2月20日は小林多喜二の命日(正確に言えば官憲の手により殺された日)である。だからこの前後に各地で多喜二をしのぶ会「多喜二祭」が開かれる。21日の「第29回杉並・中野・渋谷多喜二祭」に参加した。多喜二の後輩にあたる小樽商科大学卒の佐々木憲昭氏(元日本共産党参議院議員)が、多喜二の実像に詳しくふれた素晴らしい講演を行った。
多くの人は小林多喜二を共産党員作家と認識しているだろう。確かに彼は共産党員として官憲の手にかかり虐殺される。しかし彼の29年4か月という短い生涯の中にあってさえも、共産党員として生きたのはわずか1年4か月であった。佐々木氏の年表によれば、28歳を迎えた1931年10月に日本共産党に入党となっている。
あの全国一斉共産党弾圧事件を描いた『一九二八年三月十五日』(28年8月完成)も、最近になってベストセラーとなった『蟹工船』(1929年3月完成)も、また『東倶知安行』や『不在地主』なども、すべて共産党員となる前の作品である。もちろん彼は、前衛芸術家同盟に参加し、日本プロレタリア作家同盟の中央委員に選ばれたりしているので、波はすでに共産党員に劣らない活動をしていたのであろうが。
私は、多喜二は、自分を確固としてプロレタリアートの立場に置き、虐げられた人たちの目線を離れずも、一党一派に属さず広く一般人の中に身を置くことによって、人間の普遍的課題を追及しようとしたのではないかと思っている。そこに、『蟹工船』などが一世紀近い時空を超えて若者たちに読まれ、ベストセラーになった理由もあるのではないかと思っている。
もちろん時代はそれを許さなかった。治安維持法が極刑を死刑とするまでに改悪され、1931年9月満州侵略戦争が開始されるまでに及び、多喜二はその10月、日本共産党に入党し戦争反対はじめ諸活動の先頭に立つ。それは当然のことながら死を覚悟してのことであったであろう。そしてその通り、官憲は、死を賭して戦争反対運動の先頭に立つ多喜二を生かしておくことはできなかったのである。1933年2月20日、スパイの手引きにより多喜二を逮捕した築地警察署は、わずか数時間の拷問により多喜二を抹殺したのである。
考え方の違い、思想の相違を理由に人間を捕らえまた抹殺する…、この治安維持法という悪法の罪を日本人は未だ裁いていない。しかもそのような悪法により、小林多喜二のような崇高な文学の作り手、かけがえのない作家を抹殺した国家的罪を裁いていない。それどころか、今再びその道を歩もうとする動きさえある。
折しも、シカゴ大学出版局が日本のプロレタリア文学の短編・評論40作品を英訳し、「尊厳、正義、そして革命のために」と題して『日本プロれtリア文学選集』を刊行したというニュースがある。多喜二の文学ほど、この「尊厳、正義、そして革命のために」という題にふさわしいものがあろうか。日本は、この選集を逆輸入しなければならない遅れをとっているのではないか?