旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

百年後の知己を待つーー水野広徳執念の平和希求

2008-02-28 15:52:19 | 政治経済

 

 昨夜のNHK「その時歴史が動いた」で、水野広徳の生涯が描かれた。このジャーナリストの話を聞いたことはあったが、深く知ったのは初めてだ。
 
水野は、そもそも海軍で魚雷艇の指揮を執るほどの軍人であったが、第一次大戦後のフランスを視察してその惨禍に驚く。この世界大戦から戦争の様相が変わり、非戦闘員を含む国民皆殺し戦争となった。その様をつぶさに観察した水野は、「軍隊は国民を守るためにあるものと思っていたがそうではなく、むしろ軍隊のあることが国民に不幸をもたらす」ことに気づく。
 
爾来水野は「求めるべきは軍備撤廃である」と信じ、彼は軍人をやめジャーナリストとしてその信じるところを説く事となる。しかし時代は、世界的には植民地争奪戦の帝国主義時代、国内にあってもアジアへ覇権を求める15年戦争へ向かう時期・・・、水野の本は発禁となり、演説会はつぶされ、彼の後を絶えず憲兵がつけまわることとなる。
 
そしてついに、昭和161941)年2月、彼の言論は全て封じられることとなる。その10ヵ月後に日本は太平洋戦争に突っ込むのである。

 
彼はその後、一切世間から姿を消すが、後年分かったところによると「反戦平和、軍備撤廃」を求める文章を書き続け、その原稿は膨大な量に上っていたという。彼はそれを公表することが一族や関係者を不幸におとしめる事を知っていたので、ただひたすら書き溜めていたという。その最後の言葉は、

  
「反逆児 知己を 百年の後に待つ」

であったという。
 
凄まじい水野の執念に驚く。彼は軍備撤廃に向かうには「百年を要する」ことに気づいていたのかもしれない。事実、彼の死後半世紀がたつが、軍備撤廃どころか、日本は平和憲法を踏みにじり、遠くイラクへ派兵するまでに至った。加えて、憲法を改悪して戦争の出来る国になろうと躍起になっている。
 
われわれは、あと半世紀のうちに軍備撤廃の道に踏み出して、水野の「百年後の知己」になることが出来るであろうか?
                                                        


声帯の一部を失った歌手の挑戦

2008-02-25 17:33:17 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 ベー・チェチョルという韓国人オペラ歌手のドキュメンタリービデオ(NHK制作)を見て感動した。
 
ベーさんは美しい声と豊かな声量を持つテノール歌手で、ドイツの歌劇場で専属歌手を勤めるまでに成功していた。そのベーさんを襲ったのが甲状腺癌。しかも癌はかなり広がっており、手術の際に声帯の一部を取り除かざるを得なかった。
 
声を失った失意のベーさんを、奥さんと音楽プロデーサーのW氏やファンが励ます。励ましに支えられて発声練習を始めるが、昔の声はもとより、思うような声も出ない。日本の京都の医師の下で、声帯を可能な限り動かす手術を受け、少しずつ声を取り戻していく。
 
もちろん、オペラを歌うまでにはならない。ベーさんは日曜日には必ず教会に通う。彼を歌と結びつけたのは、子供時代から教会で歌った讃美歌であったし、手術の際に医師に促されて試しに出した声も讃美歌であった。その讃美歌を歌いながら少しずつ自身を取り戻し、未だ不十分の声ではあるが、教会の舞台に立って歌うまでになった。彼は言う。「讃美歌は声が出なくても歌が下手でも歌える。それは人間の心を神につなげるものであるから・・・」

 
それを聞き知った前記W氏は、ベーさんをもう一度舞台に立たせる必要を感じ、熱心に説得する。嫌がる彼をついに説得し、彼を支えてきた友人だけを前にした舞台で歌わせる。
 ソプラノ歌手
コッソッドの日本公演を終えて客の引いた広い音楽会場で、親しい友人たち何十人かが着席する客席を前に、舞台に立ったべー・チェチョルさんは美しい声で歌った。もちろんあの讃美歌を。歌い終えたベーさんに友人たちはブラボーを叫び、拍手は長く続いた。
 
