今年も暮れる。85歳の年が暮れてゆく…。
コロナ禍で何もできない年であった。何といっても年初から突如襲われたので、慌てふためいて何もできなかったのだ。過ぎてみて、やりたいことがいっぱいあることに気が付いた。
80代も半ばを過ぎたのだ。来年こそは、コロナの下でもできる方法を考えて、今年の轍を踏まないようにしよう。コロナごときに、残された貴重な時間を奪われてはたまらない。
今年はどんな年であったのか?
良かったこと
・一家、コロナに襲われず大病もなし
・コロナ禍にあって、ミャゴラトーリ公演成功
10月『ガラ・コンサート』(持続化給付金200万円を受けて)
12月『ドン・カルロ』(文化庁支援150万円を受けて)
・マザーズ社の業績順調
コロナ手当月額5万円の新設(実質ベースアップ)
・はやぶさ2、ロマンに満ちた6年ぶりの帰還
・トランプの敗北、安倍晋三の退陣
(菅内閣も変わり映えしないが)
悪かったこと
・夫の視力、夫妻の記憶力の衰え
老齢化現象の最たるもので、嘆くに値しないか?
・コロナ禍で、集会や交友が絶たれたこと
・「純米酒を楽しむ会」1回のみの開催で無期延期
コロナのせいで、今後の開催メド立たず
・弟健次の手術。病院での年越しとは悲しい
まだまだいろいろあるが、総じて良い年なのか悪い年だったのか…
30年点検で屋根、外壁等を補強。きれいにはなったが金もかかった
人類が、この年2020年を語り継ぐとしたら、それはコロナなどではなくはやぶさ2についてではないか? これほどロマンに富んだ話はない。
なにせ6年間、52億キロメートルの惑星リュウグウへの旅から還ってきたのだ。しかも約束の玉手箱を携えて。玉手箱の中から出てきた「リュウグウの砂」は、数十億年前の太陽系の起源を明かす貴重な資料と言われ、又その砂は「生命の起源を秘めた水」を含んでいると期待されている。
はやぶさ2は、その玉手箱を約束の時刻に約束の場所(オーストラリアの砂漠)に落として、振り向きもしないで、次のミッションに向けて飛び立った。11年後の到着を目差す次の惑星に向かったのだ。
こんな洒落た振る舞いが誰にできるだろう。
11年後、私は生きていないが、はやぶさにとっては日常茶飯事の数字かもしれない。とても人智の及ばぬところだ。
ところが、このはやぶさを動かしているのは日本の科学者たちだ。彼らはいったい、どんな生い立ちをし、どんなロマンに満ちた日常生活を送っているのだろうか?
こうしてわが音楽室は、小さいながらもピアノ教室の子供たちの遊び場となり、オペラ歌手たちの練習場となり、また小宴会場となっていったのである。私が顧問を勤める会社の社員たちのビアパーティの場所ともなった。
娘は将来、私たち夫婦がいなくなれば、隣接する私たちの寝室と書斎を潰して、子供たちの音楽教育の場として音楽室を拡大したい夢を持っているようだ。折しも30年点検を受けて、屋根や外壁補強をやったので、「この家は、あと30~40年は大丈夫」という三井ホームの言葉もあった。
このような度に悔やまれるのは、前述したように、何故妻が使用していた時に部屋の拡充をやらなかったかということだ。妻はピアノ教室のほかに二つのコーラスグループに参加しており、今の広さであったら、もう少し使い方があっただろう。
妻は色々と工夫したが、「ちょっと狭すぎる」ためにそれらの試みをあきらめてきた。自分の配慮の不足が悔やまれてならない。妻はどう思っているのだろうか、聞いてはいないが。
晩秋の松澤病院
やがて妻は、ピアノ教室を弟子ともども娘に譲った。娘は、ピアノのレッスンを続ける傍ら、予てから計画していたオペラ普及集団ミャゴラトーリを立ち上げた。10年ぐらい前のことである。
わが音楽室は、「首藤ピアノ教室」兼、NPO法人「ミャゴラトーリ」の活動拠点となった。子供たちのレッスンが終わると、オペラ歌手たちが現れ歌の練習を始める。「練習場が欲しい」と娘はいい続けていた。
私は予てから気になっていた部屋の改造に踏み切った。全体を拡張するゆとりはないが、せめて音楽室に食い込んでいた洗面所を外に移し、効率的に使用できるようにと思ったのだ。2015年のことであったが、改造により玄関まわりはやや狭くなったが音楽室は正常な形になり、奥にグランドピアノが収まって、8~10畳の正方形に近い空間が取れた。指揮者とピアニストに加え、2,3人の歌手の歌稽古ぐらいはできる。決して満足ではないが。
こうしてわが音楽室は、小さいながらも娘の仕事場と化したのである。(つづく)
獲物を狙う将軍池(松澤病院)のサギ(?)
