W杯サッカーでは日本が敗れ、本選に進んだ16チームの中で、私はひそかにコスタリカとギリシャの勝ち進むことに期待していた。ところがその2チームが早くも対戦して、互角に戦いながらコスタリカが8強入りした。
なぜこの2チームに期待したのか? ギリシャは日本の本選入りを阻んだチームで悔しかったが、その戦いぶりと風貌がどうしても憎めなかった。何よりも風貌に哲人ソクラテスの影を見て、「ギリシャ哲学よ、21世紀を照らせ」というような気になったのだ。サッカーとあまり関係なくて申し訳ないが。
コスタリカに至ってはもっと関係ない。1997年だからもう17年も前のことだがコスタリカを訪ね、それ以来、この国を愛し続けてきたことが応援する理由だ。南北アメリカを繋ぐ物騒な地域にある小国ながら、武器を捨て中立政策を掲げ、国の3分の1を自然保護区とし、軍備に使う金を教育に回して高い教育水準を維持した国柄は、私の心に残り続けている。
そこで初めてリバーラフティングを経験し、帰路のカンクーン(メキシコの観光地)でも初めてのパラセーリングを体験したことも、この国を印象付けているのかもしれない。
2000年前のギリシャ哲学はちょっと重すぎたようだが、20世紀から21世紀を、環境・教育立国として軽やかに生きるコスタリカ(実際は重い問題をたくさん抱えているのかもしれないが)に勝ち進むことを期待する。
優勝候補のブラジルだってPK戦でやっと勝ち上がったのだ。何が起こるかわからない。
安倍政権は何とか公明党を説き伏せて、集団的自衛権の行使容認を閣議決定する計画だ。何をどう説明しても、憲法解釈の変更で今までできないとされていた自衛隊の武力行使を、できるようにしようということだ。国の有り様の変更を、一内閣の閣議決定による解釈改憲でやろうというようなことは、到底許されるべきではない。
情けないのは公明党だ。山口委員長など一年前は明確に解釈改憲による集団的自衛権容認は反対だと言っていた。それが見事に説き伏せられて容認に回った。最早「平和の党」など名乗れない。その覚悟はできているのだろうか? よほど与党に残る必要性があるのだろう。地方議員の広範な反対を押し切ってまで与党に残る道を求めているようだ。
ところで今日の毎日新聞の世論調査結果では、集団的自衛権への反対は58%となっている。今の政府の説明では不十分だとする意見が81%を占めている。集団的自衛権の行使容認が抑止力になるかという質問に対しては62%の人が「思わない」と答えており、「集団的自衛権を行使できるようにした場合、他国の戦争に日本がまきこまれるおそれがあると思うか」という問いに対しても71%の人が「思う」と応えている。
民意は正確に、自公が進めようとしている危険な状況を察知している。安倍はまだしも、公明党はその様な民意をどう見ているのだろうか? もはや「平和の党」などと言えないことは、この民意に反していることからも明らかだ。
しかし国民は騙されない。上記世論調査にはっきり出ている。この世論に依拠して、万一閣議決定されてもその具体化である法制化を一つずつつぶしていくしかあるまい。
娘がオペラ『ラ・ボエーム』の公演に取り組んでいる。今度は従来と違って、オペラ界の鬼才と言われる岩田達宗氏の演出を得て、“小劇場演劇的オペラ”ともいうべき新しいジャンルを生み出すのだと意気込んでいる。
そして、毎日岩田氏のもとで練習に励む歌手たちの演技を観て、「泣けて泣けて仕方がない。(主人公の)ミミが可哀そうで…」と言いながら帰ってくる。私は、「観客が泣くならまだしも、演技をしているお前たちが泣いていたんじゃあ仕方ないではないか」と言うのだが、演技をつける練習で泣かされるほど岩田氏の演出は違うというのだ。
娘は、『ラ・ボエーム』について音大時代から数限りなく接しているはずだ。その同じボエームが演出する人で全然違う。岩田氏は、一人一人の登場人物について、その生い立ちを含めて自分なりの人間像を描きあげており、その人物たちに物語を構成させる。出演者が“その人物”に成れるまで、語りかけ演技をつけていくという。