舞台の袖で涙をたたえながら聞き入るW氏は「・・歌の巧拙ではない。苦しみを超え、努力を重ねた人の歌は一回り大きく、聴く人に別のものを与える。だから彼を舞台に戻したかったのだ」と語る。
 
ベーさんは苦難を乗り越えて、一段高いところで神と心を通わせたに違いない。
                            


人心の乱れ

2008-02-23 15:29:24 | 時局雑感

 

 自衛隊のイージス艦が漁船にぶっかった事件が問題になっている。
 漁業協組合の方の主張は極めて明快であるが、政府や防衛省側の発表は情報の遅れも手伝ってスッキリしない。どうもはっきりしていることは、イージス艦なるものはあの多くの船が行き交う中で自動運転をしており、「俺は真っ直ぐ進む。他の船が避けるべし」と言っているようだ。大変な傲慢ではないか?
 もしそうではないと言うのなら、前方を行く船を感知する能力を持たず、漁船一隻を避けることも出来ない船と言うしかない。イージス艦は一隻1400億円と聞く。そのような無能力な船に大金を払うムダ使いは、この財政逼迫の折にやめてもらいたい。
 渡辺大臣が「漁船と衝突するようでは自爆テロを避けることも出来ないではないか」というようなことを言ったというが、何よりも、平和をこそ志向すべき時期にいたずらに仮想敵国を作って軍備を整え(国の年間軍事費5兆円)、加えて無能力な船を買うことだけは即刻やめていただきたい。

 そんな話をしていたら、政府や政治家だけでなく、民心も乱れていると言う話になった。
 新幹線の無賃乗車者は一日2~3百人に上るのだそうな。どうやって改札口を通過するのだろうか? また、こんな話もあるという。大きな荷物を持った女性がタクシーに乗り、目的地近くで「ちょっと用事があるから」と言ってその荷物を置いたまま降りていった。運転手さんは大きな荷物があるので帰ってくると思っていたが待てどくらせど帰ってこない。荷物を開けてみると、新聞紙がいっぱい詰めてあったと言う。
 日本はいつからこんな妖しげな国になっていったのだろうか?
 人心の乱れはどこまで深く進んでいるのだろうか?
 上のような無線乗車のことを書くと、それをマネする輩が現れるかな? お互いに戒めようと思って書いているのだが・・・・・・。
                            


映画「イル・ポスティーノ」について

2008-02-22 14:23:41 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨夜、NHKの衛星映画劇場でイタリア映画「イル・ポスティーノ」を再び見た。10年以上前に有楽町の映画館で見て、それ以来心に残り続けている映画である。
 ブログを読み返してみるとちょうど一年前、07年3月3日に「サリーナ島への想い」という題でこの映画に触れている。シチリアへの旅の思い出を書く中で、その旅で訪ねたナソという街からティレニア海に浮かぶサリーナ島を遠望したときの思い出を書いたものだ。というのは、「イル・ポスティーノ」の舞台がサリーナ島であるからだ。

 チリ革命(アジェンデ社会主義政権)瓦解のあと、同政権の樹立に係わった詩人パブロ・ネルーダがこの島に逃避し、そこに毎日郵便物を届ける郵便配達夫(ポスティーノ)とネルーダとの友情物語だ。無学な漁夫の子である郵便配達夫マリオをマッシモ・トロイージが演じ、淡々と描き進んで、ただ清々(すがすが)しさだけが残った・・・というような映画である。

 マリオは自分の思いを恋人に伝えようとネルーダの詩をそのまま書き写した手紙を送る。それが発覚して、ネルーダは「人の詩を勝手に使ってはいけない」と諭す。しかしマリオは「・・・詩はそれを最も必要する人のものである」と言い返す。その裏には「貴方の詩はもはや貴方のものではなく世界全人民のものである」という主張が隠されている。さすがにネルーダも「・・・実に民主的な考えだ・・・」と無断に使った罪を許す。
 前回も書いたが、このシーンが一番好きだ。