前回の『ドン・カルロ』の投稿で、我が家の音楽室に触れた。この小さな音楽室にも、歴史の経過と好悪さまざまな思い出がある。
妻は子供の頃からピアノを愛していたらしく、私と結婚したとき、鍋かまは持って来なかったがピアノ(もちろんスタンドピアノ)だけは持ってきた。当初は6畳一間の間借りで、その床の間にピアノをすえて弾いていた。
やがて家を建て、ピアノはリビングに据えられ、近所の子供たちにピアノを教えるようになった。彼女の夢は、いつの日かグランドピアノを買って、本物の音を子供に聞かせ指導することだった。
第二の人生で三井ホームに勤めることをなったのを機に、私は思い切って家を建て替え(三井ホーム三階建)、一階の半分を音楽室にした。それとて11畳か12畳のものであったが、妻は浜松まで出かけ、念願のグランドピアノを購入してきた。
ところが、私の設計ミスで、一階にどうしても必要なトイレを、音楽室に食い込ませてしまった。いびつになった音楽室へのピアノの収まり具合が悪く、子供のレッスンには支障はないが、発表会や妻の属するコーラスの練習には「チョット狭すぎ」た。
妻はやがてこれらの計画をあきらめざるを得なかった。「妻の夢を十分に適えられなかった」…、私はこれを、今も後悔している。(つづく)
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散歩の花(松澤病院周辺)
苦しみながら公演に辿り着いたミャゴラトーリの『ドン・カルロ』(演奏会形式)は、素晴らしい出来栄えで参加者の絶賛を浴びた。私のような素人にも、歌手たちが120%の実力を発揮したのではないかと思えるくらい感動した。
ヴェルディ晩年のこの大作(原作シラー)は、長大かつ難解なテーマであるが、司会者の適切な解説と、素晴らしい字幕が観客の理解を助けた。何よりも歌手たちの圧倒的な歌唱力が、聴く者の心を打った。
私は、ミャゴラトーリにこのような力を持った歌手たちが集まっていることを心から嬉しく思った。加えてこの演奏会の成功には、公演に至る過程を身近に見てきた者として代えがたい喜びがあった。
思えばこの企画は、コロナですべての演奏の機会を奪われた歌手たちが、我が家の音楽室で始めた勉強会に端を発する。「こんな機会に、じっくりと基礎的勉強に取り組みたい」、「できることなら難しい課題に挑戦したい」と選んだ曲が『ドン・カルロ』であったと聞く。
夏のさ中、三々五々集まって続けた勉強会の成果は、やがて文化庁の認めるところとなって、その支援も得て今回の演奏会になった。我が家の小さな音楽室が何らかのお役にたった、ということも、この老体の喜びの一因であったのである。
カーテンコールで観客の拍手に応える出演者
参加者と懇談するテラッチ(寺田宗永)さん
10年ぶりミャゴ出演のジョン・ハオさん(右)