と人事ながら気になった。
 われわれは、約10個の沼で必ず立ち止まり、あるいはベンチに腰を下ろし、じっくりと探勝した。
 そしてこの沼々は名前に違わず、初夏の木々の緑と相まって、たくさんの色彩、輝きを表現して、私たちを満足させてくれた。その日が、晴れたり曇ったりの天候であったことも、一つの沼の色合いをさまざまな景観にしてくれたともいえよう。
 その一つ一つに触れる紙数はないが、沼の名前と主な色合いだけでも記しておく。

 最初は、他に比べればやや平凡な「柳沼」に始まり、「青沼」(コバルトブルー)、「るり沼」(コバルトブルー)、「弁天沼」(ブルー)、「竜沼」(茂みの彼方でよく見えなかった。それだけに神秘的な印象)、深泥沼(みどろぬま)」(青緑)、「赤沼」(赤くはなく緑、しかし岸辺の苔が赤く、これが名前の由来か?)、「毘沙門沼」(ボートが浮かぶ大きな沼で、様々な色をしていたが、陽の加減でコバルトブルーが美しい)

 最後の毘沙門沼からは、沼を越えて磐梯山の雄姿を仰ぐことができて、木々の緑と沼の青に引き込まれてきた雰囲気から一気に開放された気分になった。
 いやいや、なかなかのコースで、期待以上のものがありました。
                             


裏磐梯・五色沼の旅(2)--磐梯山の爆発と裏磐梯の景観

2008-06-17 15:33:39 | 

 

 磐梯山は、おおよそ千年ごとに大噴火を起こしているという。
 もっとも新しい大噴火が、1888(明治21)年であった。このとき、現在残る二つの山頂のほかに、裏磐梯側にあったもう一つの山が、水蒸気爆発でやかんの蓋のように吹っ飛び、今の山形になったという。 
 磐梯山の標高は1819メートル、爆発前の標高が1840メートルであり、現在確認できる火口が1100メートルであるので、約700メートルの一つの山が吹っ飛んだことになる。残った二つの峰が吊り尾根で結ばれた形になって、現在の雄大な景観を生み出している。
 吹っ飛んだ700メートルの山塊は、裏磐梯の谷を埋め尽くし、百数十の人家とそこに住む500人近い住民を飲み込んだ。同時にその谷を幾つにも堰き止め、そこに周辺の山々より水が流れ込み、幾つもの湖沼をつくった。すでに前回書いたように、長いものは30年をかけて生まれた湖もあるといわれ、それが名勝地“五色沼”などを生んだのである。
 こうして生まれた裏磐梯高原と湖沼の周辺には、水辺に強い榛の木などを中心に自然林が生い茂っていったらしい。私たちは、国民休暇村に到着するや、ガイドを頼んでこの自然林を歩いた。数知れない花や草木を教えられ、たくさんの鳥や虫の鳴き声を聞いた。
 中でも印象に残ったのが、“春せみ”といわれる蝉の一種で、九州では一番小さい蝉を“チーチーぜみ”と呼んでいたが、それより一回り小さいくせに、声だけは大きな声で鳴いていた。都会から来た我々に最高のサービスをしてくれたのか、その春せみが義兄の帽子にとまった。目ざとくガイドがそれを見つけ、私は写真に収めた。ガイドがいなければ分からないことであっただろう。

 この最初の「自然林と小沼の探索」は、ガイドの適切な説明を得て、この旅の基礎知識を得るに最適であった。二時間12,600円のガイド料金を上回る知識を与えてくれて、翌日からの五色沼めぐりなどを楽しい旅にしてくれた。
「何事にも先達はあらまほしきこと」(吉田兼好)なのである。
                             


朝は鶯の声を聞き、夜は星のこぼれる露天風呂に浸かって

2008-06-15 22:48:25 | 

 

 裏磐梯、五色沼の旅から帰ってきました。想像以上にすばらしい旅でした。
 ちょうど、栗原市を中心とした地震に重なり、裏磐梯も震度4とゆれましたが、あのような大きな災害になったとは夢にも思わず、のんびりと、素敵な旅を味わって帰ってきました。
 被災地の皆様には誠に申し訳ないと思いながら、貴重な体験はそれなりに大切にしたいと思っています。3日間の磐梯、吾妻の旅は、都会の生活を忘れさせてくれるものがありました。それは、都会人がいかに自然に遠く、非人間的な生活をしているかを教えてくれた旅でした。自然に近いだけが人間的かどうかは、議論のあるところでしょうが・・・。

 2連泊した「裏磐梯国民休暇村」は、なかなかいい宿でした。このような宿泊施設を運営しているのなら、国もそう馬鹿にしてはいけないなあ、などと思ったものでした。国、特に官僚をほとんど信じていない私としては、思いかけないことでした。
 広々とした敷地に、ゆったりとした宿舎・・・、部屋も広く、バイキング形式の食事も大変においしく、なかなかのものでした。何よりもその食堂の面前に広がる磐梯山の雄姿がすばらしい! 榛の木を中心にした自然林に囲まれた環境は、得がたいものと思いました。
 中でもすばらしいのがお風呂・・・その露天風呂に四肢を伸ばし、朝は鶯の鳴き声を聞きながら、夜はこぼれ落ちるような星を拾い集めるような思いで、気持ちのよい湯に浸かりました。

 磐梯山の噴火のこと、自然林のこと、猪苗代湖や野口英世のこと、またこの地が育んだ酒(日本酒)のこと、何よりもその美しさに心を奪われた五色沼のこと・・・・・・、たくさんの書きたいことを、次回より書き綴ります。
 先ずは無事に帰ってきた報告まで。
             08年6月15日 tabinoplasma

 


楽しみな裏磐梯、五色沼の旅

2008-06-12 16:59:34 | 

 

 明日から二泊三日で、裏磐梯、五色沼の旅に出かける。昨年、初めての上高地に案内してくれた義兄(ワイフの次兄)夫婦と4人の旅だ。今回の五色沼も初めての旅で、楽しみにしている。
 心配していたのは、6月の天気だ。梅雨を前にした6月中旬では雨を覚悟しなければならない。昨年の上高地は2日間一点の雲もなかったが、それは訪れたのが10月であったことにもよる。今年はそうはいくまいと、一週間ぐらい前から、長期予報を覗いていた。
 それによると、13日は雨模様の曇り(降水確率40%)、14日は曇り(同30%)、15日は曇り時々晴れ(同20%)ということであった。まあこんなもので仕方ないか・・・と思い、五色沼なんて雨の方が風情があっていいかもしれない、などと自分を慰めていた。
 ところが、昨日予報を覗くと、3日間とも晴れ時々曇りで、降水確率は10%となり、今日見ると13日(明日)は晴れ、残る2日も晴れ時々曇りとますます立派になってきた。晴れ男を自認してきた私としてはホッとしている。
 むしろ、これでは暑すぎるのではないか、とか、一日ぐらい雨の五色沼を味わいたいなあ、とか勝手なことを考えている。
 人間というのは欲張りなものである。
 まあ、旅は好天に勝るものはない。陽光に映える五色の沼と、初めてまじかにに見る磐梯山の雄姿に、今から胸をとどろかせている。
                            


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