 チリに帰国したネルーダは数年後ふたたび島を訪れるが、マリオは既に亡く、パブリート(ネルーダの名前パブロのイタリア読み)という子供と、マリオがネルーダに送ろうと島の「波や風や空の音」を録音したテープが残されていた。ネルーダは海浜を歩きながらそれに聞き入る。
 共産党員であるマリオは、党大会に参加し警官隊の弾圧の中で死んだのだ。マリオはそこで自作の詩を民衆の前で読むはずであった。それは「あるとき詩がやってきた・・・」というネルーダを称える詩であった。
 その詩を書いた紙片が弾圧される群衆の中を舞い、踏みにじられていく場面で映画は終わる。そしてマリオを好演したマッシモ・トロイージも、この映画を撮り終えて一週間後に死んだ。
 字幕の最後は「わが友 故マッシモに捧げる」という言葉であった。
                            
 
 


純米酒の動向ーー純米酒フェスティバルについて

2008-02-20 17:34:25 | 

 

 私の勤務する会社のオフィスは東新宿(明治通りと職安通りの交差点)にあるが、この付近は新宿のはずれ、というより歌舞伎町のはずれに当たるからか、昼飯を食べる店も少ない。いくつかあった蕎麦屋やイタめし屋、喫茶店なども次々と廃業して、将来この付近はどうなることかと案じている。
 ところが、近くにすし屋が開業したので行ってみると、うれしいことに純米酒が置かれていた。名倉山純米吟醸酒など私の好きな酒があり、白雪などもあったがこれも純米酒であった。
 最近おおくの店が純米酒を置くようになり、特に純米吟醸が目立つ。従来は日本酒のことを「お酒」という表示で片付けていたが、ようやく銘柄を書くようになり、加えて「純米酒」とか「純米吟醸酒」とか表示する店が増えてきて、日本酒も「酒の地位」を獲得しつつあると感じる。
 日本酒は低迷を続けシェアを下げ続けているが、純米酒など本物の酒は逆に生産量を増やしている。今後の動向に大いに期待してやまない。

 ところで私は、純米酒普及推進委員として、他の4人の同志と毎年「純米酒フェスティバル」の開催に参画している。2000年に立ち上げ毎年春と秋に2回開催、この4月13日の催しが17回目となる。「純米酒を日本酒の本流にすえよう」というのがコンセプトで続けているが、毎回1200名(昼の部と夜の部で各600名)が集まる。しかもいつも満員で、事務局は満席後の申込者を断るのに大変だ。今回も2月17日午前10時に入場券の発売(メールで受付)を開始したが、昼の部は2時間、夜の部は4時間で完売した。
 集まる人は本当に日本酒を愛していて、50の蔵が出す250~300銘柄の純米酒を実に気持ちよく楽しんで帰る。これらの人々が市井の飲み屋や食事屋で純米酒を要求することが、冒頭に書いた「銘柄や純米酒表示」を進めているものと思う。
 運動とは地道で長い、しかも広範な人々で推進されるものだとつくづく思う。
                            


太平山の蔵開き

2008-02-18 21:52:08 | 時局雑感

 

 「酒蔵開き」には今まで参加したことがなかった。今回秋田を訪ねたついでに、ちょうど行われていた「太平山」さんの蔵開きに参加して、その盛大さに驚いた。
 私は、せいぜい数十人が集まってこじんまりと話し合いながら、また蔵元の話を聞きながら新酒を酌み交わすのかと思っていたら、とんでもない! 何千人という人が集まり、出店もあり、催しもあり、大イベントが繰り拡げられていた。
 さすがに酒どころ秋田! という感じであった。もちろん、酒蔵案内もあり利き酒もさせてくれるし、太平山らしく味噌蔵も醤油蔵も案内してくれた(小玉合名さんは、そもそもの発祥は醤油であることを初めて知った)
 雪国秋田で、外に出る機会が少ないだけに、このような催しは地元の人に格好の楽しみを与えてくれるのであろう。
                             


