旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

『王将』(1948年、坂東妻三郎主演)を観て

2019-01-30 14:45:37 | 文化(音楽、絵画、映画)

 
 映画『マリア・カラス』を観て、その芸人根性に感動していると、マリア・カラスとは似ても似つかないが、将棋一筋に生きた阪田三吉の話が、娘との話題になった。早速、かの坂妻が三吉を演じる『王将』のビデオを借りてきて観た。

 大阪は天王寺のドヤ街に住む阪田三吉は、ぞうり作り以外は読み書きもできない男であるが、将棋にだけは異常な才覚と情熱を持っていた。やがて、東京に君臨する名人関根八段と対等に競い合うようになる。そして迎えたのが、あの「泣き銀」で有名な運命の一局である。
 時は大正2年4月6日、この一番は翌7日にかけて30数時間打ち継がれたと聞くが、勝負所に差し掛かった阪田は、いわゆる「2五銀」を放つ。ところがこの銀は阪田のミスで、やがて攻め立てられ、方々の体で自陣に逃げ帰る。いわゆる「銀が泣きよる」場面である。
 阪田は、自分のミスで銀を泣かせたことが悔やまれたどころか、そのような手を放った自分が許せない。何としてもこの将棋に勝って、銀の不名誉を救わなければならない。つまり「何としても勝負に勝つ」ことが運命づけられたのである。
 そして、長考の末に打った手が、角を捨て香を取る「6六角」であった。戸惑った関根八段の「金による角とり」から、形勢は一挙に逆転して三吉は勝利を収める。
 しかしこの手は彼の娘に見破られる。「お父さんは、ハッタリの手で関根さんに勝った」と娘になじられ、三吉は、実質的な敗北を認めて、名人を関根に委ねる。この勝負師も、芸の道にごまかしは許されない、という心情だけは貫いたのである。
 阪田三吉は、その後も長く生きる。実力的には日本一であったと思うが、晴れて名人位を手にすることはなかった。彼は自分の人生をどのように評価していたのであろうか? 何よりも、彼は幸せであったのだろうか?


映画『私は、マリア・カラス』を観て

2019-01-26 14:21:25 | 文化(音楽、絵画、映画)


 マリア・カラスの映画やドラマは、これまでにいくつか見た。しかし、この映画は、全く異なる感動を私に与えてくれた。新しく発見された手紙などの資料に基づくドキュメンタリー映画で、従来のドラマ化されたマリア・カラスと違った、まさに実像に触れたという気がした。
 何といっても、その素晴らしい歌唱力に今更ながら驚いた。天才マリア・カラスとか、不世出の歌姫とか、最高の形容詞がついたカラスを何度も見せられたが、、初めて、その本当の力を観たという思いだった。
 「こんなに美しい声だったのか1」、「こんなに力強い声だったのか!」と何度も思った。娘に言わせると、「完璧な発声による、最高の歌唱」ということだ。マリアの天性に気づいた母の容赦なき教育と、それに応えた不屈の努力が生み出したものらしい。 しかし、多くの天才が味わう世間やマスコミとの深い溝からくる悩みは、当然のことながらマリアを襲う。ローマ公演であったか、ベッリーニの『ノルマ』の途中、気管支炎で体調を崩す。彼女は、「こんな体調で歌うのはベッリーニ(作曲家)に対し失礼に当たる」と公演をキャンセルする。しかし聴衆やマスコミは一斉にブーイングで、「傲慢な女」と彼女を非難する。孤高の天才が受けなければならない、不可避的な悩みともいうべきか?
 ギリシャの富豪オナシスとの愛も、彼女の生き様を示している。オナシスは彼女の愛を裏切りジャクリーヌ・ケネディと結婚する。しかし、マリアの愛は変わらない。53歳という短い人生であったが、死ぬまでオナシスに対する愛は変わらなかったようだ。
 マリア・カラスが幸福であったか不幸であったか、それはわからない。しかし彼女が、歌にしても愛にしても、自分の信じる最高のものを求め続けていたことだけは確かであろう。
 

  


力を出し尽くした「未完の横綱」稀勢の里

2019-01-18 10:43:55 | スポーツ


 稀勢の里の引退に、多くの国民が愛惜の涙を流している。これほど多くの国民に、ひとしく惜しまれて引退した力士がいたであろうか? 彼は、モンゴル勢が席捲した平成の角界にあって、一人それに立ち向かって横綱まで上り詰めた。まさに、上り詰めたという言葉がふさわしいように、横綱になったとき、その体は、怪我のため相撲をとれる状態ではなかったようだ。
 彼は常に力の限りを尽くし、勝っても負けても表情を変えることはなかった。想像を超える逆転劇を演じても、ガッツポーズ一つ見せなかった。賞金の大束をつかんで振りかざす白鵬のしぐさに、出稼ぎ人の金銭の匂いがたたよっているのと対照的であった。
 稀勢の里は引退会見で、「親方から、横綱の世界は大関以下の関取の世界と全く違う、と言われたが、ついに横綱の世界は見えなかった」と言った。悔いが残ったであろう。しかし同時に、「わが土俵人生において一点の悔いもない」とも言った。この「悔いなし」は、努力の限りを尽くした充足感が言わせたもので、彼が求めた横綱の境地は、はるか先にあったのではないか?
 国民は等しく、この、平成時代の一番強い日本人に「完成した横綱」を見たかったのではないか? だから初日からの三連敗に対しても座布団ひとつ投げ入れることなく、彼の引退を惜しんだのであろう。

