旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

春と聞かねば

2025-02-27 16:41:09 | 時局雑感



 2月26日。暦の日繰りピッタリに合った暖かさ。前日までテレビが猛吹雪を知らせてあったが、決まったように春のニュ―スだ。

「春と聞かねば 知らでありしを
   聞けば急(せ)かるる 胸の思いを
 いかにせよとの この頃か」(早春賦)

 うれしい反面、90歳(4月23日)の年齢が近づくにつれて、「おやっ…?」という音が聞こえている。体調は確実に弱っているが、まあ、特に異常はないが、いいだろう。

臼杵人物記 山本達雄

2025-02-20 10:13:11 | 政治経済



 山本達雄は、安政三(1856)年、臼杵の海沿鉄砲町に父確、母シマの次男、7人の4番目として生まれた。家族の暮らしは苦しく裕福ではなかった。
 色男であったが、ガキ大将で喧嘩は強かった。勉強は頑張り、藩校学古館に学び、書道に励み達筆屋であった。金がなくなってもどこにも出かけ働いた。いよいよ上京して金稼ぎをやるため慶應義塾に入るも月謝が続けず、大阪に行き教員養成学校、岡山県立商業講習所、大阪府商業講習所などに行く。
以降、ようやく方向が定まったのであった。
 ・三菱汽船会社への入社。28歳。荘田平五郎の紹介。
 ・同、横浜支店副支配人、東京副支配人。(三菱へ)
 ・営業局仕事の外国出張も、ロンドン、オクスフォー
  ド、ケンブリッジでも働いた。
 ・日本銀行へ入社。 
 ・明治31(1899)年、日銀第五代総裁、43歳。
 ・明治36(1904)年貴族院議員、のち大蔵大臣。
 ・大正9(1921)年爵位拝命男爵、65歳。

 山本達雄は、長く荒仕事、力仕事を遂げた。そして幕府(1856)から明治、大正より、昭和23(1948)年という第二次大戦後までを生きた。92歳。

 臼杵人を代表する山本と吉丸の会話があった。力仕事の上に日銀総裁(明治31年)になった山本は、これも猛勉強を経て東京帝大卒業した(明治34年)吉丸が珍しく、大酒呑みという噂を知っていた。
早速、吉丸が大学卒業のため山本に挨拶すると、
「それは良かった早速に俺の処へ来い」
「私は文科出の者で使いものにならないでしょう」
「何だお前文科出か。大酒を呑む、苦学生の面倒を見てると聞いていたのでテッキリ法科出身の暴れん坊と思っていたヨ」
と笑っていた。(吉田稔氏記)
 山本達雄も、吉丸一昌の美しい歌の調べ(「故郷を離るる歌」など)を聞くことも無かっただろう。

臼杵人物記 吉丸一昌

2025-02-08 14:07:26 | 文化(音楽、絵画、映画)



 既に、早くも春分を過ぎて陽気を迎えようとするが、風は冷たく、冷気は厳しい。そして、この時節を迎えると必ず小鳥たちがこの歌を唄う。

  春は名のみの 風の寒さや。
    谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず。
   時にあらずと 声も立てず。 (以降略)
          吉丸一昌 作詞
          中田 章 作曲 

   
  わが庭には、鶯(うぐいす)ではなくメジロが…


 吉丸一昌(明治6年9月15日生、臼杵町海沿、のち市浜住)は、特に語学、漢文、文学に優れ、臼杵をも超えて大分中学(元上野丘)、第五高等学校(熊本大学)を学んで、明治30年には東京帝国大学(東京大学)に上りつめた。加えて音楽に優れ、『新作唱歌』全十集など作成、自らの名歌も多く編集していた。
  吉丸一昌は、その時(明治30年)東京に行くため臼杵を発った。交通機関もなく大分に向かうため、豊後の六ヶ迫峠を歩いた。その峠から臼杵の町をふり返えり、この美しい歌を詠ったと言われている。

  園の小百合、撫子、垣根の千草。
   今日は汝を眺むる最終の日なり。
    思えば涙、膝をひたす、さらば故郷。
  さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。  
                 (以降略)
             吉丸一昌 作詞
             ドイツ民謡
 
 吉丸一昌は大正5年3月7日急逝、44歳。

      

投票ボタン

blogram投票ボタン