物語の筋も登場人物の名前も全て同一だが、生まれた『ラ・ボエーム』は全く違うというのだ。『椿姫』を見ても『蝶々夫人』を見ても、娘は「主人公が可哀そうだ」と言っていつも泣いていた。しかし今度の「練習時からの涙」はちょっと質が違うようだ。7月24、25日の公演(「会場は座・高円寺」 )を楽しみにしている。
交響曲にしても、カラヤンだ、小澤征爾だと言って指揮者を選んで聞きに行く。映画でも黒沢だ、小津だ、山田洋次だとなる。サッカーにしても野球にしても、ルールも使用球も同じなのに監督により別物のチームが生まれる。高校野球など監督によって天と地の差が出てくる。
演劇も演出の力によるのだろう。演出家の知識、経験、生き様、哲学というようなものが、同じ題材を全く別のものに創り上げていくのだろう。
記事にする値打ちもない問題だが、首都東京の議会がこんな低水準の議員で構成されている事については、書き残しておかねばなるまい。
女性議員の質問に対し自民党議員席から、「自分が結婚すればいい」とか「子供を産めないのか」とかのヤジが飛んだことが、国内外から非難されている。その様な低劣なヤジが、こともあろうに都議会という、本来ならば首都の最高の英知を集めた議論が戦わさるべき場で飛び交うこと自体、都民としては恥ずかしい限りである。
もっと恥ずかしいことは、ヤジを飛ばした本人たちが名乗り出ないことだ。やっと一人の自民党議員が何日かおいて白状したが、「子供を産めないのか」などの発言者は口をぬぐって現れもしない。議員どころか人間として許せない。
それどころか、もっともっと恥ずかしいのは、都議会はそれら議員を特定する努力もしないで、またやっと白状した者を辞めさせることもできないことだ。つまり自浄力を持っていないということだ。形式的な決議文で幕を引こうなんて、口をぬぐって逃げ隠れしている議員と同水準の低劣さだ。
そして、もっともっともっと恥ずかしいことは、そのような議員を選んだ東京都民の愚かさかもしれない。この事件は世界の嘲笑の的にもなったが、その世界の目は、議員だけでなく広く都民に向けられているに相違ないから…。
夏至(21日)が過ぎて、日を追うごとに昼が短くなる。当たり前のことだがなんだか淋しい。日が伸びているときは前に進んでいるような気がするが、短くなるというのは引返している感じだ。若いころはそれを淋しいことだなんて思わなかったが、これも齢の所為か…。
サッカーのワールドカップも前半戦を終えようとしている。いくつかのチームが予選敗退を宣告され、わが日本も風前のともしびだ。自力ではどうしようもないが、何とか都合よくいくのではないか(つまり日本はコロンビアに大差で勝って、ギリシャがコートジボワールに僅差で勝つ)と思い込み、最後の望みをつなぐ。これも淋しいことだが…
プロ野球は交流戦を終えた。これは未だ折り返しとはいかないが、わが広島カープにとっては「魔の交流戦」(毎年敗北を重ねている)をようやく終えてホッとしている。ただそれまでにため込んだ貯金を半分はたいた。巨人に4.5ゲームの差をつけていたが、この交流戦で優勝した巨人は大いに貯金をため込んで逆に2.5ゲーム先を行った。
今年もまた魔の交流戦であったのだが、まあ、はたいたとはいえ6個の貯金を残しているので、淋しいが後半戦に望みをつなぐ。9連敗というみっともない成績を残したが(魔だ!)、最後を5連勝で終えたので、「淋しい」など言うと叱られるかもしれない。
我が人生は折り返しどころか先は短い。しかし望みだけは捨てまい。日本サッカーにも広島カープにも…
芦花公園にて
ワールドカップのギリシャ戦は、全国の日本人に深いため息をつかせる結果となった。70%近いボール占有率でもがきにもがいて攻撃をつづけたが点を取ることはできなかった。それを象徴するような写真が、昨夜の毎日新聞夕刊1面に載っていた。
「ギリシャのサマラス(左)とヘディングで競い合い体勢を崩す内田。左手前は大久保」
同紙の写真説明にあるように、へディングで競り合い日本の若者二人は体勢を崩すがギリシャの選手は崩れることなく、しかもその目は球を追っている。球技で球から目を離さないことは鉄則である。私はこの目に、常にイデア(知)を追い続けた哲人ソクラテスの目を見る思いがした。勝負あり、ではないか?
