安土城跡は、ただ石段が続くだけであった。
天正四(1576)年、天下統一を夢見る織田信長は、重臣丹羽長秀を総普請奉行に据えて、岐阜城より京都に近い琵琶湖畔の安土山(標高199m)に築城する。
3年で完成し、頂上には絢爛豪華な天主閣がそびえたと伝えられるが、今は何もない。大手門から続く大手道(石段)には、右に前田利家と徳川家康、左に羽柴秀吉の屋敷があったらしいが、その跡形もない。
ただひたすら石段が登る。しかも180mも直線が続き、ようやく左右にくねる。城の石段は防衛のために曲がりくねるが、信長の狙いは戦のためというよりは権力の誇示にあったとも言われている。
しかし信長は3年後、明智光秀の謀反で本能寺に討たれ、その混乱で安土城も落城、すべて焼失したと伝えられる。
ひたすら石段を登って30分、同じ石段を下って20分、往復約1時間の行程である。この行程には意見が分かれた。多くは、緑したたる大木を縫う石畳に風情を感じ戦国武将の夢を追ったが、一部は、何もない石段を上り疲れただけ…、というものであった。
城址を降りて『信長の館』を訪ねた。これは、信長築城から400年余を経た1992年、「スペイン・セビリア万博の日本館のメイン展示として安土城天主の最上部5・6階部分が東京大学など3大学の指導あって忠実に復元されたもの」(同館リーフレットより)を移築した館である。
まさに絢爛豪華で、苦労して城址に登った後だけに信長の権勢を見せつけられた思いであった。