 双葉山が70連勝を阻まれたとき、「未だ木鶏に及ばず」と言ったことは有名であるが、彼は明らかに横綱の境地には達していたのだろう。稀勢の里は、「横綱の世界は見えなかった」と言っている。そして国民は、不屈の努力でその境地を追い求める「未完の横綱」に愛惜の情を惜しまない。いや、国民は、別の形でも横綱を完成するまで、稀勢の里とともに歩こうと思っているのではないか。


「レット・イット・ビー」(ビートルズ)、「そのままでいいよ」(高田エージ)…

2019-01-11 15:20:13 | 文化(音楽、絵画、映画)


 前回、今年最初の投稿を「無為に過ごす」と題して書いた。しかし、これは大変なテーマである。。つきつめれば、老子・荘子の教えだ。中国哲学の中でも高位に位置する哲学で、とても私など俗人が身に着け得る境地ではない。
 老子や荘子は、特に無為と言う言葉を使ってむつかしい説明をしているのではなく、「『空っぽ』の大切さ」(老子)とか、「『あるがまま』ということ」、「『役に立たない』ことの意味」(いずれも荘子)などと、身近な出来事を例にとりながら「人の生き方」を説明している。そしてその共通するところが「無為」ということになるらしい。
 辞書などによれば、無為とは、「自然のままに任せて」とか、「手を加えないこと」、「作為のないこと」などとなっている。とすれば、前回の私の投稿などは、正月三が日何もしなかったことの弁明に過ぎず、自己弁護のため「手を加えた」という「作為」が見え見えで、全く「自然のまま」とは言えない。


 嘆かわしい自分を見つめなおしていると、『レット・イット・ビー』という歌を思い出した。あるがままに、とでも訳すのだろうか? 「素直に生きなさい」と言う邦訳がある。まさに、老荘哲学そのものではないか?
 また、暮れの投稿にも掲げた高田エージの『そのままでいいよ』という歌も思い出した。「そのままでいいよ、そのままのお前が一番いい……」という歌で、『永遠だったらいいなあ』と並ぶ高田のヒット曲だ。
 『レット・イット・ビー』も『そのままでいいよ』も、それこそ永遠に歌い継がれるのではないか? ビートルズも高田エージも、音楽という芸を極めていく中で、一つの無為の境地に到達したのかもしれない。

 (注)『そのままでいいよ』については、2008.12.27と、2010.12.23の投稿をご参照。
 


無為に過ごす

2019-01-04 11:06:55 | 時局雑感


 早くも三が日が終わった。ここ数年、三が日は何もしていない。主としてテレビを見て終わっている。しかも、元旦は実業団駅伝、2日、3日は箱根駅伝、それと、年末の「第九」に続く二つのニューイヤー・コンサート(ウィーンとNHK)ですべてと言っていい。特に、三が日だけ許されている朝酒をチビチビ飲(や)りながら、大好きな駅伝を見るのは楽しい。
 駅伝は三つとも6時間に及ぶ。これだけで合計18時間だ。スタートからゴールまで、トイレ時間を除いてすべて見る。実業団駅伝では、年来のファン旭化成が三連覇して大満足したが、これは最後の100メートルでスパートして決着をつけた。従って最後の100か200メートルの時間、つまり3,40秒だけ見れば勝敗を知ることができたが、6時間前のスタートからすべて見る。すべて見て初めて最後の20秒の興奮を得ることができるのだ。
 駅伝の後は、年賀状の整理や、昨年からやり残した書類の整理などをダラダラとやりながら日が暮れる。夜はまた一杯機嫌でニューイヤー・コンサートを聴く。不満は何一つない。しかし、何かを為したという充実感はない。若い時は、これがたまらなく淋しく、初詣を始めいろいろなところに出かけたり、各紙を読みまくったり、むつかしい本を読んだりしてきたが、そのような意気込みは最早ない。
 四日を迎えて、今朝、やっと髭を剃った。昨年の髭をようやく落とした。と言って、特に不都合なこともない。七回目の年男、特にイノシシ生まれにしては猛進の気配もない。まあ、無為に過ごすのが一番いいのではないか?


投票ボタン

blogram投票ボタン