旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

臼杵人物記 山本達雄

2025-02-20 10:13:11 | 政治経済



 山本達雄は、安政三(1856)年、臼杵の海沿鉄砲町に父確、母シマの次男、7人の4番目として生まれた。家族の暮らしは苦しく裕福ではなかった。
 色男であったが、ガキ大将で喧嘩は強かった。勉強は頑張り、藩校学古館に学び、書道に励み達筆屋であった。金がなくなってもどこにも出かけ働いた。いよいよ上京して金稼ぎをやるため慶應義塾に入るも月謝が続けず、大阪に行き教員養成学校、岡山県立商業講習所、大阪府商業講習所などに行く。
以降、ようやく方向が定まったのであった。
 ・三菱汽船会社への入社。28歳。荘田平五郎の紹介。
 ・同、横浜支店副支配人、東京副支配人。(三菱へ)
 ・営業局仕事の外国出張も、ロンドン、オクスフォー
  ド、ケンブリッジでも働いた。
 ・日本銀行へ入社。 
 ・明治31(1899)年、日銀第五代総裁、43歳。
 ・明治36(1904)年貴族院議員、のち大蔵大臣。
 ・大正9(1921)年爵位拝命男爵、65歳。

 山本達雄は、長く荒仕事、力仕事を遂げた。そして幕府(1856)から明治、大正より、昭和23(1948)年という第二次大戦後までを生きた。92歳。

 臼杵人を代表する山本と吉丸の会話があった。力仕事の上に日銀総裁(明治31年)になった山本は、これも猛勉強を経て東京帝大卒業した(明治34年)吉丸が珍しく、大酒呑みという噂を知っていた。
早速、吉丸が大学卒業のため山本に挨拶すると、
「それは良かった早速に俺の処へ来い」
「私は文科出の者で使いものにならないでしょう」
「何だお前文科出か。大酒を呑む、苦学生の面倒を見てると聞いていたのでテッキリ法科出身の暴れん坊と思っていたヨ」
と笑っていた。(吉田稔氏記)
 山本達雄も、吉丸一昌の美しい歌の調べ(「故郷を離るる歌」など)を聞くことも無かっただろう。

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