何度も書いたがサッカーは特異なスポーツだ。まず手を使ってはいけない。人間は手を使いながら進歩してきた。その手が使えない。もう一つ、相手エリアでは相手の最後尾を守る選手(除くゴールキーパー)より前に出てプレイしてはいけない(オフサイド)。誰よりも前に出てプレイしたいのは人の常だがこれに制限がある。手も足も出ないのである。
実にじれったい。したがって点は入らない。サッカーの正常な得点は0点ではないのか。それでも日本はがむしゃらに攻めたが点は取れなかった。相手のソクラテスたちは「汝自身を知って」いるので、あえて点を取ることなくまた相手にも点を与えなかった。
この試合は、「ギリシャ哲学に勝てなかった」ということではないか? 2千数百年前のギリシャ哲学を超えるために、21世紀の日本の若者は何を身につけたらいいのであろうか?
ヘッジファンドの経済活動はマネーゲームで、「売り抜く資本主義」であり「育てる資本主義」ではない。現下の株高はその外資に依存した妄想であると寺島氏は指摘する。その中で日本国民の生活はどうか? 寺島氏の指摘は続く。
2000年を100とした2013年10月の企業物価指数は、素材原料247.3、中間財116.5、最終財(消費財)87.2、と川上インフレ川下デフレ、つまり深刻な消費低迷を示す。その消費できない根本問題にワーキング・プア問題があるという。
2009年の雇用者5.478万人中、非正規雇用者(バイト、派遣など)は1.721万人(31%)、そのうち年収200万円以下のワーキング・プアは1.287万人で74%を占める。自営業者で年収200万円以下の人と、正規雇用者で200万円以下の423万人を加えると、200万円以下の収入で働く人は労働人口6.272万人の34%に当たる2.165万人に上るという。
これでは消費が伸びる余地はない。加えて生活保護受給者は2013年6月で215万人に達した。この層には生活扶助基準額(東京都標準3人世帯)210万円が支給されるが、住宅扶助や医療費無料などを加えると年収ベースでほぼ300万円の支給となる。こうなれば働くより生活保護を受けた方が楽となる。
寺島氏は、「税と社会保障の一体改革というが、生活保護と社会保障年金で支える社会は不健全――基本的には税と年金を支える『公民』を育てることが肝要」と指摘する。
一方企業利益は、98年を底として07年までに2.4倍になっている。問題は「なぜ企業は労働分配率を引き上げないのか?」ということだが、その理由に寺島氏は労働組合の弱体化をあげる。労働組合の組織率は2012年には17.9%へ下がり、しかも中身は公務員と大企業の組合に後退していると指摘。
労働者は、唯一の力である団結力まで放棄(奪われた?)して、生活向上、賃金引上げを要求する力も失っているのである。
これまた怖い、怖い話である。
三菱UFJ総研の寺島実郎氏講演会に行ってきた。かなり広範囲に様々な話があったが、中心は「日本経済・産業の現状と展望…アベノミクスの視座――外資依存の株高幻想の終焉と真の成長戦略の必要」というテーマであった。
豊富な資料をもとに、実に怖い話の連続であった。とにかく記憶にとどめておくため、氏の話した通りをできるだけ正確に書き留めておく。
・現下の株価上昇は、外国人投資家(ヘッジファンド)の買い越しによる。
2012年11月16日解散総選挙以降、2014年4月25日時点まで、外人投資家による買い越し累計額は15.7兆円。一方、日本人は14.3兆円の売り越し(機関投資家5.8兆円、個人8.5兆円)
・日本人は買ってないのだ。バブル崩壊の1990年以降、株価は69%下落して2012年は9.108円、地価の下落(商業地-77%、住宅地-51%)も合わせ日本の資産家は苦しみ続け、今回の15~16千円回復は絶好の売り場だったのか。
・しかし、ヘッジファンドの投資目的は短期保有の「売りぬく資本主義」。超金融緩和と円安政策の安倍政権の登場で、BRICsに向かっていた資金を一時的に向けて稼ぎ、様子を見ている。事実、今年の3月末米東海岸訪問時、あるヘッジファンドリーダーは寺島氏に次のように語ったという。
「超金融緩和と財政出動による円安誘導は自分たち海外投資家には好ましい環境だが、日本人にとって中長期的に幸福をもたらすとは思わない」
「自国通貨を安く誘導する国が中長期に成功した事例は歴史上皆無」
「自分たちは金融ビジネスの立場でしばらく日本株をENJOYさせてもらい、世界の金融構造の変化を見極めて機動的に動く、それのみ」
(以上、寺島実郎『時代認識と提言 資料集2014年初夏号』より)
まことに怖い話である。安倍政権や日銀幹部は、国を売る国賊ではないのか? そのような人たちに政治や経済を任せておいて大丈夫か?