秋田の地吹雪(じふぶき)

2008-02-17 13:53:09 | 

 

 昨日、一昨日と秋田に出張した。
 空港に降り立って先ず感じたことは、最高気温が氷点下という寒さは、東京とは質を異にする寒さであるということであった。
 迎えに来てくれたH氏の運転で八郎潟に向かったが、H氏によれば、その日の2~3日前の寒さはものすごく、地吹雪が吹きすさんだと言う。しばらくの間もっぱら地吹雪の話となったが、その様は、降り積もった雪が地を這う強風に吹き上げられ、車のフロントガラスを襲って視界は数メートルになるという。大型車は運転台が高いので上から見下ろすかたちのなるが、スポーツカーや乗用車はまともにその吹雪の中を突き進むことになるらしい。
 加えて、吹きつける雪はランプを覆い、指し示す明かりが小さくなって恐怖感を増すそうだ。北国でしか味わえない恐怖といえるのだろう。
 同時にH氏は、「・・・しかし、もう2月の中旬・・・、これは最後の寒気で、一週間もすれば春に向かうでしょう。」と話した。そして二日間に出会った何人かの人が、同じように「春は近い」と語ったのが印象的だ。
 夜明け前が一番暗いように、極寒のピークは春がそこまで来ていることを知らせている、と言えるのであろう。

 その夜、八郎潟の行きつけのすし屋に立ち寄り、当地ゆかりの「浦城本丸」(福禄寿酒造)や「天の戸」(浅舞酒造)の燗酒などを飲みながら地吹雪の話などをしていると、店のママさんが粋な言い伝えを教えてくれた。
 「女子(おなご)の酒飲みと地吹雪は大したことはない」

 猛威を振るう地吹雪も、いつまでも続くことはなくむしろ春の前触れと言うのか。もっとも、最近の女性の飲みっぷりは、そう一過性のものとも思えないが・・・。
                            

 


たまご酒追記ーーうれしかったNさんのコメント

2008-02-13 21:07:31 | 

 

 10日の「卵酒(たまござけ)」について,Nさんから素敵なコメントを頂いた。
 Nさんも私同様、子供の頃風邪をひいてお母さんにたまご酒を飲ませてもらったという。そのことを懐かしく思い出して、私のブログにコメントを書いてくれた。しかもNさんはもっと素敵な体験をなさっている。ザルツブルクにいた頃の寒い夜、滞在先のおばあさんに「香辛料のきいた熱いワイン」を頂いたことが忘れられないと言う。
 そしてNさんは、それが風邪に効くかどうかより、「それを作ってくれた人の心づくし、愛情がわたしを風邪から守ってくれた」と書いている。実に心温まるコメント、本当に有難う。

 ザルツブルクにも、たまご酒のオーストリア版があるのだ。もっと言えばどこの国にもあるのだろう。温まる酒としては、日本には「生姜酒(しょうがざけ)」というのもある。これは酒に香辛料を入れたものと同じといえよう。しかも生姜は漢方薬でも様々に使われるので、これも酒のジャンルではなく薬であろうから、成年、未成年にかかわらず飲んでいいのであろう。
 私は未だザルツブルクに行っていない。サウンド・オブ・ミュージックに因んで「思い出のオーストリア」という題でブログを書いたのは、ちょうど一年前の昨年2月7日だ。私はそのブログで「ザルツブルクに行きたい!」と叫びに似た記事を書いた。Nさんのコメントで再びザルツブルク願望がよみがえった。昨年秋ミュンヘンにまで行ったが、ほんのの国境を越えるだけの位置まで行ったのに、ミュンヘンから逆方向のロンドンに飛んだ。
 ザルツブルクはいつまでも私の夢だ。その夢が実現したら「香辛料のきいた熱いワイン」を何としても飲んでみたい。
                             


