舛添東京都知事の政治資金疑惑が連日マスコミをにぎわしている。「またか!」、「お前もか!」…と思うばかりで採り上げるのも憚るが、本人の釈明(釈明などにはなっていないが)を聞けば聞くほど、あまりにも一般庶民と感覚がずれているので、このような知事もいた、という事実だけでも書き残しておく。
政治資金疑惑ということになっているが、問われているのは法的に違法性はないかということではなくて、家族旅行の代金を政治資金(その中には国民の税金からなる政党助成金も含まれている!)で支払わせるとか、湯河原の別荘に毎週赴くのに都の公用車を使うとかを、当たり前のこととしているその感覚なのだ。
さすがに、家族旅行代金はまずかったと取り消したようだが、事がばれなかったらそのままにしていたはずで、訂正したからその感覚が正されたことにはならない。事の事実を第三者委員会の判断に待つ、という態度に至っては話にならない。真実を知っているのは誰よりも本人であり、第三者にいかなる賢人を選ぼうと、その人間がその場にいなかったならば真実の把握のしようがあるまい。時間などかけずに、一番よく知っている本人が資料とともに真実を語れば済むことである。
舛添氏は、元来権力者志向は強かったようだが、以前はむしろこのような金銭感覚を非難し、政治資金規正法などのザル法的性格を追求していた。この法がザル法であるのを十分知り抜いている氏は、自分の行為を違法でないと第三者なる者に言わしめれば、この問題を免れうると判断しているのであろう。
そのような感覚が、また国民とかけ離れている。いかにも「国際政治学者」らしい。そのような判断力は比類なきものを持っているのであろう。ところで、彼は東大教授であった。東大という大学は、そもそも明治政府が国の官僚を育てるために作った大学とされており、事実、東大出が国の運営、国を動かす大企業の運営の要所を握っているが、このような感覚の持ち主に学んだ東大生に任せておいて、我が国の将来は大丈夫だろうかと気になる。
権力についた者が必ず舛添氏のようになる、とは限らない(多くの人間はそうなるようだが)。先日採り上げた(2016.4.15付「小さな国の大統領の大きな提言」)ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領は、収入の大半を社会に寄付し、最低限の生活を続けながら世界の耳目を集める国つくりに取り組んできた。
権力者に求められるのは、まさに人間としての品格であろう。