富岡製糸場が世界遺産になって、一度は見ておく必要があろうと思いながら、今日まで果たせなかった。たまたま、日蘭協会が日帰りバス旅行を計画してくれたので、これ幸いと妻とともに参加した。
まず、高崎市の「日本絹の里」に案内され、蚕や繭についての詳しい予備知識を与えられた。母の実家が農家で、蚕を育てていたので、蚕や繭については十分に知っているつもりでいたが、一歩専門的な話を聞くと知らないことばかりであった。人間いくつになっても知らないことばかりだ。そして、群馬のこの地に、日本輸出産業の草分けとなる「富岡製糸場が開設された背景」(注)もよくわかった。
(注)五つの要因:①養蚕が盛んな土地柄、②広い工場用地、③外国人指導による工場建設に住民が同意、④既存の用水など水の確保、⑤燃料の石炭が高崎からとれる。
当地出身の渋沢栄一などの働き掛けもあったようであるが、こうして明治3(1870)年に早くも「官営製糸場設立の儀」が発っせられ、フランスの先駆者ポール・ブリュナと指導契約を結び発足する。初めは、ブリュナ一行が飲むワインを生血と間違え、「血を吸い取られる」と女工が集まらなかったこともあったらしいが、ブリュナの指導はきわめてよかったようで、一日8時間労働、休憩時間の確保、無料の病院による健康管理、教育指導の徹底(社内教育の日本のはしり)など優れたものがあり、それが後々までの成功につながったのであろう。
その後、三井家、片倉製糸へと民間に払い下げられるが、昭和62(1987)年操業停止するまで実に115年間操業を続け、日本の輸出産業の一翼を担ったとは、まさに世界遺産の名に値するものだと思った。
東置繭所――木造レンガ建ての構造(柱は木、レンガも不揃い)
ブリュナ一家の住居跡(帰国後は女工たちの夜学教室となった)
当日は昼間は快晴となり、榛名山や妙義山、また噴煙を上げる浅間山などが美しく展望できた。
帰りに立ち寄った「こんにゃくパーク」でたっぷりと試食後、各種こんにゃくの袋詰めを10個も買い込み、重みが肩に食い込んだことも書き加えておく。因みにこんにゃくは97%が水であるので、水を運んで帰ったようなものである。いやあ、重かった。