弟の経営してきたY社の株主総会に出席してきた。渡された資料を見ると「32期株主総会資料」となっている。32年と言えば短くない年限だ。弟がその経営に参画して以来、32年にわたり私もかかわりあってきたことを思うと、感慨深いものがあった。
しかも今期も、償却前利益で32百万円を計上している。苦しい時期が何度もあったがそれを乗り越え、今も100人近い従業員を抱えて存続していること自体に意味がある。
総会終了後の懇親会で、私は次のような謝意を述べた。
「…今の日本は危険な方向に向かっていると危惧している。安倍政権の右傾化(集団的自衛権容認や、憲法改定の動きなど)もさることながら、中間層の崩壊…一部の裕福化と多数の貧困化…格差社会と貧困からくる様々な社会問題、に将来不安を感じている。そのような中で、各企業が雇用を確保し、従業員の生活を守っていることは意義が大きい。経営陣の努力に感謝する…」
道徳的廃頽を含め陰湿な事件が後を絶たない。以前には考えられないような事件が起こる。その多くの原因は貧困にあると私は思う。年収200万円以下が1千万世帯を超すという状態は軽視できない。まともに働いても食べていけないワーキング・プアーの存在など先進国の名に恥じる。どうして日本はその様な社会になったのだろうか?
その中で各企業が雇用を確保し、従業員の正常な生活を守り抜く意義は大きい。
公明党がついに集団的自衛権の容認へ足を踏み入れたようだ。言葉では一部容認とか極めて限定的とか言っているが、認めてしまえば同じことだ。一度認めれば、それが一部だろうが限定的だろうが、そんな枠はどうにでも解釈されて拡大される。つまり全く別の次元に足を踏み入れるということなのだ。
自衛隊の創設や派遣自体、本来は憲法に違反するが、自衛ということに限定し、少なくとも他国の戦争に出かけることだけはしないとしてきた。憲法9条からどう見てもそれは無理であるからだ。自民党自体もそう解釈してきた。
ところが安倍内閣はどうしてもその枠を取り払い、同盟国とはいえ他国と一緒に戦争のできる国にしたいようだ。いくらなんでもそれは無理だと、これまでの公明党なら反対するはずであった。
かなり与党ボケしてきた公明党に、私はかすかな望みをかけていた。だって、公明党の基盤はむしろ戦争で一番被害を受ける最下層の国民であり、常に平和をスローガンに掲げてきたと思っていたから。もちろんそれは幻想であった。そのようなことを期待する方が間違っていたのだ。
とにかく安倍政権に賛成する大義名分を探し回り、40年以上も前の憲法解釈か何かを見つけ出して集団的自衛権容認の根拠を引っ張り出してきたようだ。反対するためではなく、何とか賛成する根拠を探し回って与党に居座り続けようとするあたり、与党ボケの極みと言っていいだろう。
かくなるうえは国民の幅広い良心、戦争だけはだめだ、9条だけは守る、という運動を地道に広げていくしかないであろう。日本は大きな曲り道に差しかかっていることは事実だ。