2月の酒

2008-02-11 20:56:24 | 

 

 何日か前に「2月・・・酒」を書いたところ、二人の方からコメントを頂いた。一人は秋田の方で、「「2月の秋田は蔵開きのシーズンです」と、いくつかの蔵の日程を教えてくれた。これには興味があり、蔵開きについて書こうかと思ったが、ある事情があってそれはやめた。
 もう一人の方からは、酒の歳時記に因んで「酒暦」を寄せてくれたが、それによると「2月は月下独酌」となっている。神垣あゆみさんの選んだ酒暦で、1月鏡開き、3月雛の宴、4月花に酔う、・・・などと素敵な言葉が続いている。
 しかし2月が「月下独酌」というのが、実感としてピンと来なかった。この言葉は恐らく李白に違いないと思うが、李白は、2月のこの寒い時期に月を眺めて酒を酌んでいたのであろうか? この言葉の出る詩が2月を舞台にしているとは知らなかった。(機会を見て史実を調べてみよう) 日本なら月の下で飲むとなれば、9月か10月であろう。所変われば時節によって愛でるものも違うものである。
 日本人はこの季節は、部屋にこもり、鍋を囲み、熱燗を酌み交わすのが定番であろう。
 その時の酒は、重ねて言うが山廃純米の燗酒をお奨めする。
                             


卵酒(たまござけ)

2008-02-10 15:32:11 | 

 

 ふぐのひれ酒を「香味アルコール飲料」と書いたが、香りではなく、精をつけ元気を取り戻すことを狙った卵酒なるものもある。若い頃、風邪を引くとおふくろが必ず「卵酒をつくろうか?」と言ったことを思い出す。卵入り熱燗酒で、カンカンの熱燗で温まり、汗を出し、酔いの勢いでぐっすり眠り、その間に卵の栄養分が効いてくれば、何も風邪でなくても万病に効くかもしれない。
 不思議なのは、子供の頃(少なくとも20歳前)から飲まされた記憶があるが、おふくろはこれを未成年が飲んではいけない酒と思っていなかったのではないか? これも酒のジャンルには入らない「強請薬用アルコール飲料」とでもいうべきものか・・・。
 森下賢一氏の「美酒佳肴の歳時記」によれば、この卵酒はヨーロッパにも古くからあり、アメリカの代表的なものは「トム&ジェリー」で、また「イギリスには、黒ビールを煮立たない程度に温めて、溶いたタマゴと砂糖を入れ、ブランデーとナツメグで風味づけする『エイル・フリップ』という卵酒もある。ワインで同じように作る『ポッセット』という卵酒もある」(同224頁)とあるので、古典的な酒の一種であるようだ。
 私はてっきり日本酒特有のものと思っており、しかもおふくろの作る変な飲み物としか思っていなかった。エイル・フリップやポッセットのように念の入った作り方ではなく、とにかくアツアツ燗に生卵を放り込みかき混ぜただけのものと思っていた。熱い上にアルコールの匂いがツーンときて(当時わが家にはアル添三増酒しかなかったはずだから、相当悪い酒であったに違いない!)決して美味しいものではなかったが、正に「薬と思って」飲んだものだ。しかし今思えば砂糖ぐらいは入っていたのかもしれない。
 そして、卵酒を飲めば、風邪ははいつの間にか治っていたような気もする。何も卵が入っていなくても、風邪気味のときは痛飲してよく寝れば、翌日二日酔いのさめるのに合わせて風邪も治っていたようだ。若くて体力もあり、もしかしたら当時の風邪は最近の「なになにウィルス」とか「何号インフルエンザ」などいうものに比べれば、酒で追い出せる程度の単純な菌であったのかもしれない。
 世界中を駆けめぐり強力な菌に成長したウィルスには、もはや卵酒程度では勝てないだろう。しかし別の意味で、「美味しい卵酒」をつくり、健康なときに味わってみたいものだと思っている。
                            


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